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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

世界の狭間に夢中になっている

作者: 人間様

 昼が嫌いだ。カーテン越しにも燦々と降り注ぐ日光が、私に社会性を求めてきているように感じるから。社会に支えられて生きていながら、社会に属せない自分が嫌になる。夜が嫌いだ。現実から切り離された様な感覚を抱くから。どうしようもない不安感に襲われて、朝日が恋しくなる。鬱病を患ってからは、それらはさらに加速した。日中、光がやけに不快に感じて、カーテンを閉め切り、電気も消した。世界の中にいながらも、孤独を感じた。それくらいなら、世界から消えてしまいたいと思った。夜は対照的に、世界が私から遠ざかっていく様に感じた。そこは私一人の世界。他者を感じない世界。今度は本当に孤独になってしまった様で、人の存在を確かめたくなった。そうしてまた朝日を望む。最早この不安感から逃れる事は出来ないと思った。

 家を出た。深夜2時。突然の衝動。何の意味を持つのか分からない。どこに向かっているのかさえ分からない。ただ、この不安感を解消したくて仕方がなかった。外出するにしては大した服装じゃないし、大した物も持ってない。投げやりと言い表す程捻くれた理由ではない。ただ、どうでもいい。着込んで来なかったせいで冬の寒さに凍えようとも、鍵を持たずに出掛けて家から閉め出されようとも。いっそのこと暴漢にでも襲われたらいいと思う。多分抵抗はするけど。そうして強姦され、痛めつけられ、死体を海に遺棄されて、5年後くらいに発見されて、ニュースで可哀想な被害者として取り上げられる。そのくらいで丁度いい。それが死であたっとしても、この不安感から逃れる為ならなんでもいい。

 3駅分くらい歩いて、人生で数回だけ来たような公園の近くを通り過ぎようとする。最中、ブランコに乗る人影がある事に気づく。そうして私の意識の中に、漠然とした、でも確かな衝動が湧いてくる。そうしてブランコに向かって歩き出す。ブランコに近付くにつれて、人影の詳細が少しずつ分かってくる。シルエットは女性のもので、服装は……ゴスロリ?よくよく見てみると歳はそう変わらない、でも少し歳上くらい。多分二十代前半くらいだと思う。足元にはコンビニ袋、手には缶ビールが握られている。私が近付いてくるのに気づいた彼女は、不思議さと興味を足して薄めた様な視線で私を追いかける。私が彼女の隣のブランコに座ると、彼女は私を数秒見つめてから、また視線を缶ビールへと戻し、少し口にする。私は少しブランコを漕いでみる事にする。久しぶりのブランコに、ここまで歩いてきた疲労もあって、大した振れ幅にはならない。ブランコの金属音が周囲に響く。暫く、そこには沈黙と同時に確かな違和感が流れていた。何かが動き出すための前座のような、極めて作為的な力がその空間を満たす。

「ねぇ」

 一連の奇怪な私の行動に、彼女の中での違和感は限界を迎え、ついに口を開く。とりあえず声をかけたものの、その後の言葉について考えていなかったようで、喉元から言語化されていない感情が出てきかけているように、少し何かを言いかけて、そうして止めるのを数回繰り返し、漸く彼女の口からはしっかりとした言葉が発された。

「君、いくつ?」

結局、私から漂う異様さの何処かに触れるでもなく、質問はより典型的なものに落ち着いたようだ。私はその単純で典型的な質問を数秒かけて飲み込み、自分の中で答えを用意してから口を開くまで、さらに倍くらいの時間を掛けて、この質問に似つかわしい淡白な答えを、これまた淡白なトーンで返す。

「17……」

答えに驚いたのか、それとも答えの単純さに比べて思考時間が長いことに驚いたのか、彼女は数秒腑抜けた顔をして、その後分かりやすく思案し始める。多分、その思考の中には私への配慮も含まれている。

「じゃあ私の方がお姉さんだ」

粋な事を思い付いたような表情で、片手に持っていた酒缶を少しコチラに見せてそう言う。さして返答を必要としていない言葉に対し私は、それを一応受け取るだけ受け取って、でも一切の素振りを見せずに、何も言わずにそのままブランコを漕ぎ続ける。私がしっかり会話の場には居ることを察した彼女は、そのことに安心して調子良く喋り始める。

「少女ちゃんはなんでこんな時間にこんな所に?危ないよ?」

「あなたこそ」

相変わらず口が重いので、言葉はより端的になり、詳細は相手の推察に委ねられる。

「まぁね」

お互いに正面を向いて喋っていたのが、少しの間視線が平行ではなくなった。彼女の視線は、少し現実から外れた気がした。返答から察するに、彼女もある程度の客観性と危機感を備えているんだろう。人柄を鑑みずに考えるなら私と同類だとも推察できるが、その立ち振る舞いは余りにも私の想像する精神性とはかけ離れている。視線が正面に戻り、自分に言及されたことを無かったことにするかのように、彼女は私への質問を続ける。

