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 その後、智也の過激な言葉を最後に、私は部屋を飛び出していた。いくら隠された秘密といっても、人間、聞かないほうが幸せということもある。

 それでも一つの疑問が消えると、別の新たな難問が生まれて目の前を塞ぐ。それはまるで何度も重ね塗りをされたペンキを剥がしていく工程に似ている。曖昧な灰色のペンキを剥がしたと思ったら、明るい黄色が表われ、その下から最も厄介な地の錆色が見えてきたという感じ。

 できるのであれば誰にも死んでほしくないが、たぶん運命は最後の最後まで錆色を見せないはずだ。それにしても智也の奥の手とは、いったい何なのだろう。

 どのみち私も智也も友里の命を救いたいという考えでは一致している。そうしたら問題は二つだけになる。智也の計画する殺人をいかに防ぐかということと、智也の手を逃れてホームへ義兄が現れた場合、私がどう動くかだ。どうしても標的が私だけとは限らない気がする。

 気になるのは智也の奥の手だ。もしかしたら自爆テロのように自らの命をすてて、私と友里を巻き添えにさせないつもりなのか。彼の性格を考えるとそこにしか答が導かれない。

 そうだとしたら明日の夜に雪が降らないでほしいと思った。なぜか天気が変わるだけで運命も変わるような気がするからだ。

  

 翌日は義兄を調べて一日が終わった。中原修一、三十五歳、独身。都内のコンサルタント会社に勤務していて、友里の勤める整形外科のアドバイザーを担当していた。職場ではこれといった変な噂を聞くこともなく、有能な社員として一目置かれていた。

 住まいは都心の高級マンションなので、隣に誰が住んでいるのか気にとめる人はいなかった。住宅街のマンションならともかく、都心のマンションなどは正体不明の住人の巣窟なのが実情だった。

  

 当日の朝、目が覚めるとすぐにカーテンを開けて空を見た。

 雨も雪も降ってはいないが、空全体がどんよりしていて空気が冷たく、いつ雪が降ってもおかしくない空模様だった。考えすぎでなければ、電線に止まるカラスも今夜の惨劇を予知しているようで不安に駆られる。

 気を取り直して、いつものようにポタージュとトーストの朝食をとり、いつもと変わらぬスーツを着て部屋を出た。智也が早まった行動をとらないことだけを望み、その先に控える自分の覚悟を確認した。

 おそらく友里も、愛美のように淫湿者の餌食になってしまった可能性は高い。そしてそのことを別の私は知っていたに違いない。だから自然消滅を目論み、友里の前から去ったのだ。

 友里が愛美のようにしたたかに生きられればいいが、どこか私と似ていて一人で悩み苦しむタイプだ。見すてられても文句一つ言わず、逆に相手の幸せを祈る女。それなのに、私は――なんて冷淡な人間なのだろう。

 友里のすべてを知り、すべてを愛していたというのに、たった一つの過ちでその愛を消してしまうなんて偽善者にも劣る行為でしかなかった。もし友里が過ちを犯さずに難病を患い、動けない身体になってしまったら、それでもあっさり切りすてるつもりだったのか。自分に愛を与えてくれない伴侶なんか必要ないとでもいうのか。

 まるっきり鬼畜だ。

 人は人に恋する。それで通じ合えば結婚をし子供を作って老いていく。孫や子供たちの囲まれて幸せを満喫したあと、やがてその先にある死を見つめる。誰しもが描く、そんなプロセスから外れたところでどうでもいいと思っている。今までさんざん障壁が現れるだけで逃げてきたし、そのつど残る悔いに、いい加減ここで終止符を打たなくてはいけないのだ。

       

「この中に、恋人のために死ねる人はいる?」

 いつだったか飲み会の席で、そんな話題で盛り上がったことがある。映画『タイタニック』がテレビで再放映されてすぐだったから、もうずいぶん前の話だ。群がる男たちを前にして、ちょっと見、顔だけ美人を思わせる女子が聞いた。

 パートナーとして救うのが当然だとか、人としてあたり前じゃないか、といった彼女に対して下心の垣間見える声が響く中、突如として答を私へ振った。それも思いきり上から目線で。

「気弱な人でも、そう思うのかしら。どう小坂くんは?」と。

 私は何も答えられなかった。もちろん気弱と名指しされたように勇気がないからだ。だけど人間の尊厳に直結する問題を、そうそう簡単に答えられるわけがない。まして酒の勢いを借りて議論すべきじゃないと思っていたし、仮に肯定できたとしても、いざその場に立たされたらどうなるか自信もなかった。

 人間であるなら恋人を助ける意思があるのは事実だけど、結局のところ人間なんて、すべて自分の身を第一に考える生きものでしかないのだから。

 しかし今振り返ると、それはそのまま三年前の答えになっていたのだと思う。

「次はH駅、お出口は左側です」

 電車に乗ったのも気がつかないほど考え込んでいたらしい。いつのまにか駅へ吐き出されていた。リミットまで七時間あまり、友里が勤務を終えたらいよいよだ。冷静を保とうとするが胸の昂ぶりはごまかせない。咽喉が渇きを覚え、手のひらが湿ってきた。また足の運びが緩慢なっているため、あちこちから押され、私は粗大ゴミにでもされたかのように改札口へ吸い込まれていった。


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