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嗚呼、ルーインズ (ああ、遺跡たちよ!)

 閉塞感に圧し潰されそうな現代からエスケープ。誰もが元気だった70年代にダイブ。そこには、サークル活動とバイトに明け暮れる自分がいた。モテない男が愛しい伴侶と回り逢うまでの、愛の物語。

≪前編のあらすじ≫


1974年春、金沢。大学生になった僕(刀祢)は、美人の先輩に魅かれて、「児童文学研究会」(略称:児文研)というサークルに入部する。そこで、同級生の川合玲子に出会い、今度は彼女の魅力に取りつかれる。しかし、彼女には既に付き合っている彼がいた。刀祢は、何とか川合との距離を縮めようと画策するが、なかなか上手くいかない。

 夏。刀祢はサークル活動の傍ら、遺跡発掘調査のアルバイトを始める。そうした矢先、大学構内で内ゲバ事件が発生し、死傷者が出る。その数日後、刀祢は大学からの帰宅途中に刑事に呼び止められ、児文研の先輩、高宮雄一郎のアリバイを聴かれる。高宮は正直に知っていること(アリバイになること)を刑事に話す。刀祢は、高宮が内ゲバ殺傷事件の犯人の疑いを掛けられていることがおおやけになれば、児文研の人間関係が崩壊してしまうのではないかと恐れ、事情を聴取されたことは決して口外しないことを心に誓う。

 その後、平穏に日々が過ぎ、高宮の様子にも変化は見られない。そして、児文研の活動も今までと変わらずに進んでいくが。


10. 御経塚(おきょうづか)


 賢坂辻に坂口さんの乗った青いサニー1200が、横山町の方向から現れたのは、約束通り7時半ちょうどだった。僕と高野が後部座席に乗ると、そのサニーは猛スピードで走り出したが、兼六園下まで来ると、朝の渋滞に巻き込まれた。現地まではやはり1時間近く掛かるのだろう。

 僕らは、野々市町の御経塚に向かっていた。僕と高野は、斉藤さんに誘われて御経塚遺跡の発掘のバイトに数日行くことになっていた。宮田さんも、寺中遺跡の方はいま人足が足りているから、巨大な遺跡の発掘を経験したらどうかと勧めてくれた。

「あんたら、学校行かなくてもええの」と、運転をしながら坂口さんが聞いた。

「ええ、まあ」と僕が曖昧に答えた。

「僕や斉藤みたいになったら終わりやで。ちゃんと4年で卒業して就職せな、あかんよ」

「はあ」と生返事をする。坂口さんは理学部だったが、途中で専門の勉強を止めて、公認会計士だったか不動産鑑定士だったか正確には知らないが、留年しながら資格試験の勉強をしていると、誰かから聞いていた。

「そう言えば、宮田のやっている寺中遺跡で、国内最大級の手のこんだ造りの勾玉が発見されたとか、2、3日前の新聞に書いてあったな」と坂口さんが言った。

「へえ、そうですか。先週、宮田さんに会ったけど、何も言ってませんでした」と僕が答えた。いずれ遺物の整理のために旧制中学の木造校舎に持ちこまれるだろうから、今度バイトに行った時に見られるかも知れない。

 香林坊と片町間はひどい渋滞となっていた。坂口さんは、少しでも進もうと、路線変更と割り込みを繰り返し、

「あったれ。われ、どこ見とるんじゃ。ぼけ」窓を閉じたまま、進行を邪魔する車両に何度も毒づきながら、頻繁にアクセルとブレーキの操作を繰り返した。金縁の濃い色の逆三角形をしたサングラスを掛けていたので、一見すると怖い人のようだが、「車の中、暑くないか」とか「急に発進してゴメンね」などと声を掛けてくれるので、本当は優しい人なのだろうと思った。

 広小路交差点を右折すると、車の数はかなり減って、サニーは比較的スムーズに走り出した。新神田の交差点で左折して、八日市町の御経塚交差点で8号線バイパスを横断した。田んぼの中に疎らな人影が見える。そこが現場だった。

「ここかあ」と高野が少し失望したように言った。車の中からみると、水田を潰して造った、だだっ広い資材置き場のように見えた。

 プレハブの小屋の前には、人が集まり始めていた。小屋を背にして、監督者らしい人が数名おり、そこに交じって斉藤さんもいた。その前には、学生かそれくらいの年齢の若い男達と、主婦らしい身なりをした女性達が合わせて十数人集まっていた。僕と高野は、小屋に置かれた長靴から適当な大きさのものを探して履き替えると、学生や主婦の後ろに加わる。朝礼と言うより仕事の分担の指示だった。

 現場の主任らしい年配の男性が、測量が遅れぎみなので、遺構掘削と並行して進めるように指示した。

 現地は金沢市の西に広がる広大な平野にあった。周りを見渡すと、まだ水田がかなり残ってはいたが、8号バイパス沿いに工場の倉庫や建設資材の置き場などが出来ていて、バイパスの向かい側では宅地が造成されているようだった。バイパスは幅員が広く、北の方向を見ると金沢に向かって真っすぐに伸びていた。そして大量のトラックや乗用車が往来し、調査対象区域の東側がバイパスに接する現地は騒音に包まれ、排気ガスが流れ込んでいた。

 調査対象区域はちょうど水田2枚の大きさで、既にその区域内は耕作用の表土や、さらにその下の薄い地層が削られ、国道の高さと比較すると50センチほど沈んでいるように見えた。そして、区域内の至るところで、大小の楕円形の穴が掘られ、それは遠くから眺めると月のクレータのようにも見えた。

 御経塚遺跡の名は既に有名だった。新聞にも遺跡の記事が出ていた。それによれば、発見は20年ほど前だが、5年前に早稲田大学の学生らのグループが調査を行い、縄文後期から晩期の大規模な集落跡であることが明らかになっていた。なお、その時の調査には、まだ学生だった宮田さんも参加していたようだ。

 今回の調査は、国庫補助金事業として前年度から3年計画で行われているものである。

 プレハブ小屋に近い部分は、すでに掘削された遺構が隣り合わせに幾つも繋がり、複雑な文様が元水田の一面に浮かび上がっていた。しかし、その遺構群の端には、まだ白線で囲んだだけで掘り返されていない遺構がいくつか残っていた。僕はそのうちの一つを掘るように言われて、移植ゴテと竹べらを渡された。

 掘削するように言われた遺構は、長径が1メートル50センチほどの楕円形をしていた。その楕円形をちょうど二等分するように白いラインが引かれていた。ラインに沿って半分を残して、残り半分だけを掘れというのである。

「何の遺構なんですかね」と指示した男性に尋ねた。

「今のところ、ただの土坑だね。土坑は掘ってみないと分からんよ。これは住居跡ではないな。墓穴かも知れんし、トイレかも知れん。何でもない穴と言うこともあるよ」と言われた。

 その白線の中に入ってうずくまると、ちょうど目の高さに地平線があった。バイパスの方をみると、絶え間なく視界を遮ろうとする自動車の列の向こうには稲刈りの終わった水田が広がっており、さらにその向こうに集落の家並みが見える。僕は遺構の中心部分に移植ゴテを静かに差し込んでみた。

「どこまで掘ればいいんですかね」

 横で同じような遺構を掘っているバイトの学生に聞くと、

「掘れるところまでだよ。たぶん地山とか粘土層が出るまでだな。俺はそう言われているけど」と教えられた。

 正確かどうかは分からないが、まあそんなものなのだろう。その学生の掘っている穴は周囲の高さから30センチほど掘られていて、学生はひとりでその中に入って掘り続けていた。

 掘り始めてみると、遺構内の土は移植ゴテが抵抗もなく突き刺さるほど柔らかい。この柔らかな質の土を全部掘り出してしまえば良いのだということが直感で理解できる。

 移植ゴテの動きにだけ集中していると、そのうちに自分の中の時間が流れ始める。バイパス方向からの高レベルのノイズが消え、背後でしていた人の声も消える。コテの刃先が削り取る黒い土の感触だけが残る。土にコテを差し込む。そして土を抄い出す。また差し込む。素直にコテが入る時ばかりでもない。時々硬いものに当たる。それを手で探ると小石だ。小石を放り出して再びコテを入れる。そして黒い土を抄い出す。

 そうしているうちに、僕の身体も穴の中に少しずつ沈み始めた。土を掻き上げると、その分僕の身体は沈む。また土を掻き上げると、また極僅かに沈む。

 今の目の高さに広がる凹凸の激しい地形は、3、4千年前の地平ということになるだろう。上の地層を剥すと、数千年の過去があるというのは、どうにも呑み込めない気分になる。偶然にも顕わになった時間の綻びが畝っているように思える。

 うずくまる姿勢を10分ほど続けると、膝や脹脛、踝に痺れがくる。時々立ち上がってはストレッチをする。立ち上がると僕は現代の喧騒の中に蘇る。

午前中の休憩時間は10時からだったが、お茶が来るのが遅れたので10時半からになった。プレハブの前においてある、大きな盆の上から茶飲み茶碗を一つ取り、大きな薬缶から温い麦茶を注いで飲んだ。近くに住むアルバイトの主婦に頼んで、お茶を沸かしてもらっているらしい。

 休憩時間は終わり、持ち場に戻ろうとした時だった。

「あんた、今日が始めてやな。あんた、いい物がみたいか」肩を叩かれたので振り返ると、40歳くらいの丸刈りの男性が立っていた。その男性は朝礼時には見掛けなかったように思う。

「はあ、いい物って何ですか」

男性は肩を揺すりながらプレハブ小屋に入っていき、暫く待っていると、ブロンズ色をした棒状のものを作業着の脇に抱えて持って出てきた。そして、それを僕の前に差し出すと、

「どう。すごいやろ」と言った。

「はあ、確かに立派なものですね」

 一目で男性器と分かる形状をした、長さ20センチほどの石の棒だった。

「こんなんが何本も出てきたんやぞ」

「そんな石器どこから出てきたんですか」

「もう、調査終わった場所からや。1本はわしが掘り出した」

 その時、プレハブ小屋の前にあったトランシットの三脚を持ち出そうとしていた斉藤さんが、僕らを見咎めたのか、ふたりの方にやってきた。

「宮島さん、また出してきたの。勝手に出してきちゃ駄目でしょ」

「ええ物やから、新人に見せたったんや。知らなんだら、可哀そうやろ」と宮島さんが言った。

「とても凄いものを見せて頂きました。ありがとうございました」と僕が礼を言うと、宮島さんは、何か言い足りなさそうな、やや不満げな顔でまた石の棒を小脇に抱えると、プレハブ小屋の中に入っていった。斉藤さんは、宮島さんは遺跡の近くに住んでいる考古学ファンで、農閑期になってからは、毎日のように遺跡発掘を見に来ていると教えてくれた。

 僕は、遺構の掘削に戻った。そして静かにコテを動かして土を掻き出していたが、瞬く間に時間は過ぎ、昼の休憩時間になった。

 遺跡から歩いて行ける距離に食事するところはないと聞いていたので、僕と高野は朝来た時に弁当を注文しておいた。僕は高野を誘い、折箱に入った弁当を受け取ると、プレハブ小屋の前の畦に腰を下ろした。空は薄く曇っていて、外で弁当を食べるのにはちょうど良い気候に思えた。車で食事に出掛けるグループもいたが、調査員、補助員、バイトとも弁当の人が多かった。

 遺跡の近くにバイパスと広域農道との交差点があり、バイパス上の車列が、止まったり動き出したりと規則的な動きをしていた。

 バイパス側と反対の、海に近い側をみると、周囲のほとんどの水田は稲刈りが終わっていたが、遺跡発掘の現地となっている水田を数枚隔てたところは、まだ稲刈りの最中だった。コンバインが発動機音を立てながら黄色い稲穂の間をゆっくりと移動しているのが見え、軽油の焦げる匂いも漂ってきた。