「家出とか?」

首を振る。

「なんかの用事?」

また首を振る。

「まさか、散歩だなんて言わないよね?」

少し考えて、首の動作という両極端では表せないと思って、口を開く。

「多分、そんな感じ。よく分からない」

その返答の直後、少し、彼女の雰囲気が強張った感じがして、その後、感傷に浸るかの様な表情を見せた彼女の顔を、彼女の反応が気になってそれとなく横を向いた私の瞳は捉えた。そこには少し、羨望の眼差しを感じた。

「死にたい?」

 ビクッとした。突然の方向転換に、そしてそれよりも、自身の中で認めていない本質に気付かれたようで。私の外出の行動原理に対する彼女の心当たりは、見事に私が私に向き合う事を強制した。自分と向き合う。自分の中で、彼女に指摘された感情を探し、それに最も近いものを見つ出す。そうして、その感情の正体を、詳細を、起因する事柄を、頭で纏めても尚、背徳的な発言をすることを暫くの間躊躇った。その間、彼女は先駆者としての安心感を発し続けていた。

「どちらかというと、消えたい。現実の全部から逃げたい」

彼女は私の気持ちをしっかりと受け止めて、安心感を持って私に共感する。

「現実ってやつは、どうにも世知辛いよね」

けれど、この共感は微妙にすれ違っている。その事に気付いた私は、弁明の必要性に迫られる。

「いいや、違うの、お姉さん。私を取り巻く現実は何も厳しくない。私に訪れる不幸は全て私の能力不足で……」

咄嗟に出たその言葉は、自分の弱点を、醜さを、自ら表明しているようなもので、それはそれは慚愧に耐えないものだった。けどそれ以上に、ただの自分の弱さを、周りの環境のせいとして共感を得ているその事実に対する自責の念から逃れたかったのだ。そんな、みっともない私を、彼女は少し切なそうな顔で見守ってくれる。私はきっと、彼女がこんな表情になる事を、彼女の目に私が哀れな被害者として映る事を理解していた。

「私は少女ちゃんの事よく知らないからさ、君のせいじゃないなんて軽くは言えないけど、たとえその悩みが少女ちゃんの弱さから来るものだとしても、それは君にとって等身大の悩みなんでしょ?だったらそこまで自分を責めなくてもいいんじゃないかな」

彼女は、私が発する言葉の端々から、所作の一つ一つから、どこまで私を理解しているのだろうか。彼女が発したその言葉は、多分、今の私に対する一番のベストアンサーなんだと思った。それでも、私は自分を許す事を拒み続けるしかない。それは単純な理屈ではなく、感情と理屈が相互に作用し合って出来た、強迫的なまでの思い込みだ。

「それでも、私は、自分を責める事を止めれない。周りに何も返せない私にとって、迷惑をかけ続けている私にとって、自分を許さない事がせめてもの謝罪だから」

それが何も身にならない事を、それで周りが喜ばない事を、彼女の掛けてくれた言葉に対する返答として不十分である事を、私は理解しながらに、でも精一杯頭を回して反論する。彼女は、私の反論の空虚さを直ぐに理解した。その上で、ゆっくりと私の言葉を噛み締める。何も言わないで。

「死にたいなんて、そんな事を思う事すら烏滸がましいんだ。私は逃げちゃいけなくて、私の罪と正面から向かい合って、ちゃんと加害者として相応しい自意識を持たなきゃダメなんだ」

思考が加速する。今まで反芻してきた思考の断片が、絶え間なく口から溢れ出す。

「いいや、加害者として自分を傷つけている自分が好きなのかもしれない。逃れられない罪に苦しむ自分が、加害者であるしかない自分がある意味で被害者だと思っているんだ。辛い現実を乗り越えるより、精神を病む方が楽だから、そうやって逃げているんだ」

それは止まるところを知らない。

「だとするなら私はどうすればいいんだろう。現実に立ち向かえる程強くなくて、でもその状態の自分にすら酔っていて、周りをただ傷つけて、死ぬ勇気すらもない。」

私という存在が、世界から切り離されていく感覚がする。もしかするとそれは、私自身が望んでいるのかもしれない。私の周りを、夜の暗闇が覆っていく。

「だから私は、この世界から消え......」

 トン、と。それは彼女の手が私の肩に置かれる音だ。いつの間にか、私が思考の海に溺れている間に、彼女は私の目の前へと移動していた。確かな温もりが、私の肩に伝わってくる。冬の深夜に、素手で缶ビールを持っていた手にしては随分と温度が残っていた。或いはそれは、彼女の手に宿る温度ではなく、私の中の熱を彼女が引き出したものかもしれない。彼女は私の呼吸と感情が落ち着いたのを確認すると、また隣のブランコへと戻った。

「多分ね、答えはもっとシンプルだよ。少女ちゃんが、この先の人生と戦いたいか否かってだけ。聞く限り、君は自分で自分を責める事を一番安定して楽な選択で、でもそれも辛くて苦しんでいる。だけど、少し現実と戦って、少し勝てば、そうして訪れる明日はきっと今日より素敵な日だ」

