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思い出ケチャップライス①

「クリコサンがなくなった……?」

 耳に入って来た意味不明な言葉を復唱する。

クリコサンって何? グリコーゲンとアミノ酸のハイブリッドか。

『ばあちゃんだよな。佐久間久理子さん』

 佐久間の名字にピンとくる。佐久間はかつて小夜が名乗っていた姓、離婚した父の姓だ。そして久理子は父方の母の名でもある。

「祖母が……」

 久理子さんが亡くなった。祖母が亡くなった。

 最後に会ったのは去年の春、およそ一年前だ。あの時は相変わらず元気そうで、食堂を切り盛りしていた。顔色も良かったし、接客業をしているからか年齢より若く見え、認知機能もしっかりしていた。

 ――それなのに。

 気を抜くと力が抜けそうになる足を踏ん張り、スマホを握る手にも力を入れる。

『わし、久理子さんの代理人弁護士の尾崎太郎な。太郎さんって呼んでくれ。若い女の子にはいくら呼ばれても結構!』

 うははははという男性の笑い声の後で、スパンと切れのいい音が響く。しいて言うなら、ハリセンで後頭部を叩いたような小気味いい音だ。

『さっさと本題に入りなさい!』

 尾崎の身内だろうか。怒った女性の声が電話の向こうから若干聞こえる。

『いてててて……。小夜ちゃん、今、仕事帰りか? 話してもいいか?』

「えぇ。今、職場を出たところです。お手数をおかけしまして、申し訳ありません」

『それがわしの仕事だからな。久理子さんに何かあった場合、緊急連絡先として申告してもらってたんだよ。孫・愛澤小夜って』

 尾崎と話しながら、小夜は校門の壁に寄りかかる。歩きながら話していい内容ではないし、歩きながら話せるほど器用ではない。

 午後六時、普段なら部活終わりの生徒たちでにぎわう校門も、終業式を休み明けに控えた今日は静まり返っている。生徒たちは帰宅しても、教師たちは後片付けやの終業式の準備などをしていれば帰宅時間はいつもと変わりない。

 こういうときに、まだ家にすら帰れていない自分を呪う。これから家に帰って、必要最低限の身の回りの物と喪服を持って新幹線に飛び乗らなければならない。仙台行きの新幹線の最終は何時だろうか。

 何事も、小夜が帰らなければ進まない。久理子の成人した身内は小夜だけだ。

『死亡届のサインだけは身内じゃないといけないからな。小夜ちゃんと久理子さんの関係を証明する戸籍謄本は親父さんの分も含めて、久理子さんから生前にもらってるから』

 両親が離婚していても、久理子が小夜の祖母であることに違いはない。両親が離婚したのは小夜が中学の時と十五年以上前だ。久理子の近所で、小夜のことを覚えている人はどれだけいるかわからない。

 戸籍謄本は人が亡くなると現れる、自称・親戚だと近所の人たちに誤解されないための苦肉の策だ。

『織衣ちゃんに署名してもらうのも、ちょっとな』

 誤解されかねない理由の一つが、それだ。

 織衣は父・茂が再婚して生まれた子だ。小夜の腹違いの妹にあたる。十五歳、中学を卒業したばかりの織衣はこの十年ほど、久理子と二人で暮らしてきた。名字はもちろん、久理子と同じ佐久間だ。だから久理子の孫というと織衣を思い浮かべる人が多いだろう。

 そこにいくら父親が同じであるとはいえ、小夜が顔を出せば誰かと思われる。

『ここが一番大事だけどよ、久理子さん、織衣ちゃんに何も言わないまま逝っちまったからな』

 スマホを耳にしたまま、小夜は空を仰ぐ。街灯や近隣の店の看板の明かり、マンションから漏れる明かりで東京の夜空は明るく、星は見えない。

 織衣は小夜のことを知らない。小夜のことどころか、茂が自分の母親以外の女性と家庭を持っていたことすら知らないはずだ。久理子が言わなかったのはもちろんだが、最も説明責任があると思われる茂は久理子より先に夫婦で逝ってしまった。

