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かなり奇異に感じられる泥酔のサラリーマンが、列車進入のアナウンスを尻目にふらふらホーム上を歩いてきた。それも規則正しく並んだ列をことごとく壊しながら、なぜか一直線にこちらへ向かって。
何て不謹慎な奴なんだ。私は殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られた。もちろん思うだけで、行動へ移せる勇気など到底持ち合わせているはずもない。けれど乗客の中には私と違い、思ったことをすぐに行動へ移せる人間が必ずいる。すべての通勤客が傍観者ではないのだ。
私と友里の後ろに並ぶ、黒いマスクをした革ジャン姿の男が、酔客の行為に腹を立ていきなり両手で突き飛ばした。たぶん酔っていなければ多少よろけた程度の力。酔客もそれなりに踏ん張ることもできたと思うが、足から平衡感覚が失われていた。反動で、踏みとどまることもできずに大きくのけぞった。
しかも間の悪いことに、のけぞったのは友里の横。あぶない! と伸ばした私の手をかすめ、友里は、酔客と一緒に線路へ落下した。その時点で、進入してくる電車との距離は五十メートルぐらい。すぐにレールが軋むほどの急ブレーキをかけたせいか、時間にしておよそ四、五秒の出来事だった。
――すぐに飛び降りたら、助けられたかもしれない。
でも私は、線路の上で気を失っている友里の名を狂ったように叫び、ホーム上から届くべくもない手を伸ばしているだけ。飛び降りて、ホーム下の隙間に押し込む勇気など塵ほども持ち合わせていなかった。
いったい何を怖れていたのだろうか。
死なんて誰にでも訪れるもの。そう嘯き、辛いときなどいっそ死んでしまいたいと真剣に考えていた時期もあったのに、いざ誰にでも訪れるそれを目の当たりにしたとき――私は何もすることができなかった。自分の安全な位置から、愛しい人の名を叫んでいるだけだった。守り抜くと決意したのに守ろうとせずに、何という情けない人間なのだろう。
けたたましい電車の警笛が鳴り、車輌が通過する寸前、乗客の一人が私を後方へ引き戻した。
その瞬間、叫びは涙に溶けて消えた。
私は這い蹲った状態のまま通過する電車を呆然と見送り、指一本動かすことすらできずにいた。
人の死で、いちばん残酷なのが電車による轢死であると多くの人が言う。それはあながち間違いない。ゴムタイヤを履く車と違い、電車は鋭利な鋼鉄の車輪を装着している。さらに下には硬いレールが敷かれている。重量も雲泥の差だ。それで轢き潰されるのだから人の姿をとどめることは難しい。誰とも判別できない肉片と化すのは当然だ。
しかも轢き潰された後、必ず車輪に巻き込まれる。裂かれた遺体は回転しながらレールと枕木に何度も打ち付けられ、続く車輌の車輪にまた轢き潰される。それがミンチになるまで延々と繰り返される。想像を絶する陰惨な光景だ。
私は救える手立てが残されていたにも関わらず、みすみす友里を、そのような最悪の状態にさせてしまった。罪は大きい。いくら胸の中に閉じ込めても消えやしない。あまりに残酷で恥知らずな行為だった。
思い出しただけで、また切ない痛みが溢れてくる。この記憶が単なる妄想であれば、どんなに私は救われたことだろう。
雪は際限なく降っていた。私が望む通りに街を白一色に塗りつぶしていた。並木道を彩るイルミネーションにも降り積もり、街路樹は白い雪の花を咲かせている。それは三年前と何ら変わりない情景だった。
私はイルミネーションに背を向けて駅へ向かった。そしてロータリーに設置されたクリスマスツリーに目を向けたとき、そこにひどく懐かしい女性が立っているのを見つけた。
ファーの付いたウールコートにロングブーツ、カールのかかったセミロングの黒髪が無数の雪によって白く染められている。女性はその状態のままぴくりとも動かず、まるで風景と同化したかのように一心にツリーを見つめている。横からなので断定はできないが……友里に似ていた。
まさかと目を疑った。現実とは思えずに何度も目をこすった。憂いのある瞳に少し上を向いた小さな鼻、そして愛らしい唇、やはり友里としか考えられなかった。
有りえない。他人の空似に決まっている。服もブーツも同じ店で買ったに違いない。
私はその異質な映像を、無理やり他人の空似と決めつけた。
けれど、また都合よくコントロールドラマ化しているのをわかっていた。たとえ同じファッションだとしても、本人でしか醸しだせない雰囲気というものがある。おそらく列車事故自体も、プロポーズを拒否されたことによる妄想でしかないのだろう。生きているなら列車事故など起きようはずもない。
私は迷いながらも、さらに近づいた。気づかれぬよう、そっと背後に回った。そうして、しばらく後ろ姿を見ていた。この現実の真意を探るために。