少し言葉に詰まる。シンプルな答えに、シンプルでない答えを用意しようとして。

「でも、きっと私は耐えられない。許せない。私がこれからする努力は、他人と比べてあまりに小さいし、その過程で躓く事もある。そんな、他人が当たり前に出来ている事すらも出来ない自分が嫌になる。そうだ、今までも何度か挑戦したんだ。でもその度に小さい事で挫けて、そこにあるのは自己嫌悪だけだ。だから私は、挑戦出来ない程に壊れてしまう事を選んだ。私は挑戦出来る程強くないし、挑戦しない事を自分に許せる程弱くない」

「だから」

彼女の返答は私の想定よりも遥かに早く、やってくるのは非難かもしれないと身構えてしまう程だった。けど次に続く言葉は、私の意図とはかけ離れたものだった。

「だから、私が少女ちゃんの頑張る理由になるよ」

「え……?」

「私は知っている、普通の大変さを。多分、君と同じで。だからさ、少し現実に立ち向かって、その成果を私に聞かせてよ。そうして、君の頑張りの一つ一つを私が褒めるんだ。君に足りないのは、挑戦する自分に対する好感だと思う」

「お姉さんは、それでいいの?」

「まぁこれも何かの縁だしね、多分、少女ちゃんの幸せは私にとっても嬉しい事だ」

「いつ……?」

「ん?」

「お姉さんは次、いつここに来るの?」

「いいや、少女ちゃんがここで私に会うのはこれで最後だ。君が自分に満足して、明るい顔をして街を歩いてる時、ふとすれ違ったら必ず声を掛けに行く。その時、積もりに積もった話を聞かせてよ」

「会えない確率の方が断然高いと思うんだけど」

「会えるか会えないかは重要じゃない。少女ちゃんが私に会った時、出来るだけ明るい話をしようと試みる事が一番大切なんだ」

「でも、私はまた話したい」

「私と話したいなら、同じ様な時間に周辺を歩いてみるといいよ。多分どこかにいる、暫くは。でもね、少女ちゃんの居場所はここじゃない。だから、もう来ちゃダメだ。少女ちゃんが立ち向かうべき大きな敵は、少女ちゃん自身だ。敵に相対する理由が出来た君に夜は相応しくない」

なんとなく、彼女の口から”敵“という言葉が出る事が意外だと思った。私が今まで、彼女と話した中で見えてきた彼女の輪郭は、その言葉を口にしない。でもそれ以上に、彼女の言葉は、何か重要な前提を敢えて外している様な違和感があった。

「“私と違って”?」

「え……?」

「私はまだ、お姉さんの話を聞いてない」

 そこで私は初めて、自分から彼女の方を向く。しかし、すぐに目を逸らしたくなった。さっきまで私を温かく見守り絶え間なく安心感を与え続けていたあの瞳は、まるで虚空でも見ているかの様にすっかり虚ろになり、私の方を少し向いて少し笑いかけているにも関わらず、視線の先が私だとは到底思えない。いいや、違う。彼女は間違いなく私を見ている。私を含めた現実を、しっかりと見ている。ただ、彼女の見る世界に希望はない。光はない。現実は何一つとして面白いものではないと、彼女の目が語りかけてくる。彼女の周りは、私が自身で纏っていたものよりずっと濃い闇が、夜が渦巻いている。あぁ、彼女は夜に生きているんだ。

「聞いて面白いものじゃあ、一切ないよ」

「それでも私は聞きたい。一方的に救われるなんて御免だね」

「少女ちゃんが私を救おうとしてくれているのなら、それこそ話さない方がいい事だ。自分と戦うのに精一杯な君に、私の現実まで背負わせる訳にはいかないよ」

「私が現実に立ち向かって、そうして経験した明るい話を、お姉さんは未だ救われないで聞こうって?」

引くな。彼女が、私の言葉をどんなに躱そうとも、彼女を取り巻く現実がどんなに闇に塗れていようと。彼女を救う事は、私が立ち向かうべき最初の現実だ。今の私の身の丈には合わないかもしれないけど、これを逃したら、彼女は一生このままだと、私の直感が告げている。

 彼女は長いため息を吐いて、その後諦めた様に喋り出す。

「私はもう、とうに諦めてるんだよ」

「それでも」

半分くらいは、意地になっているのかもしれないと、自分で思う。

「最初に断っておくよ。この話を聞いても何も行動しない事。間違っても私の代わりに私の現実に相対しようなんて考えちゃダメだからね?」

「分かった」

 彼女は、未だ躊躇いを見せながらも、少しづつ語り出す。

「私が覚えている最初の記憶は、食器の割れる音、父親の怒鳴り声、鈍い打撃音と、女性の悲鳴。きっとその記憶を覚えているのは、子供ながらにその空気の絶望感にショックを覚えたんだと思う。勿論、その状況の詳細な意味を理解したのは物心ついてからだけど」

「それって......」

「想像する通り、家庭内暴力。私の父親は所謂DV男ってやつでね。あの人が言うには、母親が悪いんだと。小学生になる頃には母親はいなかった。正直同情はしないよ。あの人を選んだのは母親だし、人を見るだけの目がないのは、単に当人の能力不足だ。それに何より、故意であろうとなかろうと、私を現実という名の地獄に産み落とした張本人だしね」