 両親を一緒に亡くした織衣は当時四歳、異母姉妹なんて言葉を知るはずもなければ、父親は自分だけのものだった。きっと今だって、最愛の父親が誰かの「お父さん」であったとは夢にも思わないはずだ。

そして今、唯一の身内であった久理子を亡くして一人きりになったと思っているのだろう。

『織衣ちゃんは今晩、近所の奥様方が面倒みてくれるそうだから。小夜ちゃんは明日、新幹線でこっちに来てくれ。来れるよな?』

「えぇ。祖母の家に向かえばいいですか」

 幸い、明日は土曜日だ。それでも忌引きを使って三日――場合によっては有休を使ってさらに――休むことになるだろう。

『先にうちの事務所に来てくれ。それで久理子さんのとこには俺と一緒に行こう。「はじめまして、お姉ちゃんです」って、やるよりかいいだろ』

「すいません、助かります」

 小夜は人見知りをするたちだ。教職はなんとかやれているが、腹違いの妹に「はじめまして、お姉ちゃんです」と言う度胸はない。

『織衣ちゃんの今後もどうするか話さなきゃいけないからな』

「……そうですね」

 三月半ばも過ぎ、四月から進学する高校も決まっているはずだ。制服の採寸に行く予定がすでに決まっているかもしれない。

 進学先はおそらく仙台市内の高校だ。仲良しの友達と同じ高校に行くことを楽しみにしているかもしれない。そうでなかったとしても進学で環境が変われば、慣れるまでは大変だ。ただでさえ大変なのに、祖母を亡くしたばかりではよりストレスも感じるだろう。

そこに小夜が現れれば、なおさらだ。

『詳しい話は明日な。何かあったらこの番号に電話してくれ。俺の携帯だから。寝つけないかもしれないけど、今夜はゆっくり休んでこいよ』

「えぇ、明日はよろしくお願いします」

 電話を切ってため息をつく。

 人は死んだらお星さまになって、みんなを見守っている。

 幼い頃、そう話してくれたのは久理子だった。

 空を見上げても、星は見えない。


 年に一度訪れる街は鈍色だった。久理子の死を悼んで、空が喪に服しているようにさえ感じてしまう。

 クローゼットの奥から引っ張り出した喪服にストッキング、冬の黒いコートを羽織って降り立った仙台はまだ冬の寒さが残っていた。東京では桜が開花し始めていても、東北の春はまだ先だ。

「そういえば、久理子さんの死因話してなかったな」

 久理子急逝の連絡をもらって一夜明け、新幹線に飛び乗ると目指したのは仙台市内にある尾崎法律事務所だ。そこで尾崎と顔を合わせた小夜を待っていたのが、久理子の死亡届への署名である。

 死亡届に署名すると、それを持って一足先に車で出て行ったのは尾崎の妻・紀香だ。紀香が役所に死亡届を提出し、尾崎と小夜は久理子が待つ自宅へ向かう。自宅へタクシーで向かう途中、尾崎に言われて初めて久理子の死因さえ知らなかったことに気づく。

「急性心不全。苦しむことはなかっただろうってのが、医者の見立てだ」

「そう、ですか」

 苦しむことはなかった。その言葉に少しだけ救われる。

「雨が降ってきたのに布団が干しっぱなしでおかしいと思った常連客が店に入ったら、久理子さんは食堂で倒れていてな。それで救急車呼んでくれたんだと。もりかなさんとか言ったかな」

「そうだったんですね」

 もりかなさんには悪いが、第一発見者が織衣でなくてよかったと思ってしまう。十五歳の子が、突然倒れて亡くなった肉親の死をどのように受け止めるか。そしてそれを見つけたのが自分だったら――。

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