 そして目の前には、平穏で何事もなく過ぎていくはずの地表が、厚い皮膚を剥ぐように表土を巻き取られ、3千年、いや4千年前の地平が赤裸々にあからさまに現れようとしている。何の遺構なのか地表に脈を打つように激しい凹凸が現れ、また、あちらこちらには土器なのか石器なのか、遺物らしいものが浮かび上がろうとしている。全く奇妙な理解し難い光景だ。時間の違う世界が、僅かな空間を突き抜いただけなのに現れてくるのだ。

 僕は、それらを眺めながら、折の中の海苔を巻いた握り飯を、箸の先で少しずつ千切っては口に運んだ。隣に高野がいたが、特にしゃべることもなく、高野もまた、目の前に広がる光景を眺めているだけだった。

 食事時間が終わると、僕は他のバイトらとともに午前中と同じ遺構に向かった。一方、調査補助員たちは、午後からは、スタッフやコンベックスのメジャーを持って、掘削の終わった遺構の測量に取り掛かっていた。

 再び移植ゴテの動きにだけ集中すると、自分の中の時間が流れ始める。音が消えコテの刃先が削り取る黒い土の感触だけになる。土にコテを差し込む。そして土を抄い出す。また差し込む。そうしているうちに、僕の身体も穴の中に少しずつ沈んでいく。

 穴の片隅でコテの先が硬いものに当たった。今日の作業で初めて受ける感触だった。土の中に手を入れて探ると、小石ではない何かが横たわっている。何かの遺物らしい。僕はコテを掌に包み込むように持って、遺物らしいものの上の土をさらにひと抄いした。土器の破片の連なりのようだ。僕はコテの他に竹べらと素手を使って、それを掘り出そうと掛かり出した。

 午後の休憩時間を挟んで、更にその作業を続けると、ワニの皮膚の一部を剥ぎ取ったように、破片が規則正しく並んでいるのが見えてきた。

 しかし、作業終了を告げる声がした。腕時計を見るともう午後4時を過ぎていた。今日の作業はここまでだ。

 一日の仕事が終わると、長靴を返して靴に履き替えた。ズボンの尻や裾に土の汚れが着いていた。それを手で叩いて落としたが、汚れは残る。このままサニーに乗っても良いか坂口さんに聞くと、気にしなくて良いと言ってくれた。

 帰り道も渋滞に巻き込まれた。金沢市内に入ると、増泉交差点から広小路交差点までが異常なほど渋滞していた。坂口さんは朝と同じように、車線変更と割り込みを繰り返しながらサニーを少しでも前に進めようとひとり格闘していた。カーステレオは音量が絞られていたが、都はるみの歌に次いで、八代亜紀の歌が聞こえてきた。

「演歌が好きなんですか」と高野がいうと

「変? 僕はロックとか、アイドルとか、今風の歌があまり分からんのよ」と坂口さんは言った。

「いや変じゃないです。僕も八代亜紀は好きです。歐陽菲菲とかも」と高野が言うと、

「歐陽菲菲の『雨の御堂筋』最高やね」と言った。


 僕と高野は、賢坂辻で坂口さんの車から降りた。僕は慣れない仕事で疲れを感じていた。肉体労働はしていなくても、屋外に一日中いて薄日を浴びているだけで疲れるものだ。長時間しゃがんでいたので、歩くと脹脛が突っ張る感じがした。

 日が落ちた賢坂辻では、兼六園下から走り降りてきた車が、横山町側と扇町側との二手に分かれて消えていく。辻にある小さな中華食堂は、歩道に張り出した赤い軒先テントが艶を失い、テントの骨組みの鉄骨が錆びている。その下に「幸来飯店」と書かれた手垢で汚れた暖簾が掛けてある。歩道に開けられた換気扇からは、唸るような音とともに油煙が立ち上り、油の焦げる香ばしい匂いが漂っている。僕と高野はそこで晩飯を食べることにした。

 痩せた背の高い店主が、「いらっしゃい」と厨房の中から不機嫌そうに声を掛けた。店は先客がひとりいた。50代くらいの鼠色の作業着を着た男性が、カウンターの奥の席で、焼きそばを食べながらビールを飲んでいた。僕らがカウンターに座ると、厨房にいた奥さんらしい小柄な女性が、水を入れたコップをカウンターの上に差し出した。僕はチャーハンの大盛を、高野は中華そばと餃子を注文した。幼稚園児くらいの男の子が2階から降りてきて、女性に何か話し掛けた。女性は男の子に2階に上がって待っているように言い、男の子はまた階段を昇って行った。2階が店主一家の居宅になっているようだった。

 油煙で飴色に変色した換気扇が唸り、中華鍋から立ち上る蒸気と煙を吸い上げている。

 僕はチャーハンをレンゲで掬い、中華スープに浸して食べた。油の旨味が口内に広がった。味が濃くて旨い。ビールが1杯飲みたいところだが、我慢してコップの水で胃袋にチャーハンを流し込む。

 腹を満たして店を出ると、既に辺りは薄暗くなっていた。高野に僕のアパートに寄るかと聞くと、着替えてから行くと言った。

 僕もアパートに帰ると、泥のついたジーパンとシャツを脱いで、洗濯皺でごわごわしている有り合わせのシャツとズボンに着替えた。汚れものを近くのコインランドリーに持っていき、洗濯機を回して帰ってくると、高野と一緒に伊藤も僕の部屋にいた。

 高野は、僕のレッドを水割りにして飲んでいた。僕もコップにレッドを半分入れて水道水を注いで自分の水割りを作る。しかし伊藤は不機嫌そうな顔をして、足を崩さずに座ったままの姿勢でいる。ふたりで何か言い争っていたように見える。

「最近、俺が日野さんに呼ばれることが多いので、圭子の機嫌が悪いんだ」と高野がいった。僕が想像した通りだった。

「そりゃ、もっともなことだね」

 再び伊藤の顔をちらっと見遣る。伊藤が思い詰めたように少し伏し目になった顔は、やはり興福寺の阿修羅像に似ている。伊藤にとっては、高野といる時間はどれだけあっても足りないほど必要なのだろう。その時間を取られるのは、確かに面白くないことなのだろう。

「で、隆明の読書会は進んでいるのか」

「テキストが難し過ぎて、なかなか進まない」

「それは、そうだろうな」

 吉本隆明の「言語にとって…」は僕も読みかけていたが、難しくて進まなかった。難しい書物と言っても、例えば「資本論」は、内容を論理的に詰めて考えていけば、それなりに読み解くことは可能である。第1巻第1篇「商品と貨幣」で展開される主要な言葉の概念さえ何とか抑えることが出来たなら、第2篇「機会と大工業」以降は、少し舐め過ぎかも知れないが、「読み物」として読めなくはない。資本や剰余価値等も大して難しい概念ではない。第2巻、3巻は確かに読みづらいが、それは、おそらくエンゲルスが編集していることに因るもので、内容が理解できない訳ではない。

 これに対して、吉本隆明の文学論は、理詰めで読み解こうとしても、それだけでは明らかに無理がある。歌、句、詩であれ散文であれ、それを味わう力、感性のようなものがなければ、そもそも吉本の指摘が当を得ているのかどうかさえ判断できない。しかも、吉本が引用し言及しているのは一首とか数行に過ぎないが、その引用部分だけで理解するのはやはり難しい。作者の他の歌や作品全体についての基礎的な知識が必要だと思われる。吉本隆明には「共同幻想論」のような思想論もあるが、これも、吉本の方法が、主として古事記や古今の文芸作品、民俗学の文献などの中から思想の糸を紡ぐような方法なので、原典についてのそれなりの知識を前提にしないと、読み解くのは難しい。

「『指示表出』イコール『使用価値』、『自己表出』イコール『価値』と置いて、貨幣論のアナロジーで解釈してみたらどうかな。吉本も、どこかで貨幣論を下敷きにしているような匂いがする」と僕が軽口を叩くと、

「他人のことだと思って。そんなアホなことよく言えるな。流通という面で言語と貨幣は同じ仲間かも知れんが、文学になると全く違うよ。自己表出は横の流れではなくて、どちらかと言えば縦の流れ、歴史の方だよ」と高野は憤慨したように、これもまた、僕と大差がないほど見当外れにみえることを言って、コップの中の液体をあおった。

 僕と高野は、またコップにレッドを約半分入れて、それに別のコップに汲み置いてあった水道水を混ぜて琥珀色の、いや飴色の液体を作った。

 ところが、それを見ていた伊藤が、

「私にも、飲ませて」と言った。そこで僕は僕らのと同じように、伊藤にも水割りを作ってやった。伊藤は、それを少し口に含んで、如何にも不味そうな顔をして、コップの中の液体を睨んだ。そして、急に話を変えて、

「川合さんとは、どうなの」と僕に聞いた。

「残念ながら、報告することなし。高野みたいに上手くはいかないね」

「私達もそんなに上手くいってないよ。私の親は、勉強しなくてもいいから、婿を掴まえてこいと言うし、高野の親は、高野の親で、自分が経営している鉄工所を継がようとする。高野は伊藤家の婿養子には来ないと思うよ」といった。伊藤の実家は名古屋で妹とのふたり姉妹らしい。高野の実家は大阪市内で鉄工所の長男らしい。

「親のことなど放っておけよ」と僕が言うと、

「そうもいかんだろ」と高野が言った。

 それで、僕は今日のふたりの反目の原因が、日野さんとの読書会ではなく、こっちの話だと分かった。しかし、結婚するにしても、しないにしても先が長い。心変わりの可能性だってないとは言えないだろう。それに…この前伊藤から聞いたことを思い出した。なかなかふたりの関係も難しそうだ。

 昼間の疲れのせいなのか、酔いが早く回った。ふと、川合の事が脳裏に浮かぶと、切ない思いが込み上げてくる。川合とは、児文研の読書会で三日に開けず会っていた。そして、読書会では川合の顔を盗み見しながら、テキストについて川合が何かを話し始めるのを辛抱強くまった。読書会のメンバーの中では、僕が川合の言葉の意味を正確に理解しようとしている唯一のメンバーだと、自分では思っていた。しかし、川合の発言は、最近ほとんどなくなった。もともと発言は少なかったが、白井さんが意見を求めても、適当に相槌を打つだけで、あまり自分の考えを話さないようになっていた。このままだと、本当に児文研を出て行ってしまうかも知れない。そうと思うと、いたたまれない気分になった。今のところ、児文研が川合との唯一の接点なのだから。僕は、読書会の後に、少しの間話をしないかと誘ったが、これも断られていた。

「川合さんが、児文研の読書会が面白くないと言っている。最初に読んだ時の感動がなくなって、どんどん詰まらない話になっていってしまうって」

「私も川合さんと同感。どんなふうに読もうと人の勝手だと思うのに、何か意見を集約する必要があるのかしら。私は、いまは高野がいるから児文研にいるだけで、もしいなければ、やめているよ」と伊藤が言った。


 翌日も、高野とともに御経塚の遺跡発掘のバイトに行った。

 一つの遺構の掘削を僕ひとりに任せてもらえたのは、ある意味ではとても幸運だった。遺構を正確に掘らなければという責任感は強く感じた。

 僕は遺構の中に現れた始めた土器の破片の周囲を、竹べらと素手で慎重に掘り進めた。軍手を穿いたままだと、土や土器など触れる物から受ける微細な感覚が分からないように思えたので、素手で竹べらを持った。そして土器の表面の土は素手で取り除こうとかかった。次第に土器の破片の分布が見えてきたが、それはやはり鰐の皮膚の一部を剥いで埋めたような形をしていた。破片が割れた時のままに綺麗に並んでいるのである。復元すれば何か鉢のような形になりそうに思えた。破片の幾つかには、微かに文様があるのも分かった。洗浄してみないと良く分からないが、縄文土器にしては彫が浅く線が細いように思えた。