現実という名の地獄。彼女は自分の環境について語るとき、かなり口調が強くなる。それはまるで、自分の周りの環境は全て敵だと言わんばかりに。

「かといって、今更恨んでいるわけでもない。恨んだって何かが変わるわけじゃない。そんなんで変に疲れるくらいなら、そういうことにしておく方が断然いい」

それは彼女なりの現実との上手い付き合い方なんだと思った。

「そうして母親が居なくなって、暴力の矛先は私に向いた。小学校から帰ってきて、タバコ臭い部屋で家事をして、料理中にちょっと咳き込むだけでも怒鳴られて。結局家事は全部私がやって、放課後に遊ぶ時間もなくて、友達もいなくなって。一回孤立すると、少しの違和感がどんどん際立つみたいでね。拳を振り上げられると反射的に身を竦める癖がバレてからは、悲惨だったよ。それで遊ばれて、最後には拳を振り上げる動作は実の伴ったものになった」

 半笑いで、でも目は虚ろなままに、彼女は続ける。

「中学に入ってね、人間関係もリセットされて、学校ではそれなりに上手くやってたんだ。ちゃんと勉強して、少しばかりの友達も出来て、ちょっと付き合いの悪い普通の女の子。自分はこれから上がっていけるんだって、幸せになれるんだって思った。希望を抱いちゃった。中学3年の夏、視線に違和感を感じたんだよ。というか、いつも視線の奥にあったものを、あの人が隠さなくなったんだ。薄々気づいてた。でも怖くて、認めたくなくて気づかないフリをしていた。」

私はこの後に続く内容を、浅い見分ながらに知っていた。彼女の話が進むごとに、自分を恥じる気持ちが強まっていった。それでも逃げれない私は、もう殆ど分かっている展開を、どうか訪れないでくれと願うしかなかった。

「いつもみたいに帰ってきて、半袖のシャツにスカートの制服で、家に帰ってきて。あの人は、帰ってきた私を見るなり自分の部屋に呼び出して言うんだ。『お前も女らしくなってきたな』って。その一言が表す意味なんて、もう無意識の内に気づいていたんだ。あの人が私の腕に触れて、その次の瞬間にはもう手を振り払ってた。そうして罵詈雑言を浴びせて、部屋から出ようとしたんだ。現実に希望を持って、やっと普通に近づいているって思っていたのに、それが壊されるのが凄く怖かったんだ」

もういいよ。もう喉元まで来ていたその言葉を発するには、彼女の存在を私の現実から切り捨てる必要があった。でも、受け止めると決めたなら、最後まで聞かなきゃいけない。これが彼女の現実なのだから。既に私の後悔は最高潮に達している。

「でも、あの人は私を数発殴って、そうして部屋にカギをかけて閉じ込めるんだ。勿論殴り返したよ。気持ち悪いって言葉と共に。でも、女子中学生から見た成人男性の体はあまりにも威圧感があって、その体格差は、子供が立ち向かうにはあまりに大きい現実で、何度か殴られてる内に、もう抵抗しても無駄なんだって思った。抵抗をやめた事を確認したら、その場で服を脱げって言われて。ゆっくり、脱いでる間に気が変わらないかって願いながら脱いで、でもどうしてもブラジャーとパンツだけは脱げなくて、手が止まって泣き出したんだ。グダグダするから面倒くさくなったのか、それとも反抗したことへの意趣返しか、土下座しろって言われて、言われるがままにした。ごめんなさい、ごめんなさいって、謝りながら。その後、無防備な体勢の私を体感10分間くらい執拗に蹴って、殴って、何かを言ってたけど、何を言っていたかは覚えてない。もうきっと、全部が悪いんだろうなって思った。一通り私を痛めつけ終わったら、あの人は”それ”を取り出して、私に舐めろと言った。もう既に抵抗する気が失せていた私は、痛みと寒さと恥ずかしさと気持ち悪さで震える身体を起こして、その通りにした。吐き気を必死に抑えて、ただあの人の生理現象を待ってた。地獄みたいな時間だったよ。そうして出てきた”それ”を、どうしていいのか分からなくて、でも吐き出すわけにもいかないから飲み込んで、その後味の悪さに、口の中に広がる不快感で口を開けない私に、あの人は『下手すぎ』とだけ言い残して出掛けてった。クズでもさ、自己嫌悪はするんだね。私の暴言が効いたのか、単に出した後に冷静になったのか、それからはなんもされてない。けど、その経験は私から人としての矜持と、生きる希望を根こそぎ奪って行った」

私は、予想していた通りの話に、世界の何処かでは存在すると、知識だけで知った気になっていたその現実を目の当たりにして、なんと言えばいいのか分からなかった。

「その30分間はね、その先の、中学を卒業してから今までの6年間を、大きく損なうに足るものだった。それまではあった、顔は殴られたくないとか、バイトしながら高校は行きたいなとか、将来は家を出て行こうとか、警察に行こうかとか、自分の人生をより良いものにする気力が一切消え失せて、もうただ、現実を受け入れることしか考えなくなった。そうして今は、生活保護の不正受給で暮らしてる。幸いな事に、収益を得るなって事以外はあんまり縛られなくなってね。ただ機嫌が悪い時に殴られるだけで済んでる。ちょっと清廉な女の子に憧れて、洋服だけは好きだけど、それ以外はただ空っぽに、時が過ぎることだけを願いながら生きてる。多分、抜け出そうと思えば抜け出せるんだ。虐待の証拠を集めるのだって、多分簡単に出来る事だろうしね。でも、あの時あの瞬間、現実に失望しきってしまったんだ。もし失敗したらまた殴られるって恐怖とか、どこにどう頼ればいいのか知らないとか、昔は対外的な理由もあったかもしれないけど、今はもうただ、人生を良くしようと思えない」

