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不可能なことなんてないわ。可能という言葉が存在するようにね。
オードリー・ヘップバーン
野良猫が、ビルの路地裏で蹲るように寒さをしのいでいた。毛艶も悪く、見つめ返す瞳も生気が感じられず、背をまるめたまま動こうともしなかった。
(もしかして腹を空かせている?)
無理やり空腹と結論づけた私は、信号の角にコンビニを見つけ急いでキャットフードを買って戻った。
幅二メートルほどの路地に入り込み、そっと袋を破って近づいた。途端、猫は毛を逆立て後ずさりした。むしゃぶりつくと思っていたので落胆したが、この猫をここまで人間不信に陥らせたのは人間しかいない。
仕方なくその場にばらまいて舗道へ戻ると、辺りは急に冷え込んできた。人の吐く息が微妙に白く、もしやと思って空を見上げたら、いつのまにか粉雪が舞っていた。
そういえば三年前のイブの日も、今日と同じように夕方から粉雪が降りはじめた。その後もやむことなく降り続け、街を白一色に塗りつぶした。しかしロマンチックなイブになるはずの夜は悪夢と化した。
恋人を事故で失ったのだ。
私は生きる気力を失い、いっそ死んでしまいたいと思うほどの日々の中で息をひそめて生きてきた。それなのに、二度と来るまいと誓ったこの街へなぜか足を向けていた。
どうしてなのだろう。三年経って傷が癒えたから、この街に住む従妹と会っても大丈夫と思ったのだろうか。いや職場でも平静を装っているだけで、胸の傷はふさがるどころか広がりをましている。
あのとき……助けようがあった。それなのに私は彼女を見殺しにした。
忘れたはずの悔いがまざまざと蘇る。私は粉雪の舞う中を通行人にぶつかりながら走り、猫のいた路地まで戻ると入り込んだ。警戒する猫を横目に、壁へぐったり寄りかかって何度も頭を打ちつけた。痛みとともに頭が揺れ、かすかに景色が動いたような錯覚も覚えた。
頭の揺れが収まり、痛みが引くと、いたはずの猫がいなくなっていた。
はてなと思いつつ、路地を出た。舞いはじめたばかりの粉雪は、知らぬまにぼたん雪へ変わり激しさを増していた。暗い空は雪で埋めつくされ、街も別世界を思わせる雪景色に変わっていた。つい今しがたと比べ、極端に人通りも少なくなり無性に現実との隔たりを感じる。
「ほんの数秒なのに、どうしてこんなに雪が?」
疑問を抱きながら頭に積もった雪を手で払い、やるせなく駅方向へ向かった。
しかし雪のほかに目に入るものはなく、やたらと視界が狭い。いっそいつ果てることなく降り続いてほしいと思う。この世のすべてを雪で埋めつくしてほしいと思う。そうすることでこの世界がどう変わるかわからないが、もしかしたらそこまで降れば、私の心を支配する呵責から逃れられると思ったのかもしれない。
「太一、雪よ」
三年前のイブの夜。恋人の友里が、目を輝かせながら手のひらを広げた。
私は「そうだね」と頷き、友里の手の中で溶ける雪を見つめた。
雪は際限なく手のひらに舞い落ちては消えていく。その指先には、つい今しがた贈ったばかりの婚約指輪が光っていた。二年間の交際を経てプロポーズをしたばかりだった。
もちろん答えはイエス。友里は少し涙ぐむと私を見つめ返し、すぐにこれ以上ないくらいの笑顔を弾けさせた。
女性が思い描く男の理想像は、生活力と包容力があって、そのうえ優しさが不可欠らしい。僕はそのいずれの理想からもかけ離れていた。唯一持つ優しさだって弱いがゆえの消極さ。そのため恋人なんてできると思っていなかった。
もちろん友里と出会うまで結婚など努々考えたこともない。だから指輪を嵌めてくれたとき、ほんとうにいいのと聞き返したぐらいだった。
今振り返ると、三年前のイブは私の幸せの絶頂期だったといっても過言ではない。それなのに、隣にいるはずの友里の姿はもうない。愛らしい声を聞くことも、優しい仕草を見ることも永遠にできなくなってしまった。
私は戊辰戦争でつと有名な会津若松の出身。といっても猪苗代湖に近い小さな町で生まれた。特にこれといった産業のない所で、私は否応なしに静かな湖面を眺めて育つことになる。そんな慣れ親しんだ湖に別れを告げたのは、東京の大学へ進学することになったからだった。
思い起こせば、初めて見た東京は都市全体が大きな湖だったような気もする。それも水のない湖、渇いた砂のつまる人工貯水池でしかなかったかもしれない。かろうじて郊外だけに人が人として生きられるオアシスが感じられた。
友里もそう思っていたらしい。
友里の田舎は新潟県。それも日本海に面したうら寂れた寒村だと聞いている。だからほんらい都市に馴染めないのだとも。ただ砂漠といっても馴染める者はそれなりに謳歌できるし、馴染めない者はそれ相応に疎外されていく。その過程で最も大切な純朴さを失っていくのは同じかもしれないが。
そんな馴染んだとも馴染まないとも言えない私たちは、理学療法士として同じ職場で知り合い、愛を育んだ。そうして二年後、馴染みのレストランでようやくプロポーズまでこぎつけた。
甘い未来を垣間見ながら、書店で買った住宅情報誌を片手にホームに並んで終電車を待っていた。この際入籍を待たず一緒に暮らすことに決めたのだ。ここまで互いの気持ちが深まり合うと、離れて暮らすのに耐え難くなるのは自然の流れだった。
最初は私が、一緒にいたい口実として不経済な生活を訴えると、友里が少し間を置いて笑いながら同意した。私の魂胆を見透かすと同時に、マイホームを持つのが友里のささやかな夢になっていたからだ。
ページを捲り合い、ここがいいとか嫌だとか言い合っていたとき、あるページで友里の目が釘付けになった。都心まで快速に乗れば二十分という物件だった。
少し遠いけど、乗り換えもないのでそれほど苦に感じなかったし、古いはずなのにまったく古さを感じさせない建物に惹かれた。隣接する公園の緑の多さも気に入った理由の一つだった。故郷の湖と重なる印象を受けたのだ。到底、砂漠とは思えなかった。
「ここ、よくない?」
友里が私の顔を見つめてきた。
「悪くないんじゃないかな」私はさり気なく頷いた。「決まるといいね」
「決まるよ、絶対に。雪だって、わたしたちの門出を演出してくれたんだし」
友里はいつになく口調を強めた。「でもカーテンはわたしが選ぶからね」
もちろんカーテンばかりでなく、いずれすべての調度品を選ぶと知っていたので、私は承諾の意味も含めて友里の小さな肩をぐいと引き寄せた。
「いいよ。私も一つだけ選んだから」
「それって、なに?」
腕にしなだれていた友里が顔を上げた。
君さ、と答えたかったが、そんな柄じゃない。無言で、さらに強く引き寄せた。
その仕草で友里も理解したみたいだ。無防備に全体重を預けてきた。私はその体重を支えた瞬間、この人を最後まで守り抜いて生きていこうと決意した。この人がいたからこそ渇いた都会の砂漠が故郷の湖に変わり、何の喜びも感じ得なかった人生に潤いが生まれたのだから、当然だと。
――しかし、そんな幸せの絶頂は、たった一人の酔客によって無残にも消滅させられてしまった。