 何故こんなところに、置き忘れられたのだろうか。それとも捨てられたのだろうか。数千年も経って、どうして見つかるのだろうか。逆に考えるべきかも知れない。地表から僅か数10センチほどの距離に、どうして数千年前の、土器が忘れ去られる、或いは捨てられるという具体的な出来事が事実として残っているのだろうか。やはり理解し難い。

 測量していた斉藤さんを見つけて、掘削の状況を見てもらうと、

「土器の露出はそんなもので良いよ」といって、穴の上にスタッフを渡して、そこからコンベックスのメジャーを垂らして、穴の深さを測って記録した。そして、「土器の乗っかっている所以外を、もう少し掘ってみてくれないか」と言った。

 穴の深さは、遺物の土器までで55センチだった。その土器の横でうずくまると、穴の中から頭だけが出て、身体はすっぽり穴に納まった。顔だけ起こして周囲を見渡すと、凹凸の激しい地面が続いていて、僕と同様に穴にうずくまっている学生たちもいた。その向こうには、バイパスを走る車の流れが見える。

 土器の破片の周囲をさらに掘り始めると、地質が少し変わったのが分かった。土の色は黒褐色から灰褐色に変わり始め、粘りも出できた。さらに掘ると、やがて硬い層に突き当たった。おそらくこれが地山だろうと思った。

 掘削を続けているうちに昼時間になった。僕と高野は昨日と同様に、プレハブ小屋の前の畦道に腰を掛けて、弁当を食べた。

 昨日と同じ風景だが、その不思議さは変わらない。目の前には、普通は平穏で何事もなく過ぎていくはずの地表が、厚い皮膚を剥ぐように表土を巻き取られ、数千年前の地平が赤裸々にあからさまに現れようとしているのだ。

 しかし、今日は感慨に浸ることはなかった。高野が話し始めたからだ。

「キャッシーが自殺を図ったって。未遂だったらしいけど」

「どこから、聞いた話」

「さっき、斉藤さんから聞いた。睡眠薬を過剰に飲んだらしいが、病院に運ばれて、命に別状はないらしい」

「なんで」

「わからん。2回目だそうだ」

 吉永さんの顔が浮かんだ。体調を壊して損保会社を辞めたと言っていたが、まだ病んでいたのだろうか。

「そもそも、吉永さんってどういう人なの」

「日野さんの元アレらしいよ」

「元のアレって、今は」

「日野さんは、今は白井さんにベタ惚れでしょ。どっちから振ったんか知らんけど、去年、白井さんが入学してきてから、ふたりは破局したみたやで。その話知らんのか」

「初めて聞いた」

 事情はまだ呑み込めないが、どういう訳か吉永さんに同情の念を抱いてしまう。この話を聞いて吉永さんの様子を思い出すと、どこか寂しそうなところがあったようにも思えてくる。

「斉藤さんが知っているということは、見舞いにでも行ったのかな」

「おそらく、宮田さんから連絡がはいったんだと違う。宮田さんは、落ち込んでたキャッシーをずっと気遣ってたらしいから」

それも初耳ではあったが、面倒見の良い宮田さんらしいとも思った。


 午後、調査補助員が僕の掘削している遺構に来て、地層の確認と写真撮影を行った。そして、楕円の残り半分も掘削するように言った。

 僕は、少しずつ垂直の壁を切り崩すように掘削を始めた。今日は昨日より湿度が高いのに違いない。黒褐色の土の壁からは、鼻孔に張り付くような湿った土の匂いが押し寄せてきた。土器の破片のつながりは、その全容が見え始めた。大小の破片がタイルを張り付けたように並んでいる。想像するに、口縁部がラッパ状に開いた壺様のものではないか。色は灰色がかっている。縄文土器というには地味な細い線で描いた文様もみえる。

 僕は掘削の作業に集中しようとしてはいたが、様々の思いが巡っていて、午前中のようにはいかなかった。夏に見た時には、吉永さんは、マイペースで自由気ままな女性に見えていたが、何かの思いに苛まれていたのだろうか。僕が気付けなかっただけで、苦しんでいたのかも知れない。人が心に何を思っているのか、他人には分からない。

 僕は移植ゴテを動かし続けた。黒褐色の土は脆く零れていき、その零れた土を搔き集めては穴の周囲に積み上げた。僕の身体は既に穴の中に70センチほど沈んでいて、頭部を含めて身体が穴に納まっていた。

 遺構の覆土をほぼ完全に掘削した時、ちょうど斉藤さんが来た。斉藤さんは穴を覗き込むようにみて、

「まあ、そんなものだな。あとは、刷毛で土器の上の土を綺麗に取り除いてくれるかな」と言った。

「了解。ところで、結局この遺構は何ですかね」と尋ねた。

「いま見た所は、楕円形の土坑としか言えんが、中に土器の遺物があったということは、人工的な工作物とみるべきだろうな」と答えた。それから、声を落として、

「キャッシーのこと聞いた」と僕に尋ねた。

「大変だったそうですね」

「その話、児文研の人にはあまり広めなくていいよ。バイト仲間だけ知っていればいいよ」

「分かってます」

「宮田がいつも注意していたんだが、最近バイトにも来ていなかったし、ひとりで考え込んでいたのかも知れんな。元気になったら、現場に連れ出すのが一番いいんじゃないかな」

「そうですね」


11.サークル長屋(その3)


 11月も下旬になると、鉛色の雲が低く垂れ込み、ほとんど日光を見ない日が続くようになった。気温が下がると部屋に浮遊していた水分が床や壁に吸着し、アパートの廊下も畳の上も足にネチネチした感じが付き纏うようになり、掛布団は嵩が縮んで重くなった。日によっては、稲光と雷音が一日中続いた。突然あられが降り出して、一瞬で屋根が白くなる日もあった。

 サークル長屋の部室はもともと暗かったが、昼間も電灯が必要になった。汚れのひどい窓ガラスは更にくもり、外の風景は何も見えなくなった。

 読書会は、今江祥智の「ぼんぼん」と奥田継夫の「ボクちゃんの戦場」を取り上げた。ファンタジーの後に、戦時の少年を書いた作品が取り上げられるのは、もちろん前年以前から続く部活動内容の必然の流れがあるのだが、それを説明するのは難しい。「子供と戦争」は相当以前から児童文学で取り上げられているテーマではあった。

 両作品では、戦争が始まって、不変だと信じられていた日常性が、脆くも崩れて奪い去られていく状況を描いていた。そこには昨日と今日との断絶が現れる。

「ぼんぼん」の主人公ぼんぼんは、長兄が戦死し、家を空襲で焼失するなど多くのものを失う。しかし、母親とともに空襲を生き延びて終戦の日を迎える、いわば「救いのある」物語である。佐脇という完全に軍国主義の外にいる、物事の道理が分かり先の見通せる元やーさん(架空性の高い登場人物)が、ぼんぼんの水先案内をしてくれる「優しい」物語でもある。

一方、「ボクちゃんの戦場」は、集団疎開先で地獄(飢餓と暴力の蔓延る戦場)を味わい、家族も空襲で失うという「救いのない」物語である。先生や級長という肩書の権威に頼っていたボクちゃんが、自我の生存要求に目覚めたようにも読める。しかし、最後には何よりも恋しい母親を失い、孤児となったボクちゃんが戦後どのように生きたのか、物語の次の展開は書かれていない。

 読書会では「ぼんぼん」の議論は、思いのほか少なかった。これは、「ぼんぼん」は少年の眼を通して戦時日常の変化という「状況」を描こうとしており、西洋音楽の好きな中産階級の子弟であるぼんぼん自身は、佐脇老人に導かれて、大きな葛藤に巻き込まれずに過ごしていくからだと思われる。作品の中に議論の火種になりそうなところはそれほどないので、読者は納得してしまうというのが本当のところだろう。

 一方、「ボクちゃん…」は、優等生のボクちゃんが虐められ自尊心を失いズタズタにされる過程は、消化し難い感情に襲われる。さらに、集団疎開からの脱走をどう評価するかということで読み方が分かれるし、家族を失い孤児になったボクちゃんの戦後が書かれていないので、それをどう考えるのかということでも読み方は変わる。

「脱走というのは負のイメージがあるが、ボクちゃんの主体的な選択と考えれば、プラスの行動と評価できるんじゃないの」と森田さんが言うと、白井さんが、

「それは過大評価ではないかしら。母親に会うことだけが、生きる望みだったのでは。結局、戦後は浮浪児となり、アウトローの世界を生きていくのではないか。そんな予感がする」と言った。すると、今日はそれまで議論の聞き手に回っていた中村さんが、

「アウトローが駄目というのは、どうかな」と言った。「疎開先で図らずも身に着いてしまった習性、例えば、空腹を満たすためには窃盗も厭わないとか、ケンカに勝つためには策略を練るとか、そういったものが、戦後、個人が生きるための手段に転化するというのは、弁証法的な成長じゃないか」

「佐野美津男的な?」と森田さんが言った。森田さん世代の頃までは、佐野美津男の「浮浪児の栄光」を読んでいる。どういう訳か、1、2年生は、それが書店でも図書館でも手に入らず、読んでいない。

「そう、『浮浪児の栄光』的な」

「他人を陥れても?」

「ボクちゃんは、そこまで悪になり切れないのじゃ。もともと優等生というのは弱いからな。案外、餓死するとかそういう末路にも思える」と山口さんが言った。

「ところで、」と中村さんは、ハンカチで曇ったフチなし眼鏡を拭きながら言い出した。「いま、戦時中の少年の生活を描くことに、みんな、どういう意味があると思うの。ぼんぼんもボクちゃんも、昨日可能だったことを今日行って失敗し、それによって少しずつ可塑的変化を遂げているだけで、戦争も戦時下の日常も対象化している訳ではない。対象化してそれを批判するなり、自己批判するなりの姿勢がなければ、戦時下の少年の姿を後世の我々に伝えたとして、それに何の意味があるのか、と僕は思う」

 中村さんは、また僕らを底なしの議論に追い込む積りかも知れないと思った。

「中村さんは、もしかして『深夜の酒宴』や『暗い絵』、『崩壊感覚』のような作品と比較している」と高野が聞いた。

「いや、戦後派文学の作品も全く不十分だとは思うけど。ぼんぼんもボクちゃんも、それよりさらに無自覚的だと思う」

「しかし、戦争をある程度客観的に捉えることができたのは、極一部のインテリだけだと思いますよ。少年だけじゃなくて大人も、庶民には状況を客観的に捉えて批判できた人はいないですよ。生活者でそんなことが出来たのは、まさに佐脇仁平くらいですよ」と高野が言った。森田さんも、

「日常生活に軸足を置いている以上、いま戦争が起きたって、いや、戦争だけじゃなくてペストなどの疫病が流行したって、その事態を対象化するのは無理だよな。ある日、全く違った場所で何かの事態が始まり、それが日常生活の様々の場面や人々の精神の変化を通じて、野火のように迫ってくるんだぜ。市井にいる者は、それを客観的に捉えることも、抵抗することもできないよ。自我も主体性もあまり関係がない。本当に状況の見える場所というのは、政治とか外交とか軍の参謀とか、極限られた場所だけだと思う」と言った。「だから、中村の言うのは無理だよ」