彼女が語り終わってからの沈黙は、最後に彼女が発した言葉をお互いの頭の中で反響させていた。それは彼女にとって、自分で自分の意思を再確認する意味を持っているのかもしれない。

「まぁ、そんなところかな」

 彼女の口から終了の合図が出てから、私は自分の中で渦巻く思考と感情を整理していた。数多くある感情で、一際目立つのは、後悔と恥ずかしさと自責の念が入り混じったものだ。でも、それでも、それ以上に大きい感情が、使命感が、私の中で、彼女に伝えられる為に蠢いている。

「多分、私がお姉さんに対してどんな共感の仕方をしようと、それは安っぽいものにしかならないかもしれない。それでも、私は伝えなきゃいけない」

「辛かったね」

彼女が直後にした、腑抜けた顔の、腑抜けた瞳の中に、一瞬だけ光が映った気がした。そして、それを誤魔化すみたいに笑い出す。

「あははっ!いいや、ありがとうね。律儀に前置きまでしてくれて。でも大丈夫だよ。私は別に、自分の環境をどうこうなんて思ってない。少女ちゃんが自分を責める気持ちは分かるけど、それは的外れなものだよ。君には君の、私には私なりの辛さがある。尤も、もう辛いなんて思わなくなったけど」

「なんで……」

「ん?」

「なんで私を、救おうとしてくれたの?もう現実の一切の機微に、自ら関わろうなんて思ってないはずなのに」

 彼女は少し、目を逸らしてから答える。

「そうだよね、私の身の上話をするって事は、私の言葉が如何に無責任で中身のない虚構であるかを自らで明かしているようなものだしね。うん、ごめん。私は正直、少女ちゃんと深く関わって君を救おうとだなんて微塵も思ってない。でも、君の目を見た時、自ら堕ちて行こうと思っているその顔を見て、君を救う事で、私の経験が、言葉が、初めて何かの意味を持つ事が出来ると思ったんだ。たとえ私の人生に私が意味を見出せなくても、私の言葉が君を昼に連れて行くのなら、私の人生にも意味があったんだって思える気がした」

 また感じた、彼女の言葉に対する違和感。彼女の経験談を聞いて再構築された彼女の輪郭は、まだ何かを付け加えたがっている。それは、今度は作為的なものではなく、多分彼女自身も気付いていない。

「丁度良い諦めどきを探しているんだね」

私が推測を加えた上で、彼女の言葉の概要を反復する。その挑戦的一言は彼女にはとても引っかかるもののようで、少し不服そうに尋ねる。

「というと?」

「お姉さんはまだ、現実を諦めきっているわけじゃない。きっと、これ以上現実に失望するのが怖くて、自分で自分に言い聞かせているんだ。その一方で頭では理解している。自分が今持っている現実に対する希望は、現実に立ち向かう灯火に成り得るだけの大きさではないって。だから、私を救って、私がお姉さんの代わりに現実を生きる事で、もうそれで満足しようとしている」

「そうかもしれない。けど、それで良い気がするんだよ。どの道価値のない人生に、少しでも価値が生まれればそれでもう……」

「私なんかが言える事じゃないかもしれないけど、私を救って、そうして家に帰る姿を見届けた貴女はもう、本当に全てを捨てきってしまえる気がするんだ。それはもう、ちょっと躓くだけでも死んでしまうような状態で、その世界でずっと、今度こそ一縷の希望もなく死ぬまで生き続けることになる」

「だから、それで良いんだよ少女ちゃん。それが、私に残された唯一の、安楽死の方法なんだから。もううんざりなんだよ。救われる方法が分かっているのに、そうしようとなんて思えなくなってしまった自分が。君と同じで、段々と自分のせいになってくるんだ。そうなる前に、全部世界が罪を背負ってくれている間に、全てを捨てきってしまいたい」

彼女は自分の思いの丈を、自分でも手探りの状態で、全てを私に伝えてくれる。それはきっと、彼女が6年間してこなかった事で、失言とも成り得ることに気づいたのは、言い切ってしまった後だった。

「ごめん。こんな事を君の前で言うのは、きっと凄く失礼だ」

「大丈夫。お姉さんがさっき言ってくれたみたいに、私は私の環境で生きているだけだから。私がお姉さんとして生きていたら、きっと同じ事を思う」

 私の姿勢が、彼女自身の鏡として機能している事に気づいた彼女は、安心して、そして自らをより深く探りながら、話を続ける。

「もしかすると私は、ある意味での自己防衛として、世界に絶望する事を選び、そして自分に強制していたのかもしれない。今となっては、殴られる時に手で自分を守ろうなんてしなくなったけど、それを最初にしたのは、きっとそうすれば早く終わると思ったから。そして何より、殴られても何も感じないようにする事が、私にこんな地獄を強制するこの世界に対する反抗になると思ったからだと思う。私が殴られてさらに絶望する事で、これ以上私の世界のせいで私を損なわせたくないんだ」

