第六話 初めての修行
家に帰り、夕飯を食べ終える。
その後、俺は非常階段を上って、五階にあるワタヌキさんの部屋を訪ねた。
「どうしたんですか?」ワタヌキさんはパンツ一丁で顔を出す。首には飾り気の無い細いチェーンのシルバーネックレスが掛かっている。
「……服着て下さいよ。」
俺は真っ赤なボクサーパンツを見つめながら言った。
「いやー、格闘大会疲れちゃって。早めにお風呂入ってたんですけどね。丁度出たタイミングで来てくれたので、つい。」
ワタヌキさんはニコニコしながら頭の後ろを掻く。
「ワタヌキさんも出てたんですね。そんな事より!チョウシ先生の部屋の場所、教えて下さい。」
「ええ!何かあったんですか?サソリ、まだ戦闘着着てるし。」
「夜会う約束したんですけど、時間も場所も決めてなくて……。」
「うーん。分かりました。多分あそこかなあ。」
ワタヌキさんはパンツ一丁でスリッパのまま出てくる。
「ちょ、流石にその格好で彷徨かないで下さい。」俺は焦って言う。
「大丈夫ですよー。」
ワタヌキさんはニコニコで言った。
俺は呆れた顔のまま、ワタヌキさんの後ろをついて歩く。
居住階は広く、世帯人数毎で階層が異なる。単身の人は上の方の階で、世帯持ちの人は下の方の階だ。全部で何人住んでいるとか、何階建てなのかとか、細かい事は特に知らない。
ワタヌキさんは、廊下の突き当たりに行くと、コンクリートの白い壁に首のネックレスを近づける。
壁が変形してエレベーターが現れた。
二人でエレベーターに乗り込む。階層ボタンは無く、開閉ボタンのみがある。
またワタヌキさんは、ネックレスを摘む。シンプル過ぎる文字盤に近づけると、「一、五、六、七。」の文字盤が現れる。
ワタヌキさんは七のボタンを押す。
静かにエレベーターは上昇して止まる。
恐らくの七階に降りると、ワタヌキさんは直ぐ右に曲がり、しばらく歩き、黒い扉の前で止まる。俺の住む階やワタヌキさんの階は全体的に白かったが、この七階は黒い壁に黒い扉、黒い天井の真っ黒黒だった。
「ここです。多分。」
ワタヌキさんは扉を指差す。
俺はゴクリと唾を飲み、扉を三回ノックした。
しばらく経つと、扉がゆっくりと開く。
「おわ!タヌ、何つー格好してんだよ。」
チョウシさんは、上下スウェットのラフな格好をして居た。いつものオールバックでは無く、長めの前髪の垂れた如何にも風呂上がりな風貌だ。
「サソリがチョーさんに会いたがってましたよ。」
「今日はよろしくお願いします!」
俺は扉の前で深々と頭を下げる、
「おお、来たか。サソリ、取り敢えず入れ。タヌは入んなよ。さっさと帰れ。」
チョウシさんはシッシと手を振った。
「失礼します!」俺は扉の中に入り、振り返る。
「タヌさん、ありがとうございました!」
「お、仲良しあだ名呼び嬉しい!いーんですよ!また何かあったら僕の事頼って下さいねえ。」
タヌさんは、手をヒラヒラと振りながら扉を閉めた。
チョウシ先生の部屋は、フローリングの広いワンルームだった。黒いシーツのシングルベッドと小さな本棚。残りのスペースは筋トレ器具が幾つも置かれていた。ランニングマシーン、腹筋台、ダンベル、なんとかプレス等。部屋の中がジムの様だった。
チョウシ先生はベンチに腰掛けで言った。
「よし、始めるぞ。」
「はい!お願いします!って、何をするんですか?」俺はお辞儀をした後に、顔だけ上げて首を傾げる。
チョウシ先生は片手で前髪を上げる。
「そうだな。当面の目標は『俺と腕相撲して勝つ。』だ。と言っても、俺は小指しか使わねえ。お前は全力で良いぞ。」
俺は頭を上げて目を見開く。
「そ、それって、どう言う意図があるんですか?」
「フルイにかける様なもんだ。ほとんどの奴らはそれすら達成出来てねえ。お前のやる気と根性、センスを見極めさせてもらう。取り敢えず、最初に一発やっとくか?」
チョウシ先生は小指を立てて、顎の高さまで腕を上げる。
俺は静かに頷いた。
チョウシ先生は押し入れから折りたたみのテーブルを引っ張り出して、ベンチの前に置く。俺は別のベンチを動かして、腕相撲会場を設営した。
ベンチに座り、テーブルの上に腕を置く。俺は差し出されたチョウシ先生の小指を握った。
「好きなタイミングで初めて良いぞ。」
俺はチョウシ先生の顔を見つめる。真顔過ぎて、表情は読み取れなかった。
俺は握力を強め、肩から腕まで力を込める。
「グググ……グゥ!」
小指を掴んでいない方の手でテーブルの縁を握り、体を傾けて全力で挑む。相手の小指すら何も動かない。
俺は息切れしながら諦めて手を離す。
「どうだ?諦めたくなったか?」
チョウシ先生は小指を立てていた方の手で、そのまま頬杖をついた。
「いえ!俄然やる気が出てきました!」
俺は両手でガッツポーズをする。
最強の男から教われるんだ。このチャンスは絶対に逃したく無い。一度でも諦めたら、二度と教えてもらえないだろう。
「あの、トレーニング器具をお借りしてもよろしいでしょうか?」
俺は立ち上がって、部屋にある器具達を指差す。
チョウシ先生の鋭い目が少しだけ優しくなる。