「であるのなら、戦時の少年を描くことに、どんな意味があるんだ」と中村さんは、みんなに聞いた。

「警鐘を鳴らすことにはなると思うけど」と山口さんが言った。

「しかし、森田さんの言う通りだとすれば、市井の生活者では、いま戦争が起きても、どうすることもできないんだろう」

その後も議論が続いた。部室は日が落ちるとさらに寒くなった。僕は議論を聞きながら、今年は年内に雪が一度は積もるだろうか、降り出すとしたら今夜あたりかも知れないと、ぼんやり考えながら、曇と汚れで何も見えなくなっている窓をみていた。

 すると、川合の声がした。今日は、僕はドア側の席に川合は窓側の席に座っていた。

「『ぼんぼん』と『ボクちゃん…』は、両方とも関西弁で書かれているのに、受け取る感じが全く違うでしょ。私それが面白いと思って…」

「僕もそれは感じた」と僕も応じた。「『ぼんぼん』は、もっちゃりした優しい感じがするが、『ボクちゃん』は、当たりがキツイ感じがする。同時代の大阪を描いているのに、何でそれほど違うのか、僕も面白いと思うよ」

 しかし、ふたりの他に誰もこの関西弁について話を続ける者はいなかった。みんなの顔を見渡すと、それがどうしたの、と言っているように感じた。僕は、関西弁の違いに注目するのは面白い観点だと思った。文章のスタイルには、作者の眼差しが現れているのに違いない。同世代のふたりの作者が、同時期の話を同年代の少年に語らせているが、そこにはふたりの作者の異質な部分が現れているのではないだろか。

 読書会が終わった後に、川合に声を掛けた。

「川合さんが、せっかくいい指摘をしたのに。残念だったね」

「いつも同じだから、もういいよ」

「さっきの話、もう少し意見交換したいけど、晩飯食べない」と誘ったが、

「今日は無理。今度、またにしよう」と簡単に断られてしまった。


 やがて冬が訪れた。週に2日ほどは、土器の実測のバイトで石引の旧制中学木造校舎に行っていた。しかし、いつ行っても、吉永さんと一緒になることはなかった。吉永さんは、僕と日が合わないだけで、時々は来ているのか、それともバイトを止めてしまったのか、それも良くわからなかった。その代わりに、斉藤さんや高宮さんと一緒になることが多くなった。

 斉藤さんは、割れた土器を繋ぎ合わせて、欠落部分は石膏を用いて、土器の復元をひとりで行っていた。高宮さんは、僕と同じで土器の実測をしていたが、もともと口数の少ない人なので、仕事中の私語はほとんどなかった。僕も、8月の事件がまだ頭に残っていて、話し掛けにくかった。

 寺中遺跡の例の珍しい勾玉のことは、すっかり忘れてしまっていた。寺中遺跡の遺物を入れたコンテナの中にそれがあったのかどうかも確認していなかった。

 旧制中学の木造校舎の作業室には、3本のニクロム線が入った電気ストーブが1台だけ置かれていた。おそらく宮田さんが持ってきたものだろう。かじかんだ手を温めるのには良かったが、部屋を暖めるほどの効果はもちろんなかった。そして、木造校舎の中は日一日と寒さを増していった。


12.病 棟


 年明けとともに雪が降り積もった。サークル長屋の入口の木製の階段は積もった雪が氷結し、注意しないと滑って転倒しそうになった。部室内は冷え切っていた。汚れたガラス窓は桟に雪が厚く張り付いて、さらに暗くなった。次の読書会のテキストは、J.R.R.トールキンの「ホビットの冒険」になっていた。さらに、白井さんが、どこで見つけてきたのかWojciechowskaの「Till the break of day」という洋書を持ってきて、これをみんなで翻訳しようと言い出して、読書会メンバーに翻訳の箇所を割り振られていた。そして次の読書会では、その作業の進捗状況の確認も行うことになっていた。

 その読書会の2日ほど前に、部室にいた川合にもう一度、晩飯を食べないか誘った。

「今度の読書会の後はどう。何か予定が入ってる」

「何もないけど。何度もお誘い受けているから、一度お食事しましょうか」

 川合が、こんな素直に話を受けてくれると思っていなかったので驚いた。しかし、嬉しかった。

「ニューグランドホテルの2階に小さなレストランがあるんだけど、そこでどう」

「高いんじゃない」

「バイト代が入ったから、大丈夫だよ」

 そして、ようやく川合から食事の約束を取り付けたのである。

 ところが、その読書会の前日に僕はある異変に襲われた。

 読書会の前の晩、英和辞典を捲りながら、割り当てられた部分の訳文を書き出していたが、途中で気分が悪くなった。身体がだるくて熱っぽかった。胃の内容物を戻しそうな気分になってトイレに駆け込んだが、咽ぶだけで何も出てこなかった。部屋に戻って、落ち着こうと思って水をコップに1杯飲んだ。そして、また作業に戻ったが、暫くすると悪寒が走りだしたので、途中で作業を投げ出した。そして、ベッドに潜り込んで、そのまま寝てしまった。

 その夜奇妙な夢を見た。僕はとても深い小さな穴の底にうずくまっていた。その手には移植ゴテが握られているところを見ると、これは自分で掘った穴らしい。土の匂いが鼻孔に張り付いて、その刺激で目に涙が滲んでいる。地層が幾段も重なっていて、その段を一つずつ数えていくと、どうもここは2万年前の地層なのだ。地層の襞の所々には石器の一部や須恵器、土師器の破片、髑髏の額などがのぞいているが、それらを良く見ると、どれにも記号番号を付したラベルが貼られている。

 見上げると鉛色の雲が穴に蓋をするように覆っている。しかし、穴の際にある雲は淡いオレンジ色を孕んでいて、冬の太陽のありかを暗示している。今日の作業が終了する時間が近づいているが、とにかく寒い。

 穴の際から1匹の老犬が身を乗り出すようにして下を覗いた。昔飼っていた柴犬のジョンに違いない。おい、ジョン危ないぞ、落ちるぞ、と声を掛けると、ジョンはその前足で土を掻き出しはじめた。すると雪の舞うように冷たい土が落ちてきて、それが僕の口の中に次々と入って、喉を詰まらせた。苦しい。息ができないほど苦しい。僕は激しく咳き込んだ。

 その咳の音で目が覚めた。まだ外は暗い。枕元に置いた腕時計をみると、5時を少し回ったところだった。鼻孔の奥が腫れあがって眼球を持ち上げているような感じがした。腕や指、足の関節という関節が疼いた。額に手をやると、明らかに熱がありそうだった。

 翌日は読書会どころか、アパートの外に出られそうになかった。結局、僕は一日中ベッドの中にいた。短い眠りを繰り返し、その都度、何十回、何百回と短い夢をみた。目が覚める度に夢の内容は忘れてしまい、夥しい数の夢をみた疲れだけが残った。

 その晩、高野と伊藤がアパートを訪ねてきた。

「連絡もなしに読書会来ないから、どうかしたのかと思って来た」と高野が、上からベッドを覗き込むように言った。僕が、熱っぽくて動けないと言うと、高野は一旦部屋から出て行って、暫くすると飯盒のような容器に入ったプレーンヨーグルトを買って来た。

「今日は朝から何も食べてんのと違う。これでも食べてみたら。少しは違うと思うよ」高野はそう言うと、それをベッドの脇に置き、伊藤とともに直ぐに帰っていった。

 ふたりが帰った後、僕はベッドの上で、スプーンでヨーグルトをひと匙掬って口に入れた。味は分からなかったが、一瞬で口内に籠っていた熱を取り除いてくれるように思えた。僕は続けて幾匙か掬い口に運んだ。そうして、また眠りについた。

 その翌日の朝、熱が少し治まったように思えた。ベッドから床に降りると少しふらついたが、歩けそうだった。それでトイレに行き、小便器に向かった。小便がなかなか出てこなかった。しばらく我慢して立っていると、コーラの色の液体が尿道の先から零れ落ちてきた。そして尿道に、何か熱い液体を通した後のような鈍い痛みが残った。

「ちょっ、これは良くないな」と独り言を言った。これは早く何とかしないと、後で酷いことになりそうに思えた。

 部屋に帰ると、身体がまだ少し動かしづらかったが、無理をして外に出られる格好に着替えた。ニクロム管の電気ストーブを点けたが、それに部屋を暖めるほどの熱量はなく、部屋は冷え切ったままだった。着替えるために下着姿になると、自分の手足が死蝋のように生気が無くなってみえた。

 アパートを出ると、民家の屋根や路側には雪が残っていたが、道路上の雪はほとんど消えて路面が消えた雪で濡れていた。それでも顔は刺すように痛かった。

 賢坂辻の浅川内科に向かって歩いた。熱はまだ完全には下がっていないようだったが、足取りは、我ながらしっかりしているように思った。鼻孔の奥が腫れあがり、喉も痛かった。風邪をひいたのは間違いないが、問題は酷い血尿だった。あれをみたら、放っておけないのは明らかだった。

 浅川内科は空いていて、直ぐに診察の番が回ってきた。浅川医師に症状を話すと、まず検尿をするように言われた。検尿結果は直ぐに出たが、医師は、「顕微鏡では赤血球の数が数え切れないほど多い。尿蛋白もかなり酷い。紹介状を書くので、明日にでも金沢総合病院に行くように」と言った。そして解熱・風邪薬としてシオノギのPL顆粒1.0ミリグラムを3日分だけ処方された。

 その翌朝は、夜に飲んだPLが効いたのか、熱はほとんどないように思えた。また、小便も色を見る限りではほぼ正常に戻っているように思えた。しかし、紹介状をもらったので、ともかく病院に行くことにした。また、賢坂辻まで出てそこでタクシーを拾い、病院まで行った。9時頃には病院に着いて受付を済ませ、外来の廊下の長椅子で診察の順番を待ったが、名前が呼ばれたのは、12時を過ぎていた。

 診察の順番が来て、診察室に行くなり、医師は「腎臓の生体検査をしないと何とも言えないね。検査をするのに10日ほど掛かる。幸い、明後日にベッドが一つ空くので入院しなさい」といい、診察はものの5分で終わった。

 僕はまたタクシーでアパートまで戻った。少し頭が痛がったので、PLを飲んでベッドに入った。ベッドで横になると急に眠気が襲ってきた。

 翌日は入院の準備をした。下着などの着替えを揃えて、手提げの紙袋に詰め込んだ。夕方、高野と伊藤が来た。

「大変なことになったわね」と伊藤が言った。

「なあに、心配いらないよ。腎臓の病気はこれまでも何度かやっているからね。小学生の頃は、心臓も肝臓も腎臓も全部悪くなって、何度も入退院を繰り返していたことがある。最近は比較的調子良かったけどね。酷い風邪が悪化の誘因になったのかも知れない」と言った。前年6月にあった大学の健康診断の際には尿蛋白が検出されて、附属病院にまで行って再検査を受けた。その再検査では尿蛋白は認められなかったので、問題なしとされたが、その頃から、そのうち腎臓がまた悪くなるような予感はあった。

「洗濯物はどうするのよ」

「週に1、2回、母親が来てくれるらしい」

「そう。私たちで手伝えることがあったら、何でも言ってね」

「うん、また頼むよ」

 高野と伊藤は早々と帰っていった。

 その夜、照明を消した部屋で、ボリュームを絞って、モーツァルトの「レクイエム」を聞いた。ステレオを買って一番聞いていたのは、ショパンでもブラームスでもストラブィンスキーでもなく、モーツァルトの「レクイエム」だった。レコードのジャケットの裏には、病に伏しているモーツアルトの家に、深夜、仮面を着けたサリエリが作曲を依頼に来たというエピソードが書かれていた。レクイエムを聞くと、運命が自分に擦り寄ってくる予感のようなものを感じた。悪寒が走り、自分の顔が急激に青ざめていくような感覚に襲われた。そしてさらに聞いているうちに、悲しみとも感動とも知れないものが溢れてきて、自然に涙が出てきた。