「お姉さんはまだ、自分を大切にしようとしている。そうしようと思える」

「でもだからって、私が私の為に世界に立ち向かえるわけじゃない。それはもう残り火しか残っていない私の心にはあまりに強大な敵だ」

「ずっと考えていたんだ。お姉さんの話を聞きながら。私はお姉さんに何を返してあげられるだろうって」

「いいや少女ちゃん。私が世界に対する希望を幾分か残していたとして、それは君の負担に見合う程の、君の向き合う現実を増やすに値する代物じゃない」

「違うのお姉さん。私ね、まだ怖いんだ。貴女に言葉を貰って尚、傷つきながら現実に立ち向かうことが怖くて仕方ない。出来る事なら、このままお姉さんと話したことをなかったことにして、そうしてその事実ごと消えてしまいたい。だからさお姉さん、もし私もお姉さんも、現実に適わなかったなら、その時は一緒に死のうよ」

彼女は、大事にしていた何かを壊されたみたいな、例えばそれは夏休みに書いた読書感想文をビリビリに破かれたみたいな、そんな顔をして、その後すぐに目つきが鋭くなった。分かっている。これは彼女のくれた言葉を無下にする行為だって。

「駄目だよ!申し訳ないけど、私は君の為に頑張れる程君に入れ込んでない。だから、君がもし私の言葉ではなく、行動でしか止まらないなら、それは最早止めることが出来ない事と同義だ。でも、それは駄目だよ少女ちゃん」

 きっとそこにあるのは、彼女の生きる意味とか、そういう自己満足を否定された事もあるのかもしれないけど、そこには、彼女が自分の境遇とは明確に分離して持っていた、常識的な価値観から来る情愛が、確かに含まれていた。

「でも、もし、もし貴女が、私の後ろ姿を見届けた後も、その僅かな希望を現実に対して持ち続けてくれたなら、私がきっと、貴女の言葉で救われた私が、貴女をきっと助けに行く。だからそれまで待っててほしい」

「それも駄目だ。今度は少女ちゃんが私の為に頑張る事になる。少女ちゃんは、たった一日話した相手の為に何年も頑張れるの?決めつけるようで悪いけど、私も君も、行動で人を救えるほどまだ強くないよ」

そう、そこには何の根拠もない。私がこの約束で頑張れるなんて保証はどこにもない。私が前向きな人生を送ったとして、彼女がまだ負けていないとは限らない。ただ、ここに於いて一番大切なのは。

「大事なのは、そう思っておくことだよね?私が実際、お姉さんを助け得るかは重要じゃない。お姉さんが、私から助けられると思っておく事で、一縷の希望を紡ぎ続ける事で、いつかその希望がお姉さんの中で大きくなるその日まで、お姉さんが生きられる」

「待ってよ、それじゃあまた振り出しだよ。もうそろそろ止めたいんだ。自らで自覚しながらに、現実から目を背け続ける毎日を」

「だから、お姉さんに足りないのもきっと、現実に立ち向かうだけの勇気と原動力だ」

「そうだけど......」

 私はブランコから立ち上がり、隣のブランコへと歩き、彼女の前に立つ。彼女は、私を最初に見た時の様に、不思議さと興味を足して薄めた様な表情でこっちを見る。でもさっきとは違って、そこには期待が含まれている事を、目の前に立って確かに感じる。

「ごめんねお姉さん。私、貴女の地獄をちゃんと地獄にする」

そう言って私は、一歩進んで、少し屈んで、そうして両手を彼女の二の腕に添える。やっぱり彼女の皮膚は冷たくて、少し私の手の方が温かいくらいだ。彼女の顔に自分の顔を近づける。今までちゃんと見ていなかった彼女の顔立ちは、案の定端正なもので、自分がこれからする行為の背徳感を増させる要素だった。私は目を閉じ、人生で初めてのその行為にだけ集中する。最後の風景は、少し赤みがかった彼女の顔。きっと半分くらいは分かっていながらも、もう半分は確信に至っていない。

 そうして私は、彼女にキスをする。

やり方なんて知らない。多分お姉さんも知らない。キスと言うにはあまりに薄くて、唇をただ合わせただけの代物。でもそれはやっぱりキスで、お互いの一部を共有できる行為だ。唇に薄っすらとビールの風味が残る。彼女の唇と一緒に、私は彼女の人生を苦しいものに変える。

「お姉さんがされたのは、とても気持ち悪い行為だ。殴られるのは、痛い事だ。未来に希望を持てないのは、とても悲しい事だ」

「お姉さんの人生は、辛かったんだよ」

「普通はね、同性から突然キスなんかされたら怒るんだよ。感傷に浸って行き過ぎた真似をして、ちょっと後悔したりとかもするんだ。今のお姉さんはあまりに全てを受け入れてしまうし、あまりに全てを行動できないでいる。そうしないと傷ついてしまうから。でもそれは全くもっておかしい事だ。変えられて然るべき現実だ」