「ああ。好きなだけ使え。」
俺は腕の筋肉を鍛える器具に腰掛ける。後で調べたら、チェストプレスと言うらしい。
棒を掴んで前に押し出そうとするが、重過ぎて動かなかった。
「おいおい。俺と同じ重さでやろうとしたら無理だろ。おもりを減らせ。」
チョウシ先生は立ち上がって、チェストプレスのおもりを付け替える。
「よし。これでやってみろ。」
「はい!」俺は器具を動かす。
「グヌヌヌヌヌヌヌ!!」
歯を食いしばって全力を出せばギリギリ動かせるレベルだった。かなり重たい。
「駄目だな。それだと筋肉を痛めるだけだ。もう少し減らすぞ。」
次は普通に力めば動く程度の重さになる。
「これぐらいだな。ついでに他の器具も調整する。お前用のおもりがどれくらいか記録しておいてやる。」
「ありがとうございます!」
部屋にある器具を次々に乗っていく。ランニングマシーンが早過ぎて転んだり、ダンベルが重過ぎて潰されそうになったりしながら、調整をする。丁度良いところまで行くと、チョウシ先生は付箋にボールペンでメモをして器具に貼り付けていく。
全ての器具のメモが終わり、俺はしばらくチェストプレスをした後、自分の部屋に戻った。
時間はすっかり遅くなっていたが、俺は母親のパソコンを借りて、腕相撲に必要な筋肉を調べた。ノートにひたすらメモをする。
外が明るくなって来た頃、俺は眠りにつく。今日は学校をサボろうと心に決めた。
目が覚めた時には、昼過ぎだった。
俺は半袖半ズボンの運動着に着替えて、ランニングをする。それが終わると、部屋に戻り筋トレに励む。
「あ、ご飯食べてなかった!」
時計を見ると午後四時を回っていた。自分の部屋の冷蔵庫を見ても何も無い。
仕方なく共用キッチンへ向かう。家庭科室みたいに幾つもキッチンスペースのある部屋だ。大きな冷蔵庫や食材庫にある食材は、自由に使っても良い。
鍋を出して、テキトーに切った野菜を入れる。フライパンで目玉焼きを作る。
「ん?なんか焦げ臭い?」鼻をヒクヒクさせながらタヌさんが入って来た。
俺は作った料理をお椀によそい、皿に目玉焼きを置き、自室に戻ろうとした。
「タヌさんこんにちわ。」俺はすれ違う時に会釈をする。
いきなりタヌさんに肩を掴まれる。
「それ、食べようとしてます?」
眉間に皺を寄せて俺の料理を指差す。
「え、そうですけど。」俺が返事するとタヌさんの顔が険しくなった。
「絶対に駄目!!そんな泥水みたいな汁と炭の塊食べるなんて!!僕が作るんで、待ってて下さい!」
「別に何でもいいじゃ無いですか!食べれますよ!」
俺は手料理をタヌさんの目の前に押し付ける。
「むー。味見させて下さい。」タヌさんは不機嫌そうな顔で言った。
スプーンとフォークを取り出して、キッチンの調理台の上に置いた料理に、タヌさんは恐る恐る手をつける。
スープを飲んでいる時、砂利を噛む音が聞こえた。
「オロロロロ。」タヌさんは一口食べただけで、流し台に吐いた。
「ひどーい!俺、頑張って作ったのに!」
俺は腰に手を当てて頬を膨らませる。
タヌさんはゲッソリした顔をしながら言う。
「毎日これ食べてるんですか?」
「時々です。ご飯なんて栄養取れれば何でも良いんで。作るのがめんどくさい時は、レーションとか缶詰食べてます。」
タヌさんは涙目になって、俺の両肩を掴む。
「これからは僕が作ります!サソリは二度とキッチンに立たないで下さい!」
「そんなあ!」俺は苦い顔をして拗ねる。
タヌさんは無慈悲にも、俺の作った料理を全部捨てた。
その後、恐ろしく手際の良い速さで料理をする。香ばしい匂いが鼻を刺激した。
タヌさんは盛り付けた皿を二枚、俺の前に置く。
「はい、出来ましたよ!鶏胸肉の香菜焼きとサーモンのカルパッチョ乗せ生野菜サラダでーす!」
俺はそのキラキラに輝く料理を目の前にして、腹の虫が鳴った。
「……いただきます。」
鶏胸肉って、こんなに柔らかかったっけ?サーモンってこんなに生臭く無いものなの?
俺は頭にハテナを浮かべながら、よく分からないけど食欲のそそる料理を平らげた。
「どうですか?」タヌさんは調理台に肘をつきながら俺の顔を覗き込んだ。
「まあ、悪く無いですね。」俺はそっぽを向く。
「うわー!生意気ー!」タヌさんは笑いながら俺の頭をワシャワシャと撫で回した。
「筋肉付けるなら、三食しっかり食べないと駄目ですからね!この時間なら、僕空いてるので、朝昼晩食べに来てください!来なかったら叩き起こしに行きます!学校サボった時も食べられるようにするんで、気にせず来てくださいね!」
タヌさんは、メモ用紙に時間を書いて俺に渡した。
「面倒じゃないですか?俺なんかの為に料理するなんて。」
俺はメモを軽く指で触れる。
「一人前も二人前も大して変わらないですよ。それに、僕は専属調理師目指してるんで、料理の練習にもなります。ウィンウィン!」
タヌさんは両手をチョキにしてくっ付け、Wの文字を作り満面の笑みを浮かべた。
「分かりました。お言葉に甘えさせてもらいます。……ありがとうございます。」
俺はメモ用紙を半ズボンのポケットに仕舞った。