 その夜、いつものようにレクイエムを聞いていると、また感動に咽いで涙が出て来た。生死の境をさ迷い、最後に死の淵に立って短い一生を回顧している男の象が脳裏に浮かんでいる。

 レクイエムを聞き終わってベッドに入ったが、気分が高ぶっていて、なかなか寝付けなかった。いつまでもレクイエムの歌声が頭の中で鳴り響いていた。枕元の腕時計を見ると既に2時を回っていた。僕はトイレに行き、小便をしながら尿の色を観察した。もはやコーラ色はしていないが、透明の液体がどこか黒ずんでいるように見えた。そして草臥れたような匂いが立ち上ってきた。やはり腎臓は些かまずい状況のようだなと思った。部屋に戻ると、電気ポットの湯を暖め直して、薄いボーンチャイナのティーカップでオレンジペコを飲んだ。そして、再びベッドに入ると、いつの間にか寝てしまったようだった。気が付くと朝9時を回っていた。


 着替えをぎっしり詰めた紙の下げ袋を持ってアパートを出た。昨夜深夜から水分を含んだ重たい雪が降り続いたが、いまはちょうど雪がやんでいた。しかし道路は薄く雪に覆われていて、中央には車の轍が幾重にも重なって出来ていた。僕は長靴を履いて轍を避けながら、賢坂辻まで歩いて出た。賢坂辻には、幸い1台のタクシーが兼六園下の方向に向かって止まっていたので、そのタクシーに乗り込んだ。

「入院ですか」と運転手が、タクシーが走り出してから聞いた。

「分かりますか」

「うん。若い人にしては、顔色があまりよろしくないので、そう思ったんですよ」

 病院には10分ほどで着いた。玄関から入り、待合室を抜け、暗くて長い渡り廊下を歩いて病棟の建物に辿り着き、軋みながらゆっくりと降りてくるエレベータを待った。エレベータに乗ると3階で降りて、濃い青色をしたリノリウムの廊下を歩いて、看護婦詰所まで行った。

 名前を告げると、「入院のしおり」と提出書類の用紙の束を渡された。そして、看護婦が病室まで案内してくれた。病室は4人部屋で、僕のベッドは廊下側だった。荷物を置くと同室の入院患者に挨拶して回ったが、3人とも僕の父親よりまだ年老いて見えた。

 病棟に入ってきた時から匂いが気になっていた。もちろんアルコール消毒液のような匂いは病棟全体に立ち籠めていたが、それだけではなかった。何と表現すべきか、干からびて剥がれ落ちた皮膚を思わせるような、鼻孔を詰まらせる微かな匂いが、壁や天井から沁み出していた。

 ベッドに横たわり天井を見上げると、灰色の包帯を巻いた3本の太いパイプが、天井板を破って部屋に突き出てきて、今度は直角に曲がって隣の病室の方の壁の中に消えていた。それぞれのパイプには、パイプの中の弁を操作する赤色や緑色の丸いハンドルが付いている。そのミイラの足に巻いたような包帯から、湿った埃のような微かな匂いが降り注いでいるように思えた。

 僕の寝ている鉄製のベッドの縁は、白い塗料がところどころ剥がれて金属が剝き出しになっていた。その部分を暫く眺めていると、口の中が錆びの味でいっぱいになった。

 食事はパイプの下の台の上で摂った。おかずは、どれもこれも塩分がほぼ入っておらず、何でも酢と砂糖で味付けされていた。ほうれん草のお浸しは甘酸っぱい味、焼いた鶏肉も甘い味。見た目と味が全く違う食事を摂り続けていると、自分の味覚も、少しずつ狂っていくような感じだ。

 入院後2日間ほどは血液検査などが続き、3日目に病室で、背中から針を刺して腎臓の組織の一部を取り出す検査を受けた。局部麻酔をしていたので、痛みはそれほどなかったが、検査後の24時間、絶対安静を続けるのは辛かった。腰が疼いて足を動かしたくなるのを必死で堪えた。屎尿瓶を挟んでいたが、尿意は全くなかった。

 その検査をした翌日に、高野と伊藤が来た。高野は僕の誕生日プレゼントだと言って、紙袋を差し出した。中をみると、椎名鱗造の創作集「重き流れの中に」の初版復刻版が入っていた。

「刀祢は椎名鱗造が好きやろ。橋場町の古本屋に行ったらあったんで、買ってきてやった。いま書店には、椎名鱗造追悼関係の本が何冊も出てて、ちょっとしたブームになってる。これも、将来高く売れるかも知れんで」と言った。

「ありがとう。誕生日だったっけ」言われて気が付いたが、19歳の誕生日だった。病院のベッドで拘束されたまま、誕生日を迎えようとは思ってもみなかった。寝たままの姿勢で、煤けた粗末な小箱入りの小さな本を取り出して奥付をみると筑摩書房の昭和45年7月に出した復刻本で、「限定1千5百のうち第7百」と書かれていた。確かに骨董品的価値が出てくるかも知れない。

 この1年間で読んだ本の中で最も深く感動した本は、児童文学ではなくて椎名鱗造の何冊かの小説である。転向体験がベースの作家と言われているが、むしろ僕が感じたのは椎名の信仰心だ。小説からは、一切何の装飾も纏わず、それどころか一糸纏わず裸で神様の前に立っている男のイメージを感じた。椎名が実際に洗礼を受ける前の初期の作品からさえも、同じイメージを受け取った。僕は異教徒ながら、その命を洗うような清らかさに打たれていた。

「それから、前回の『ホビットの冒険』は、1回で終わってしまったの。次回の読書会は、刀祢君は出て来られないと思うけど、イタロ・カルビーノの『まっぷたつの子爵』になったよ」と伊藤が言った。

 高野と伊藤が帰った後に、拘束が解かれて、ゆっくり少しずつ動くことを許された。とりあえずトイレに行きたかったので、ベッドから立ちあがろうとすると、背中の筋が突っ張るような感じがした。そして少し歩き出すと、背中を銃で撃たれて、その銃弾の摘出手術を受けたよう後のような鈍痛がした。

 足を引き摺りながら廊下を歩いてトイレに行くと、さらし粉の強烈な匂いが迎えた。尿は小便器に捨ててしまわずに、すべてビーカーに取り、それを、梅酒を漬ける容器のような目盛りの付いた大きなガラス瓶に毎日溜めるように言われていた。トイレの隅に置かれたステンレスの棚の上には、名前の書いた十数個の大きなガラス瓶が並んでいた。僕は、その中から自分の名前の書いた瓶を見つけて、尿をビーカーからその中に移した。

 それから毎日、大きなガラス瓶に尿を溜めることになったが、ガラス瓶をみると、自分の尿は少し濁っていて、底に白い沈殿物がありそうだった。しかし、僕の尿よりも濁ったものやコーヒー色をしたものあるので、僕の尿が特別に深刻な状況を物語っている訳でもなさそうだ。

 ある夜、真夜中に尿意を感じて目が覚めた。トイレに行くと、青いゴム手袋を着けたひとりの看護婦が、洗浄用のシンクのところで、大きな尿瓶を洗っているのを目にした。どうやら毎晩ガラス瓶内の尿の容量を記録した後に、ビーカーや尿瓶を洗浄しているらしい。それを見たら、何か恥ずかしいような、申し訳ないような気分になって、尿意が急速に後退した。そして用を足さずにそのままベッドの中に戻った。

 それから暫くして、寝ている僕の肩を誰かが軽く叩いた。目を開けると、看護婦の浅野さんだった。「さっき、トイレに来たでしょ。もう使っても大丈夫よ」と彼女は小声で言った。トイレに行った時には、看護婦の後姿だけをみて、それが誰だか分からなかったが、どうやら浅野看護婦だったらしい。今晩は彼女が夜勤で、尿瓶の洗浄も彼女がしていたということのようだった。

 せっかく知らせてくれたのだと思って、またトイレに行った。確かに棚に並べられたどの尿瓶もピカピカになっている。僕はビーカーに取った尿を尿瓶に移しながら、また恥ずかしいような申し訳ないような気分になった。

 生体検査から1週間程経った日、主治医から呼び出しがあった。まだ背中に鈍痛を感じながら、看護婦詰所横の「処置室」と書かれた部屋に行くと、カルテらしいものを机において椅子に座っていた主治医が、僕にも座れと言った。

「慢性糸球体腎炎だね。小学生の頃、溶連菌感染でリューマチ熱を発症して入退院を繰り返していただろう。その時の担当医は、溶連菌感染による急性腎炎だと診断していたようだ。一昨年入院した頃も、その急性腎炎が慢性化したものと診断していたと思われる。しかし、今回の生検の結果からみると、君の腎炎は溶連菌感染が原因ではなく、別の因子で起こったものだということが分かった。発病の時に正しい治療をしていれば完治したかも知れない。しかし今は慢性化していて完治は難しい。とはいえ、小学生時代に徹底してリューマチ熱の治療を行ったので、心臓弁膜症にならずに命が助かったんだから、当時の担当医には感謝すべきだと思う」

「はあ」

「腎臓の組織はそれなりに痛んではいるが、腎機能としては、あまり損なわれていない。腎炎が治ることはないが、適切に治療と経過観察を続ければ、長持ちはさせることはできると思うよ」

「はあ。この前、酷い血尿が出て心配だったんですが」

「血尿は炎症が起きた結果であって、その原因ではない。血尿それ自体を心配する必要はないよ」

 それだけ言うと、もう用事は済んだというばかりに、部屋からさっさと出ていくように、目で促した。

「入院はあとどれくらい必要ですか」と僕は椅子から立ち上がりながら聞いた。

「そうねえ、尿がまだ汚いから、もう少し綺麗になるまで安静にしていないといけないね。自宅で安静にするといっても無理だろうから、あとしばらく入院していたら」と言った。

 僕はまた背中に鈍痛を感じながら病室に戻った。直ぐに命を取られるような病気でもない。主治医の説明に特に衝撃はなかった。

 

 それから暫くして、白井さんと川合が一緒に見舞いに来てくれた。僕は長い間風呂に入っていないので、髪の毛がぼさぼさだった。髭剃りも朝したり、しなかったりしていたので、顎下や頬の所々で髭が伸びていた。ふたりに見苦しい格好を見られたくはなかったが、来られて仕舞えば仕方がなかった。

「元気そうだね。もっと酷そうにしているのかと思った」と白井さんが言った。「腎臓病って、顔や体が浮腫んで腫れるんでしょ。でも、顔はあまり変わっていないわね」

「でも、元気そうで良かった」と川合が言った。

「いや本当は、毎日、死にそうに辛かったんだよ。でも今ふたりをみたら、少し元気が出てきたみたいだ」冗談でもなかった。ベッドから健康そうなふたりの顔を見上げると、見慣れたはずの顔がとても眩かった。ふたりの美しさは格別だった。病棟という閉鎖的な空間で見るふたりは、モノクロの世界に、ぽうっと色鮮やかな花が出現したようなものだった。僕の顔は知らず知らずのうちにほころび、にやけてくる。

「これ児文研からのお見舞いよ」といって、川合が紙袋を僕に手渡した。随分と重い。その紙袋の中をみると、イタロ・カルビーノの「まっぷたつの子爵」、ナット・ヘントフの「ジャズカントリー」、それに、さとうまきこの「絵に書くと変な家」のいずれも新品の本が入っていた。