「お姉さんの動機は、今の自分の環境に対する恨みだ。普通を奪い続けてきた現実に、一人逃げた母親に、気色の悪い父親に、復讐してやるんだ。ほら、クソ親父の股間蹴り上げてやったりさ!」

 私が変なテンションになり始めた頃に、彼女は吹き出して笑いだす。

「ぷっ、あは、あはは!そうだね、そりゃあいい。うん、確かに、それくらいされて然るべき事をしてきている」

彼女から同意の言葉が出てきた事が嬉しくて、変なテンションのままに返事をする。

「そう、そうなんだよ!」

「ふふ、私に普通を教える為にキスしたの?」

思考とテンションが一気に引き戻される。

「あ、いや、うん。そんな感じ。後はなんていうか、お姉さんにとって凄く嫌だった思い出を、ちょっと嫌だっただけの思い出にすり替えたいなって。ごめんなさい」

「別に嫌じゃなかったよ。ちょっと、ビックリしただけ」

「それはきっと嫌だった経験が凄い嫌だったから、基準がおかしくなってるんだ。本当にごめんなさい」

「謝らないでよ。それを抜きにしても、本当に嫌じゃなかったから」

「そっか......」

 暫く、微妙な空気が流れる。空気に耐え切れなかった私は、恥ずかしくなってまた自分のブランコに戻った。話題がリセットされるのに十分な、でもこれまでの余韻は残るくらいの時間が過ぎてから、彼女は自分の思いを噛み締めるみたいに語る。

「なんかね、少しずつムカついてきたんだよね。今すぐにでも家に帰って、あの人の股間を蹴り飛ばしてやりたいくらいに。でもさ、やっぱり怖いんだ。あの人と殴り合いになったら絶対勝てないし、もし公的機関を頼っても、失敗したら何をされるか分からないし。今まで見ないフリをしてきた恐怖と向き合ってみると、思ってたよりもずっと大きくて、立ち竦んでしまう」

「確かに、お姉さんの場合、現実に立ち向かう最中で沢山傷つくと思う。それはきっと、実害を伴った形で。頑張っても、明日が必ず明るいものになるとは限らない。それが一週間続くかもしれないし、一か月、一年続くかもしれない。恐怖に屈してしまいたくなるかもしれない。でも、一生ってことはない。たとえお姉さんが自分で人生を切り開くことが出来なくても、きっと私が救いに行く」

「少なくとも、そう思っておくことで、少しは心強い」

「私は本気だよ!」

「いいや、大丈夫。今後しばらくは自分で立ち向かってみるよ。でももし、もし自分で立ち向かう事を諦めてしまう程に折れてしまったら、君に助けてもらいたい。だから君も、それまでは自分の現実を相手に頑張っていてね」

「もちろん」

 今度はお互いがお互いの存在を確かめるみたいに、これまでの会話の残り香に包まれた私達は、少しの間感傷に浸る。

「ねぇ」

私に話しかけた時と同じ文言を、彼女は私に投げかける。今回その興味は、未知の存在ではなく、私という人間に向けられている。

「少女ちゃんって、レズビアンなの?」

すっかりさっきの行為についての話は終わっていると思っていたので、焦りから答えは配慮に欠けたものになった。

「中学生の時男の子を好きになったから、違うと思う。でも、多分同性にも抵抗はないのかも」

同性が恋愛対象であると答えることは、さっきの行為を彼女の中で嫌悪感を抱くものにする可能性があることを、私はすっかり思考から外してしまっていた。

「そっか。正直に答えてくれたみたいだし、私もそうするね。私はさ、あの件以来ちょっと異性に対して恐怖感とか嫌悪感を抱くようになったみたいで、それ自体は心のどこかで気づいていたんだ。自分で認めてはいなかったけど。でも、自分の気持ちを出そうと思って初めて気づいた事もあって。私は結構人肌を求めてるみたいで、でもそれが異性に向かないから自ずと......」

彼女は恐る恐る赤面した顔でこっちを見てくる。どうやら私が抱いていた杞憂すらも、キスした瞬間から私のものだけではなかったみたいだ。私が彼女の方を見返すと、彼女は少し早口になって弁明しようとする。

「いや、恋愛とかそういう事じゃなくて。純粋に、好意として?の欲求だから勘違いしないで欲しいんだけど!」

「うん」

「ハグとか、して欲しいなって......。き、キモいかな?」

私は要らない心配に、少し笑いながら返答する。

「全然そんなことないよ。友達とハグなんて、女の子同士だと結構するものだって聞くし」

「そっか、友達か。そうだね。そうかも!」

友達というフレーズに随分と満足した様子を見せる彼女は、上機嫌に立ち上がって両手を広げる。

「ん、おいで」

 彼女から頼んでおいて、『おいで』というフレーズを使うのは、私がお姉さんに求めているものを察しているのか、もしくは無意識なのか、どちらにせよ、私はその言葉によって安心感を持って彼女に飛び込める。私も同じく立ち上がり、彼女に近寄る。こうしてお互いに立ってみると、彼女は結構なモデル体型で、身長は私より高いのに、広げる両手は私よりも細かった。彼女の全体像を少し眺めた後、彼女の右肩に自分の顎を乗せる形で、彼女に抱き着く。彼女の胴体は、やっぱり全体的に少し冷たいものの、そこには確かな人間の体温を感じることが出来る。

