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友里は動かない。魅入られたようにツリーを見上げている。時間だけが刻々とすぎていく。私は考え直し、足を忍ばせて横へ移動した。背を屈ませて友里の左手に目をあてる。薬指に指輪がなければすべて私の妄想、事故は起きなかったのだ。
見た。指輪がない……はめていなかった。
急に気恥しくなった。元カノといえばそれまでだが、プロポーズをして断られた相手でもある。すぐにこの場を立ち去ろうとした。
そのとき不意に友里が振り向いた。私を見て、後ずさりしながら左右に首を振った。
「もしかして……太一なの?」
意表を突かれた。どう答えていいのかまったく言葉が見つからない。
私を知っているということは他人の空似ではない。友里が私のプロポーズを拒否した可能性は明確だ。いや交際していたのだって、それこそ私の強迫観念からくる願望にすぎないかもしれないのだ。
妄想の推測が限りなく現実として迫ってくる。まざまざと思い込みの人生を見せつけられていく。だが一方で、その展開に喜ぶ自分も発見した。つまり、すでに別れて他人同士になっているなら事故の懸念は払拭されたことになる。私の胸に巣を喰う悔悟の念を気にしなくてもいいのだ。
私が安堵からぎこちなく笑むと、友里が、か細い声を絞りだした。
「今、どうしてるの」
「知り合いから誘われて、家の近くのリハビリ室で働いている。相変わらずさ」
知り合いに誘われたというのは嘘だ。友里と過ごした職場で働くことに、耐えられなくなって変えたにすぎなかった。
ともあれ事実が判明したものの、未だほつれた糸は微妙に絡みついている。間違いなく友里の葬儀に参列したという記憶が抜けきれないからだ。焼香の際にぼろ泣きしたら、同僚に別室へ連れて行かれたのを昨日のことのように覚えている。それも、やはり妄想なのだろうか。
私は恐る恐る訊いた。
「幽霊じゃないよね」
「何を言いだすのかと思ったら、太一らしいね」友里が裾をブーツの元までめくって足を見せた。「ほら、この通り足があるでしょ。でも……」
と、友里が顔にかかる雪を払い思いつめた表情を見せる。私は気になった。
「でも?」
「ううん、何でもない。それよりぜんぜん連絡よこさないから、てっきりもう東京にいないのかと思っちゃった。けどよかった、元気そうで」
友里が、降りしきる雪と同色の白い歯を見せる。懐かしい笑顔だ。両頬にくっきり二つ、かつて私がこよなく愛したえくぼが浮かび上がっていた。
「残念だけど、見知らぬ土地で暮らす勇気なんてない」
そう肩をすくめたとき、またぞろ胸騒ぎの予兆を感じる。
理由は互いの職場が違うために並んでホームに立つことは有り得ないとしても、この街には従妹が暮らしている。今までは悪夢を拭えなくて避けていたけど、思い込みとわかった以上、いつなんどき友里と同じ電車に乗る偶然だって否定しきれない。
「君は、今もJRを利用してるの?」
この街にはJRと地下鉄が隣接している。そして事故が起きたのはJRだった。
「うん、案外わたしって無頓着なのかもしれないね。だって転居も考えたけど、暮らしやすいからずっとそのままなんだもの。職場もそう。太一がいなくなって寂しかったけど、変える勇気なんてなかった」
友里が間近の距離で目を合わせてくる。「だけど、どうして今さらそんなことを聞くの」
「いや、別に何でもないんだ」
私は言葉を濁した。
「悪いけど、用事があるから」
堪らなく言った。もちろん嘘だ、用事なんてあるはずがない。特別な用事でもあれば別だが、仕事が終わると真っすぐ家へ帰るしか能のない男なのだ。仮にどこかへ行くとしても、せいぜい近所のコンビニぐらいしか思いつかなかった。
しかし私は、その言葉に深い意味を込めたつもりだった。ここで事故が起きたことを完全に否定できない以上、この駅のホームに友里と並んではいけないと思っていたからだ。時間も時間だし、友里のことだ、一緒に帰ろうというのがわかっていた。自分のことは案外無頓着なのに、人には必要以上に気づかいをする女性なのだ。
友里が押し黙る。それはそうだ。せっかく久しぶりに再会したというのに、話もそこそこに、そそくさと帰るというのだから肩透かしを感じて当然だと思う。
でも私は無視した。顔も見ずに背を向けた。これでいいんだと何度も心の中で自答をくり返しながら、駅へ向かう足を速めた。一気に改札を抜け、脇目も振らずにホームへ駆け上がった。
早くこの場から離れたかった。人混みを掻き分け、なるだけ人の少ない場所を探して移動した。それは他人に自分の顔を見られたくないためでもあった。私は突き上げる慟哭を必死に耐えていたのだ。
口先だけの嘘ざむい愛――そこに少しも誠意なんてなかった。
もはや列に並んで立っていることもできず、ベンチを見つけるとうずくまるように座った。途端、堪えていた涙が嗚咽とともにどっと溢れてきた。
電車の停車する音が聞こえ、しばらくしてまた動き出していく。それが何度もくり返された。そのたびにホームに吐き出される乗客の靴音が、寄せては押し返す波のように近づき、遠ざかっていく。そんな物憂い状態のとき、真っすぐ近づいてくる靴音を耳にした。