「刀祢君は当分出席できないでしょうけど、これからの読書会で予定されている本よ」と川合が言った。

「なんか、随分おしゃれな本になったね。『ボクちゃんの戦場』と随分違うな」

「読んでみれば、そうでもないよ。何故これらの本になったか、なんとなく分かると思うよ」と白井が言った。

「また、『戦争』の続きかな」と僕が聞くと、

「まあね」と答えた。そして、

「それと、Till the break of dayの翻訳終わったよ。次の機関誌に翻訳を発表するつもり」と言った。

「それは良かった。僕は、アパートでその翻訳作業の最中に倒れたんだよ。集中し過ぎていて」

「冗談でしょ」

「うん、冗談。全く役に立たずに申し訳なかったです」

 ふたりが帰った後、川合に食事に行く約束が果たせなかったことを詫びられなかったことが悔やまれた。お詫びした上で、退院したら、食事に行こうという約束を取り付けたかった。しかし、白井さんが一緒だったので、言いそびれてしまった。

 たまたまその日は、母親が来ていた。母親は、ふたりにお茶を出したり、お茶菓子を包んで渡したりしていた。ふたりが帰った後に、

「ふたりとも随分可愛い子ね。マー君は、髪の長い方の子と、短い方の子のどっちの子が好きなの」と言った。

「ふたりとも関係ないよ。僕には母ちゃんしかいないよ」といって、ベッドに潜った。

 その夜は川合のことを思い出して、いたたまれない気分になった。なかなか寝付けなかった。去年夏に「スティング」を一緒に見に行って以来の掴んだチャンスだったのに、自分の発病でそれをフイにしてしまったことが悔やまれた。



13.片町(かたまち)尾山町(おやまちょう)


 生体検査から3週間ほどたった日、病院からの外出許可が出た。病棟の婦長が、退院する前に一度院外に出て身体を慣らしておくことも必要だと言っていたので、前の日に、外出許可願いを出したら、直ぐに許可された。

 その前夜、消灯時間を少し過ぎた頃だった。その夜が夜勤になっていた浅野看護婦が部屋のドアを静かに開けて、懐中電灯を持って僕の枕元にやってきた。そして「明日外出許可が出たんでしょ。私が付き添って上げましょうか」と、同室の患者に聞かれないように、囁くような小さな声で言った。

「えっ、そんなこと出来るの」と僕も小さな声で聞き返した。

「明日は非番だし自由にできるよ。刀祢さんは、なんか危なさそうだから、一緒にいて上げた方が良いかなと思って」と言った。僕は少し考えたが、浅野看護婦の申し出を拒む理由は特に何も見当たらなかったので、申し出に応じることにした。

 翌日の外出許可時間は、昼の12時から夜の8時までだった。僕は昼の病院食を食べ終わると、パジャマを脱いで平服に着替えた。そして、自分には似合わないことは分かっていたが、それしかないので、母親が持ってきてくれたトレンチコートを羽織った。そして入院する日に履いてきた長靴を履いて、病院の玄関から外に出た。2月の初旬で気温は10度には届かず、空は相変わらず鉛色の雲が覆っていた。しかし、その日は風がなく雪の降る心配もなさそうだった。

 僕は、病院前の交差点を渡ると石川護国神社に行った。そこで浅野看護婦と待ち合わせていたからだ。しかし、手水舎の側に立っている浅野看護婦を見た時は別人ではないかと疑った。彼女は仕事中眼鏡を掛けていたが、その日は掛けていなかった。ショートの髪はそのままだったが、青いダウンジャケットにジーパンという出で立ちも、白衣とは全く違う印象を与えた。病棟では、彼女が先輩の看護婦に指示されて走り回っているのをみていたが、今日は堂々としているように見えた。

「眼鏡は」

「仕事の時は眼鏡を掛けているけど、非番で外出するときはコンタクトにするのよ」

 僕らは、護国神社の広い境内を少し歩いた。1月末に降った雪が本殿や拝殿の屋根や境内の片隅に残っていた。境内を少し歩いただけでも僕は少し息切れを感じた。そこで五葉松の近くで暫く佇んで、息を整えた。

 それから、能楽堂の前を通って広坂を下った。鬱蒼とした木立が歩道の上にも張り出している。野鳥園からは、何の鳴き声なのか聞き分けられないが、幾種類かの鳥が忙しく鳴いていた。そして微かに鳥類の糞臭も漂っていた。歩道の日陰になる場所には凍結しているところがあった。僕らは滑らないように坂を下りた。坂を下り切ると、附属小中学校の角の細い道から柿木畑を通って、竪町の喫茶店オリンピアに入った。

 喫茶店に入るのは久し振りだった。僕は深々としたビロードのソファに体を沈めた。ソフアから伝わる自分の鼓動が随分速く感じられた。街を少し歩いただけだが、暫く動かさなかった身体には、それなりの負荷が掛かったようだった。僕の様子をみていた浅野看護師は、「大丈夫よ。ベッドで寝ていた人が、突然外に出たら、みんな疲れるよ。刀祢さんの顔色は、いつもと変わらないよ」と言った。

「いつもそんなに顔色良くない」

「そういう訳でもないけど。退院して外に出るようになったら、少し変わると思うよ」

 僕らは、コーヒーとシフォンケーキを注文した。

「でも、浅野さんが、僕に着いてきてくれるとは、思っていなかったよ」

「お邪魔だった」

「邪魔じゃないよ。看護婦さんが着いていてくれるのは、凄く心強いよ」

「この前、お見舞いに来た美人の女性なら、もっとよかったのにね。あの人たち、病室を聞きに看護婦詰所に寄ったのよ。応対した看護婦が、すごい美人だったと騒いでいたよ。私も廊下で擦れ違ったけれど、確かに美人だった」

「同じサークルの人達だよ。代表して見舞いに来てくれただけだよ」

「そう」

 部屋が暖かいのが気持ち良かったし、久し振りに飲むコーヒーも旨かった。低音量でクラシックや軽音楽が流れていて、ソファで暫く微睡んでいたいように思った。しかし、浅野看護婦は、コーヒーを飲み終えると、ここを出ようと言った。

 浅野看護婦は、尾山町のボウリング場に僕を連れて行った。「1、2球でいいからボールを投げると、身体の動きが少し慣れてくると思う」と言った。僕はボウリングをしたことがなかった。

 平日の昼間だったので、場内の客は疎らでレーンは幾つも空いていた。

 浅野看護婦が「まず練習投球よ」と言って、第1投を投げると何本かのピンが倒れた。そして「どんな格好でもいいから、ボールを転がしたらいいのよ。やってみて」と言った。

 僕は助走しないでゆっくりとボールを転がしてみた。しかし、ボールがレーンを半分ほど転がったところで止まってしまった。

「力がないな。それともやる気がないのかな」浅野看護婦は困惑したように半笑いしながらそう言うと、靴を脱いでレーンの上を歩いていって、止まっているボールを転がした。するとピンは1本を残して倒れた。

 1ゲームと言っても、僕が投げたのは3投か4投で、そのすべてがガーターになった。もちろん真面目にピンを目掛けて投げたのだが、ボールは妙な回転をしながらレーンの脇に逸れて行った。後は、僕のボールも浅野看護婦が投げた。僕は情けなくて恥ずかしかったが、もともと運動神経が悪いのだから、まあそんなものだろうと思うことにした。それでも少し汗ばんで、背中が少し突っ張るような痛みが残った。ゲーム代は、私が誘ったのだからと言って浅野看護婦が払った。

 ボウリング場を出ると、既に辺りはすっかり暗くなっていた。微かな風が顔を刺すようだった。鼻から肺に入ってくる空気が痛い。腕時間をみると5時を少し過ぎている。僕らは古い建物の飲み屋や食堂が幾つか並ぶ尾山町の商店街を歩いた。

 浅野看護婦は「刀祢さんは塩分制限が必要でしょ。外食で塩分の少ないものを摂ろうとすると、結構大変なのよね。そういう場合、タレさえ漬けなければ塩分のないメニューを選べばいいのよ。例えば、てんぷらとか、とんかつとかは、衣に少量の塩分があるけど、せいぜい1.5グラムから2グラムまでだから、タレにさえ漬けなければ1食分としては許容範囲内になる。刺身も醤油をほとんど着けずに食べれば、多分大丈夫だと思う。新鮮な魚なら少しの醤油でも美味しいよ」と言った。

 そして、八丁味噌を使った味噌カツがメインらしい店の看板を見つけると、浅野看護婦はその店の前で立ち止まった。そして、

「味噌タレを掛けずに別に出してもらうように頼めば大丈夫よ」

浅野看護婦は、そう言うと店の中に入っていくので、僕も従うしかなかった。

 浅野看護婦が、出てきた店員に味噌タレを掛けないで欲しいと頼むと、分かったようだった。僕は全くタレを着けずにカツを食べたが、それで10分に旨かった。脂身が少なく柔らかい肉だった。衣の付き具合も良かった。

 支払いをしようとすると、浅野看護婦が「私がするからいいよ」と言った。

「さっき、ゲーム代出してもらったじゃないですか」

「いいよ。私は給料をもらっているから」と言って聞かなかった。だから夕飯代も浅野看護婦に奢ってもらった。 

 店を出た後、ふたりでまた病院まで歩いた。浅野看護婦は病院の敷地内にある職員寮に帰るということだった。中央公園の中を通り抜けて県庁前の通りを歩き、広坂を上った。空気は更に冷えてきて顔が痛いほどだった。

「浅野さん、何で僕にこんなに親切なんですか」と歩きながら聞いた。

「何か弟みたいに思えて」

「弟がいるんですか」

「いえ、いたの。亡くなったの、病気で。小学6年の時に」

 その時、初めて浅野看護婦の身の上を聞いた。今日半日一緒にいたが、まだ彼女のことは何も聞いていなかった。浅野看護婦の名前は浅野冴子で、歳は僕の2歳上だった。病院付属の高等看護学院を卒業して昨年4月に看護婦になったばかりだった。自宅は小松市内だが、今は病院の寮に住んでいるということだった。

「刀祢さんのお母さんは、刀祢さんのことをマー君って呼ぶの」と浅野看護婦が聞いた。

「昌行だから、マー君。小さい時から病弱だから、やや過保護になっているのかも知れないね」

「実は、私の弟もマー君だったの。名前は正俊だけどね。家族が呼ぶときはマー君。私もマー君って呼んでいたの」

「同じマー君ですか。そういうこともあるんですね」

 そんな話をして歩いているうちに、病院の夜間通用口に着いた。


14.アパート(その3)


 それから数日経って僕は退院した。退院する際に、主治医は、当面1日当たりの塩分摂取量を6グラムまでに抑えるように言った。そして入院時と同様に興和のMDSを毎食後に1錠ずつ飲むように処方された。

 食塩6グラムというのは、それぞれの食品にすれば、おおよそどれほどの量になるのか、全く見当がつかなかった。

 退院後の翌朝は、これまで通り食パンを1枚食べた。昼は学食でザル蕎麦を食べた。浅野看護婦から、同じ麺でも、うどんは麺自体に相当の食塩が含まれているが、蕎麦はほとんど含まれていないと聞いていた。夜は何を食べたら良いのか全く分からなかった。食欲もなかった。おそらくは薬の影響で腹部膨満感が続いていた。そこで面倒なので、スーパーで片栗粉と蜂蜜を買ってきて、片栗粉を湯で溶いて蜂蜜を掛けて食べてみた。それとは別にプレーンヨーグルトも買ってきて食べた。これでカロリーとカルシウムは摂れていそうに思えたが、何日も出来ることではない。翌日の夕飯は、米を買ってきて初めてご飯を炊いた。自宅から持ってきたまま、それまで使うことのなかった炊飯器を初めて使った。おかずは、春キャベツを買ってきて、手でちぎり少量のマヨネーズを着けて食べてみた。食欲はないが、そうは言ってもキャベツのみというのは辛い。その翌日からは、夕飯も外食に戻した。紺屋坂にある電通会館1階のレストラン兼六で、カツライスを注文しタレを着けずにとんかつを食べ、さらにその翌日の夕食は、同じレストランで刺身定食を注文し刺身を僅かに醤油に浸して食べた。