「ありがとうね、少女ちゃん」

「こちらこそありがとう、お姉さん」

彼女の中では、行為単体に対するものとしてカモフラージュしたであろうその感謝の意味の全容を、私はしっかり受け取って、そうして同じように感謝を返す。真反対の境遇を持つ彼女とお互いに渡しあったものは、奇しくも同じものだった。

「頑張ろうね」

「うん、頑張ろう」

 3分くらい、安心感を与えあった私達は、まだ少しの物足りなさを残して身体を離す。そして、思い出した様に彼女は言う。

「連絡先、交換しないとね」

「交換してくれるんだ、してくれないと思ってた。少なくとも、最初に私を救ってくれた時は、する気なかったでしょ」

「気が変わったんだ。でも、会うのとか、お互いの詳細を教え合うのとか、そういうのはまだやめておこう。ただ、チャットしたり通話したりするだけ。過度な安心は慢心になる」

「お姉さんの場合、少しでも危なくなったら否応でも何か教えてね。お姉さんが戦うのは実害を含む現実だから」

「分かったよ」

少し呆れた感じで、でもちょっと嬉しそうに、彼女は了承してくれた。

「スマホ、持って来てる?」

「いや、持って来てない」

「じゃあ何かメモ用紙とか」

「全部家に置いてきた」

「えぇ......。覚えれたりもしないよね?」

「家ちょっと遠いし、多分忘れる」

「う~ん」

今度は100%の呆れ顔だ。少し悩んでから、彼女は何かを思いついたようで、ブランコの隣に置いてあったハート形のショルダーバッグから、ポーチを取り出し、そしてその中から細いペンの様な物を取り出す。

「それじゃあ、腕出して」

「え?なにそれ」

「これはね、アイブロウペンシル。これしか書ける物なくって」

「嘘でしょ......?」

衝撃を受けている私を無視して、彼女はペンキャップを外し、早速私の腕に自分の電話番号を書き始める。と同時に、電話番号の使い道について説明する。

「明日の夜とかに一回電話掛けてよ。それで、LINEとか交換しよう」

「うん、分かった」

電話番号を書き終えた彼女は、アイブロウペンシルを仕舞うついでに、スマホを取り出し時間を確認している。心なしか、空の青色が強調されてきている気がする。

「もうこんな時間だ。いつも夜明け前には寝てるから、結構眠いんだよね。今日はお開きってことで」

「しばらくは会えないね」

「うん、次は少女ちゃんが昼に生きれるようになってからかな」

「じゃあ結構すぐだね」

「言うねぇ。でも無理はしないでね」

彼女はコンビニ袋に空き缶を詰めて、雑に封を閉める。ショルダーバッグを肩に掛け、コンビニ袋を片手に持つ。

「それじゃあ、またね。少女ちゃん」

「うん、また」

 向き合って、お互いがお互いに笑顔を送る。それは安心であり、激励であり、餞別だ。私に背を向けた彼女は、空いている方の手で軽く私に手を振る。コンビニ袋を持つ彼女の手は、少し震えていた。彼女が手を振り終える前に、私は彼女に背を向け帰路につく。手を振り終わり、彼女のその手が震えているところを、もしくはその震えが止まっていようと、それを確認するのは、私達の関係を邪魔する行為だと思った。

 彼女と別れ、3駅分の距離を歩いている間に、いつの間にか辺りは明るくなっていた。闇の中に混じっていた青色は、今度は光と合わさり主体となっている。彼女はもう家に帰って寝ているんだろうか。一旦は、日の出を見ない生活を送るのだろうか。或いは、彼女よりも一足先に、太陽の光が私を照らす。普段から暗がりにいる私は、久々の直射日光に眩しさを覚える。しかし、そこにもう不快感はない。たとえ世界に拒まれようと、私には世界に属する勇気がある。世界と相対する理由がある。きっとこの先、どれだけ昼間に生きようとも、彼女と話したあの時間は、私にとってかけがえのない、大切な時間であることは変わらないだろう。夜に生きていたからこそ、私達は大切な何かを与え合う事が出来たんだ。そうして、与え合ったものを持って、現実に立ち向かって、またあの場所で落ち合おう。今度は、お互いの進捗の報告をする分、今日より少し長く。きっとあそこは、闇に生きる人たちが、光を共有し合える場所だ。

 家の玄関の前に立つ。今はただ、前を見よう。まだ青み掛かったオレンジ色の光を背にして、私はドアを開ける。

「ただいま」

ご完読ありがとうございました。

彼女達は無事、現実に立ち向かう事が出来たんでしょうか。

今作についての持論など、後書きに書くには余韻を潰しかねない文章を活動報告に残そうと思っていますので、作者の意図や価値観まで作品と解釈する方々は是非そちらもご覧ください。

次回作もご一読頂けると大変うれしく思います。

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