思い出ケチャップライス③
『大丈夫よ。小夜と織衣ちゃんがお嫁に行くまでは死なないからね』
そう言って、久理子はぎゅっと両目を閉じて見せた。それは久理子のウインクだ。
それが、久理子との最後の会話になるとは夢にも思わなかった。
「……ちゃん、小夜ちゃん?」
尾崎に声を掛けられ、ふと我に返る。尾崎の方を見れば、その背後には見覚えのある景色が見える。久理子の家の近所だ。
「寝るなら目ぇ閉じて寝てくれって言いてえとこだが、そろそろ着くぞ」
「……私、こっちに来ましょうか」
半ば無意識に呟く。
「あ? おいおい、寝言は寝てから言ってくれな」
「そうすれば織衣ちゃんを家に一人で置くよりは安心だし、食堂も開けられるし」
言いながら意識が覚醒していく。
口にすると、それが一番いいのではないかと思う。
織衣は寮がある高校に入るわけではないだろうから、一人暮らしをするしかない。東京で暮らす小夜と仙台にいる織衣の生活費を、小夜が一人で負担するのは不可能だ。
それならいっそ、小夜が仕事を辞めて久理子の家にくればいい。女二人暮らしも大丈夫なのかと眉を顰める人はいるかもしれない。それでも小夜は成人して長い年月が経つ。近くに警察署があると久理子が言っていたから、防犯という意味ではいいエリアだ。
仕事は食堂を再開させればいい。小夜の料理の腕は久理子仕込みだ。
ただ年度末に辞めるのは学校に迷惑をかけてしまう。そして担任をしている子たちを、見捨てるようなかたちなることが気がかりだ。
――特にお母さんを亡くした真凛が。
真凛はしっかりした子だからと思う反面、それは生徒に甘えているだけだと自分に言い聞かせる。でも芳子先生がいると、今度はベテランの先生を頼りにしてしまう。主任の芳子先生は彼女たちが入学した時から学年主任として持ち上がりだ。来年度も彼女たちと一緒に進級するだろう。
「小夜ちゃん、しっかり目ぇ覚ましてから考えようや。やっぱり撤回しますなんて言ったら、織衣ちゃんがショックだぞ」
そうだ。真凛にはまだお父さんがいる。学校に行けば芳子先生をはじめとした二年生の先生たち、友達もたくさんいる。だが織衣には少なくとも家族はいない。
「それに仕事はどうすんだよ? これからじゃ、あっても任期付き教員しかねえんじゃねえのか?」
県採用教職員の採用はすでに終わっている。年度末は異動が発表されるシーズンだ。
「祖母の店を開けます」
「いきなり転職して大丈夫かい? 店を開くことはできても、利益を出し続けなきゃいけないんだぞ」
「えぇ。わかってます」
そこで言葉を切って、尾崎を見る。その顔には大丈夫かと書いてある。
「それ以外に、織衣ちゃんを一人にしない方法はありませんよね」
織衣の身内は今のところ、小夜だけだ。織衣の今後は織衣が東京に来るか、小夜が仙台に来るかの二つに一つしかない。
東京で小夜が借りている1Kの部屋で暮らすことはできない。少なくとも二部屋ある物件をこれから探しても、いい物件はもう埋まっている。それに織衣が通う学校を決めて、小夜の通勤時間を考えての物件探しとなれば至極困難でしかない。
仙台なら、小夜が引っ越してきて祖母の店を開けばいいだけだ。それが一番現実的で、引っ越しシーズンで引越業者が割高だとしても最少のコストで済む。
尾崎はうなり声をあげて、タクシーの天井を見上げる。
「正直、俺としてはその方がありがたいが、いいのか? ほぼ他人みたいなもんだろ?」
ほぼ他人。その正直な言葉に、尾崎は信用するに足りる人物だと直感する。やはり久理子は接客業をしていただけあって、人を見る目が肥えている。
「寮母さんみたいなものだと思ってもらえばいいです。それに睡眠時間をのぞけば、高校生なんて家より学校で過ごす時間の方が長いですから」
朝は慌ただしく出ていき、夕方帰ってきても小夜は店に出ている。顔を合わせるのは朝と夜の数時間だけになるだろう。
「……そうだな。腹違いの姉ちゃんじゃなくて、寮母さんだと思ってもらえればな」
よしと尾崎は自分の太ももをパンと叩く。
「俺も最大限協力するから、やってみろ。いざとなったら、うちの母ちゃんもいるからな。俺は今日から小夜ちゃんと織衣ちゃんの応援団長だ」
ガハハと笑う尾崎に、気持ちが少し楽になる。車内に響いた笑い声は力強い応援団長のものだった。
久しぶりに訪れた咲くまの前は静まり返っていた。店の横の細い通路から自宅の玄関に向かうにつれ、線香の匂いが漂ってくる。その匂いに、否が応でも久理子が亡くなったことを突きつけられる。
インターホンを鳴らすことなく玄関を開けると、尾崎は中に向かい「満子さーん」と声をかける。
――満子さん?
尾崎の後ろで小夜が首をかしげていると、和室から顔を出したのは白い割烹着姿の中年女性だ。丸顔でややふくよか、年齢は四十代後半くらいだろうか。今はその丸い顔に疲れが見える。
「一晩どうもね。小夜ちゃん来たよ。小夜ちゃん、こちら久理子さんとご近所の斎藤満子さん。織衣ちゃんの面倒みてもらってた」
「すいません、ありがとうございました。本当なら、私がすぐ来るべきだったのに」
「いいのよ。困ったときはお互い様でしょ。本当、立派になってねぇ」
満子は小夜を見て目を細める。
「十五年以上会ってなかったからねぇ。美由紀、覚えてる? よく夏休みとか遊んでもらった」
小夜の脳裏に、両親が離婚する前の記憶が浮かぶ。
久理子のところに遊びに来ると、目を輝かせて駆け寄ってくる女の子がいた。小夜より五、六歳ほど年下で、おしゃれが大好きな子だ。近くに住んでいたのが男の子ばかりで、年齢が離れていても同性ということで小夜を慕っていた女の子。
「美由紀ちゃんのお母さん」
反応が保護者に対するものと同じになってしまったと一瞬遅れて気づく。
細身の美由紀は体型は父親に似たらしいが、大きな目をはじめとした顔の中のパーツは母親そっくりだ。
満子は頷くと、和室の方に目を向ける。
「おばあちゃん、帰ってきてるから顔見せてあげて」
満子に促され、初めて久理子の家に上がる。掃除が行き届いていて、床の隅にうっすらほこりが見えることもない。
玄関から上がってすぐ、引き戸を上げると布団に横たわる久理子の姿がある。その前に座り、こちらに背中を向けている黒いセーターの女の子の姿が見える。髪の長いこの子が織衣だろう。
「織衣ちゃん、小夜ちゃん来たわよ」
満子の口ぶりに、小夜のことはすでに説明されているのだろうと推測する。説明した可能性が高いのは尾崎か斎藤母子だ。久理子が満子の母と今で言うママ友だと聞いたことがある。
「……何しに来たの?」
織衣の冷たい言葉が刺さる。
織衣ちゃんとたしなめるような満子の声がするも、織衣は久理子のほうを向いたまま言葉を続ける。
「今まで来ないで、おばあちゃんが亡くなった途端にやってきて。……人が死ぬと親戚をかたって出てくる他人?」
「幸か不幸か、小夜ちゃんは織衣ちゃんと半分血のつながった姉ちゃんだよ」
「証拠は?」
尾崎は織衣の斜め後ろにどっかりと腰を下ろすと、バッグからクリアファイルを取り出す。