 2週間後に退院後初めて外来の診察に行った。結果は、尿蛋白はプラス2だったが、血液検査では腎機能に大きな悪化はなかった。薬局でMDS錠を受け取って帰ろうとした時、私服の浅野看護婦が待合室の椅子の間を縫って、僕の方にやってきた。彼女は、今日が僕の通院日だと知ったので、自分が休みになるように日程を調整したのだと言った。そして、

「食事に困っているんじゃない」と聞いた。

「その通りですよ」

「私が、教えてあげようか」

 僕は一瞬返答に窮した。彼女が僕の中に急に入り込んできたように感じて、戸惑ったのだ。しかし、直ぐに、別に拒むことはないと考え直した。既に半日一緒に遊んだ、というと問題があるが、事実上遊んだ間柄だった。

 彼女は買い物をするというので、賢坂辻のFバザールに立ち寄った。彼女は野菜や卵などを買った。それから僕のアパートに向かった。アパートに着くと、僕は足の踏み場もないほど散らかった男たちの靴を、足を使って隅に寄せ、彼女が入って来られる隙間を作った。彼女が三和土から床に上がると、彼女の脱いだ革のブーツは、踏まれないように下駄箱の上に置いた。それから2の僕の部屋に案内した。

「部屋の中は、思ったより綺麗ね。男の子の部屋って、もっとぐちゃぐちゃかと思っていた」浅野さんは広くもない部屋中を眺めまわして、「でも、何か殺風景ね」と言った。窓の外には白々とした竹林が見えていた。

 部屋は冷え切っていた。僕は電気ストーブを点け、そして電気ポットでお湯を沸かし、ホームこたつの天板の上においたボーンチャイナのティーカップに湯を注いで、オレンジペコのお茶を作った。

「このお茶は、この前見舞いに来たふたりのどちらかの人の好み。刀祢君の好みじゃなさそうだし」と聞いた。

「ちょっと違うね。別の友達だよ」

「そう。でも美味しい」


 それから買ってきた食品を持って1階に降りて、奥にある台所兼食堂に浅野さんを案内した。ここへは電気ポットで沸かすための水を入れに来るだけで、台所内をよく見たことがなかったが、ガスコンロの周囲は吹きこぼれや油で汚れ、インスタントラーメンの破片のようなものが付着していた。周りの壁は煤けて黒くなっていた。床のねちねちした油汚れで歩くたびにスリッパが踵から離れた。

ガスコンロの周りや棚には、誰の物とも知れない古い鍋やフライパン、食器などがあった。その多くは卒業して出て行った住人が置いて行ったもののようだった。

 僕はそれらの中から適当な鍋を持ってきて、浅野さんの指示どおりにホウレン草を茹でた。浅野さんは別の鍋で湯を沸かし、その中に賽の目に切ったジャガイモとわかめを入れた。

「少なめのお湯に具材を沢山入れて、出汁の素も一杯入れるのよ。そして味噌はほんの少しだけ入れればいいのよ」と言った。

 彼女は更に、卵を溶いて出汁の素と砂糖を入れて小さなフライパンで出汁巻き玉子を作った。

 それから僕らは、かなり早い時間ではあったが、僕の部屋で夕飯にした。昼飯を食べていなかったので腹が空いていた。MDSも飲み忘れていた。

 出汁巻き玉子とホウレン草のお浸しと味噌汁。どれも旨かった。

「これくらいならひとりでも出来るでしょ。お浸しも、こうして擂胡麻を一杯かければ、醤油をあまり使わなくても美味しいでしょ」

「うん。旨い。どこで調理を習ったの」

「習った訳じゃないけど、実家が食堂だから、何となくね」と言った。彼女の実家は小松駅前の通りから2本ほど入った通りにある食堂ということだった。「本当は中華だけど、お客さんが食べると言えば何でも出すよ。うどんとか、どんぶりとか」

 食事が済むと、浅野さんは、帰ると言ったので、送っていこうかと立ち上がると、道は分かるから送らなくてもいいと言った。そして、

「また、ここに来てもいいかな」と言った。

「もちろん。鍵は掛けてないから、もし僕がいなければ勝手に入っていて構わないよ」と答えた。

 その後、浅野さんは、僕のアパートに時々来るようになった。浅野さんが来ている時に、高野と伊藤が来ることもあった。初対面の時は、浅野さんと伊藤とが気詰まりを感じているようだったが、2度目以降になると、ホーム炬燵に4人が足を入れて一緒に時間を過ごすようになった。僕は、少しずつ飲酒を復活させ、高野も相変わらずよく飲んだ。そして浅野さんも思いのほか強かった。バイト代が入って少し余裕がある時はレッドではなくて、サントリーホワイトを買ったが、ホワイトのお湯割りは悪くなかった。また、高野が持ち込んできた清酒のにごり酒は甘くて旨かった。4合瓶はあっという間に空になった。

 ある日、浅野さんは酒瓶を鞄に入れて持ってきた。

「先生達が美味しい酒だと言っているから、きっと美味しいよ」と言って一升瓶を取り出した。「剣菱」という銘柄の灘の酒だった。

「どうやって、手に入れたの」市内の酒屋には置いてないように思えた。

「先生が学会に行った時などに仕入れてくるのだと思うけど、婦長が管理しているのよ。だから、父親に飲ませたいと言って、分けてもらったのよ」

「浅野さんは凄いな。よくやるな」と高野が感心したように言った。

 早速味わったが、辛口のすっきりした味の酒だった。しかし、4人で飲むと、これもまた直ぐになくなった。

 浅野さんが井上陽水のアルバムを持ってきたので、4人で聞くことがあった。「桜三月散歩道」、「小春おばさん」、「人生が二度あれば」などはどれを聞いても、心に沁みる名曲だと思う。

 これに刺激を受けたのか、高野も翌日、彼が好きだと言う岡林信康のライブ録音盤のレコードを持ってきた。「友よ」、「私たちの望むものは」などは良い曲ではあるが、歌われている若者たちの連帯は、今の時代にはもうない。あるように見えても、無理やりこしらえ上げた虚構でしかないだろう。いまの時代は個人はどこまでも個に分裂していくように思う。だから時代的には、やはり古い曲なのだ。

しかし、その中でも「水と光とそして私」は、時代の古さを感じさせないとてもいい曲だ。日野さんは、今江祥智の「水と光とそしてわたし」はテーマソングのある唯一の児童文学だと言っていた。今江と岡林はどこかで繋がりがあるのだろう。だがタイトルの偶然の一致なら、岩本敏男の「赤い風船」も、浅田美代子が歌っている同名のタイトルの曲があるのではないか。そんなことを思いながら曲を聞いていた。

 ところで、浅野さんの一番好きな歌手は井上陽水ではなくて、郷ひろみだった。浅野さんが郷ひろみのシングルを何枚か持ってアパートに来たことがある。すると、伊藤がそれを見て喜んだ。実は伊藤も郷ひろみのファンで、妹と一緒にライブコンサートにも行くと言うことだった。確かに、郷ひろみの歌は、熱くなり過ぎず、語り過ぎず、さわやかな色気がある。中でも「よろしく哀愁」は心地良い曲だ。

 こうして僕の買ったステレオは、モーツァルトの「レクイエム」よりも、フォークや歌謡曲を掛けることの方が多くなっていった。

 

 ある日のことだった。浅野さんは僕のアパートに来て遊んだ後の帰り際に

「ねぇ、アパートを引っ越さない」と言った。

「えっ、なんで」と聞くと、

「台所もトイレも共用だし、風呂もないでしょ。普通のアパートに引っ越した方が、私も来易いよ。家賃の半分は私が出してもいいから、引っ越ししようよ」と言った。

 僕は今のアパートをそれほど不自由に感じていなかったので、素直に

「そこまでは考えていないよ」と言った。しかし、浅野さんには何か特別な思いがあったのかも知れない。

「分かった。私、このアパートには、もう、あまり来ないようにするね」と言った。僕はその言葉に驚いて、

「どうして。これまで通り、来たらいいじゃないか」と言った。すると、浅野さんは何か暫く考えていたが、

「そう。では、また来るよ」と言って、アパートを出て行った。

 しかし、浅野さんは、それから僕のアパートに来なくなってしまった。浅野さんがいると、賑やかになって心も弾んだが、来ない日が長く続くと、また元通りの寂しい暮らしに戻っていくようだった。また、いつものように浅野さんと遊びたいが、病院や寮に電話をしたりするのは、彼女に迷惑を掛けそうで気が引けた。彼女が来るのを待つしかないのだろうか。


15.サークル長屋(その4)


 ところで、ひと月ほど休んだ後に再び大学に行くと、学生会館前の新しい立て看板が目を引いた。大きなジェット戦闘機の絵に「小松基地ファントム配備阻止」と書かれている。前年12月に田中内閣が総辞職してから、闘争の主要テーマが田中内閣打倒からF4ファントムジェット戦闘機の配備阻止に変わったようだ。その立て看板の絵は看板絵のプロが書いたかのように上手く書かれていた。遠近感があり細部まで詳細に書かれていて迫力があった。難癖を着けるとすれば、子供の頃プラモデルで遊んだことのある学生なら、「配備阻止」よりも、むしろ一度本物を見てみたいという好奇心の方を掻き立てる絵であることだ。

 児文研では、僕のいない間にも読書会で幾つかの作品が取り上げられていた。「まっぷたつの子爵」、「ジャズカントリー」、「絵に書くと変な家」は既に終わり、直近では、高史明の「生きることの意味」と高史明・岡百合子の「ぼくは12歳」の読書会があったようだ。この2篇になった正確な理由は分からないが、両作品ともかなり話題になった作品ではある。最近の韓国内の情勢、特に詩人の金芝河の投獄なども影響していたのかも知れない。今は恐らく韓国内の情勢の方が日本国内の政治情勢よりも学生たちの関心を集めている。大江健三郎や鶴見俊輔などが金芝河の支援活動をしているし、高史明らもこの活動に関わっているのかも知れない。

 僕の退院後の読書会で、最初に取り上げられたのは、上野瞭の「ちょんまげ手まり歌」の読書会があった。しかし、僕は、1回目は出席したが、2回目は通院日と重なったので欠席した。上野瞭の評論は非常に鋭いものがあるが、創作はやや筋書きが目立つというべきか、話の骨組み、構造というようなものが鼻について、文芸的な面白みは今一つのように思う。

 「ちょんまげ手まり歌」の読書会の1回目は、国の体制と官僚制の話に終始したが、2回目は体制、善と悪といったことが議論になったようだ。高野から聞いた話によれば、社会の治安を維持し多くの人が争わずに暮らせるように身分制度を設けたり、一部の人々を排除したりすることは、許されるのかどうか。いわば個人の正義と体制の正義の相克についての議論が中心だった。意見は幾つにも分かれたようだ。国家の本質は非合理的な暴力装置であり最終的に止揚されるべきものだ。だから個人は連帯して戦うべきだといった(教条的な)意見が、高宮さん達からあり、これに対して、人類のどのような発展段階においても、人間が生きるためには何らかのシステムが必要であり、残念ながら個人は沈黙せざるを得ないこともあり得るといった(現実的な)意見が、森田さんからあった。その他にも様々な意見があり、中には、体制の中で個人が拗ねること、或いは「引かれ物の小唄」を歌うことこそが文学になるのではないかといった意見もあったようだ。そして、最近の傾向だか、この読書会も意見がまとまらず、結局、読書会は2回で打ち止めにせざるを得なかったようだ。

 その次に読書会で取り上げられたのが、斎藤隆介、滝平二郎の絵本「ベロ出しチョンマ」だった。これも何故取り上げられたのかを説明するのは難しいが、「ちょんまげ手まり歌」からの「ちょんまげ」続き、「体制」続きと考えても大きな間違いはないだろう。

 斎藤隆介の「ベロ出しチョンマ」、「八郎」、「三コ」。これらの作品は、自分の愛する人達、貧しい人々、弱い人々、(最もニュアンスが近い言葉で総括的に言い表せば)「民衆」を救済するために、自分を投げ出すこと、自分を犠牲することを美しい感動的な物語として描いている。

 しかし、「ベロ出しチョンマ」は、これらの作品の中では、残酷さを感じる物語だ。主人公の長松は、百姓仕事の忙しい両親に代って妹ウメの世話をしている。そして、しもやけの貼り薬を交換するときなどにウメが痛くて泣くときは、面白い顔をしてウメが笑っている間に交換してやるという優しい兄だった。ところが長松の父親が、村の代表として年貢の減免を幕府に直訴したために、その咎で長松の家族は父親に連座して磔になる。その磔台の上でウメが怖がって泣くので、長松は自分の心臓に槍が差し込まれる寸前に、いつものようにウメに変顔を見せて笑わせるという物語だ。

「槍を差し込まれる直前に、長松が妹ウメの恐怖心を取り除いて、楽に死なせようと変顔をしたのは、究竟の優しさと言えるでしょうね」と白井さんが言った。他のメンバーからも、これと概ね同様の意見が続いた。すると、高野が言い出した。

「その優しさについては、白井さんの言われたとおりだ。しかし、僕には長松の処刑の意味が分からん。『八郎』と『三コ』は、犠牲と救済との間には直接性がある。つまり八郎や三コが犠牲になることで人々が救われる。だが、『ベロ・チョン』では、長松の処刑によって妹ウメが救われる訳ではない。また、長松が村人救済の犠牲になったと解釈すると、それは自分の意思でそうなった訳じゃないから、やっぱり処刑の意味が分からんようになる」

これに対して、中村さんは、

「確かに、長松の死の意味は八郎や三コの死とは少し違っている。しかし、そういう理不尽な死、不条理な死は、昔も今も世の中にいっぱいあるんじゃないのか。その一つと考えればいいんじゃないのか」と言った。

「それはそうですが、分からないのは、斎藤隆介が何故それを物語にするのかというところ、ですけどね」

「斎藤隆介が描きたかったのはただ一点、長松の変顔だけだよ。それ以外は全て舞台装置だよ」と森田さんが言った。

「でも、そこまで残酷な舞台がいるんかなあ。自分も妹も生き延びる可能性がゼロという中で見せる優しさ。そこまで読者を追い込むというか、迫る必要があるんかなあ」と高野が食い下がった。磔台の長松がウメを笑わせるというイメージは生々し過ぎて、目に浮かぶようだが、それは別のあるイメージにも結び付いていく。僕は、

「餓死室のコルベ神父みたいに」と言った。高野は、

「そう。それみたいに」と応えた。これに対して、中村さんは、

「それは言い過ぎだろ」と反論した。「長松に主体的な自己意識がそれほどあるようには読めない。兄と妹の間のことだしな」

「でも、『八郎』と『三コ』も併せて読めば、自己犠牲による究竟の愛こそが、斎藤隆介の言っていることじゃないの。無関係でもないと思うわ」と、今度は白井さんが言った。

斎藤隆介の絵本は単純なストーリーだが、その単純さが、読む者の覚悟を聞いているようなところがある。

「重た過ぎて、斎藤隆介には僕は付いていけんな」と高野が言った。「僕は、自分が危なくなったら、まず真っ先に逃げ出す」

 これは、真っ当な意見のような気がする。しかし、中村さんが、

「そんなことが言えるのは、自分がいま追い込まれていないからだよ。ぎりぎりの所まで追い込まれたら、その時、それぞれの人間がどういう行動を取るのかは、今から想像できないよ」と言った。

 僕も、それはそうかも知れないと思った。聖人と思われていた人が真っ先に逃げ出すかも知れないし、黒沢映画「生きる」のおっさんのように、急に目覚める人がいるかも知れない。人間というのは、よく分からないものだろう。

 しかし、そんなところまで話がいってしまうと、「ベロ出しチョンマ」の内容とは遊離してしまう。「ベロ出しチョンマ」は結局十分なまとめが出来ないまま、1回で読書会は終わった。

 斉藤隆介の児童文学に関して、僕は、それまでは地味で古臭いという印象しか持っていなかったが、読書会で改めて読んでみると、不条理に立ち向かう熱い情念のようなものが溢れている作品のようにも思えてきた。地方に残る昔話や逸話から題材を取っているが、それらはどれも同じ方向性へと整理されて、語られている。


 ところで、高宮さんが、その日の読書会を欠席していた。

「ベロ出しチョンマ」の読書会が終了した後に、木村さんが、

「高宮さん、今日も欠席か。誰か事情聴いている人はいない」と全員に聞いたが、誰も知る者がいなかった。木村さんは、「病気で倒れてないか、誰か下宿見てきてやれよ」と言った。

 通院で欠席した前回の「ちょんまげ手まり歌」2回目の読書会も、高宮さんが欠席していたことを僕は始めて知った。2回とも欠席の理由は誰も知らないと言うことだった。これは、少し心配なことになったと思った。身柄を拘束されていて連絡が取れない状況、まさかそんなことはないだろうな。半年前の嫌な出来事が思い出されてくる。

 高宮さんの下宿は橋場町だったので、下宿が近いということで、中村さんと山口さんが、読書会の帰りに見に行くことになった。 

 翌日、部室に行って下宿訪問の結果を聞いた。それは僕が想像した最悪の事態ではなかったが、結果もまた衝撃的だった。

 中村さんと山口さんが、高宮さんの下宿を訪ねたところ、高宮さんは2月末にそこを退去していたのだった。大家に話を聞くと、3月分の下宿代を支払った上で出て行ったらしい。高宮さんの行き先については何も聞いていないということだ。彼らは、理学部の学生課にも高宮さんの所在を知らないか問い合わせたが、分からなかった。学生課で対応した職員の口振りでは、大学院修士課程修了までに取らなければならない単位がまだ相当ありそうだった。

 高宮さんに何があったのだろうか。高宮さんはどこに行ったのだろうか。


16.無量寺(むりょうじ)


 僕の長靴は踝のあたりまで泥の中に沈み込み、尻は泥水に浸かっている。軍手をしていても堪えずに、凍えて感覚のなくなった右手の指を、左手で摩り励ましながら、僕はショベルに粘りつく黒い土を掘る。うずくまる僕の背中を、上から吹き込んだ風が撫でていくのが微かに感じられる。背中の線に沿って湾曲するように静かに時間が流れていく。僕はその中に自分の時間を流し込む。

 ちょうど僕の身長ほどの深さに掘られた1アールほどの歪な長方形の穴は、帯のような層を積み重ねた土の壁に囲まれている。その壁は水分をたっぷり含んで、ところどころ黒くてらてらと輝いて見える。水は土の層に浸みながら落ちてきて、僕の足許にわだかまり、ジーパンを履いた尻を濡らす。排水のためのポンプがフル稼働しているが、水が捌けきることはない。 

 立ち上がって背伸びをすると、ちょうど目の高さに地平が拡がり、遠くのものも近くのものも一直線に並んで見える。草むらの間から遠くの新興住宅地の白い家並みが見え、幾本ものアンテナが空飛ぶ鳥たちに対して張り巡らされた網のようだ。突然、転がっていく黒いタイヤの列に視界を遮られる。穴の一辺に接して走っている県道に、信号が変わったのと同時に一斉に自動車が流れ出したのだ。港の方角から微かにパーン、パーンという甲高い音が聞こえてくる。コンクリートパイルを打ち込んでいるらしい。

 しかし、穴の中にしゃがむと、外の風景は全て消え去って、音も消える。そして、この四角い穴に覆い被さるドームの屋根のような鉛色の空だけが残る。

 僕がしゃがんでいる所は5千5百年前の地平だ。振り返ると、巨大な蛇がのたうち回った後のような幾つもの連なる山が、ブロンズ色の粘土の海に浮かんでいる。その土の山の頂上には爬虫類の鱗のような土器の破片の連なりが、高くなり低くなりしながら危ういバランスで乗っている。土の山と土の山との間には、7、8人の男女が僕と同じようにうずくまり、まるで自分たちも土に化していこうとしているかのように見える。

 僕は無量寺の発掘現場に来ていた。宮田さんによれば、ここは古墳時代の遺跡らしい。藤江、畝田、寺中、桂そして無量寺。港に近いこの辺りは、どこを掘っても遺跡が出てくるようだ。急速に開発が進むこの地帯では、道路の拡幅、宅地の造成、工場や倉庫の建設に伴い次々に遺跡が発見されている。市には地方建設局や造成工事業者などから、どの遺跡についても1日も早く調査を終えるように要請が来ており、宮田さんらも、次々に発見される遺跡の調査を急いでいる。

 高宮さんの失踪から1年余りが経過していた。今は桜の開花の季節であるが、今日の寒さは花冷えという優雅な言葉には当てはまりそうもない。

 今朝、僕はアパートから市役所まで自転車で行って、宮田さんの乗った市のジープに便乗させてもらった。そして、現地に着いてしばらくしたら、赤いシビックがジープの後ろに止まった。数日前から吉永さんもこの現場に来ているらしい。

 宮田さんが現場監督の時は、朝礼らしいものはない。他のバイトの学生たちも、分乗して乗ってきた車を、倉庫として借りている近くの農家の納屋の前に止め、その納屋の中で長靴に履き替えると、次々に自分の持ち場に入っていく。吉永さんも、彼らに交じって、今はこの得体の知れない泥の海のどこかに潜んでいるはずである。

 この1年ほどの間に、いくつもの出来事があった。

 まず、高宮さんの失踪である。中村さんと山口さんが高宮さんのアパートを見に行ったところ、アパートを既に退去していることが分かった。児文研の中に高宮さんの消息に繋がる情報のある者はおらず、それどころか高宮さんと特に親しいメンバーもいないことが、改めて分かった。僕も高宮さんとは児文研やバイトでは顔を合わせていたが、特に親しい訳ではない。白井さんが高宮さんの浦和にある実家に電話を入れたが、両親は、高宮さんは金沢にいるものとばかり思っていたようだった。

 高宮さんの母親が直ぐに金沢まで来たので、白井さんは母親を下宿先に案内して、下宿の大家にも改めて状況を聞いたようだ。しかし、新たな情報はなかった。その後、母親は児文研の部室に立ち寄り、メンバー達に挨拶してから、次のようなことを言った。

「皆さんにご心配を掛けて申し訳ありません。しかし、雄一郎はどこかには必ず元気でいると思うので、もう探さないで下さい」

 母親には、高宮さんの行方について、何か心当たりがあるような言い方だった。高宮さんが何か危険な状況にある訳ではなさそうだ。児文研の誰もが釈然とはしなかったが、母親の話を受けて、児文研での捜索は一応打ち止めになった。暫くしたら、ひょっこり帰って来るかも知れないというメンバーもいるが、そう思う者は少ないように思う。児文研は、高宮さん失踪に暫く動揺したが、次第にその動揺も納まった。

 僕は、高宮さんが連絡のないまま読書会を2回続けて欠席したことを知った時、警察に身柄を拘束されているのではと恐れたが、そうではなかった。自分の意思でどこかに行ったのだ。しかし、次に、警察が高宮さんの失踪を知ったら、動き出すかも知れないと思った。また僕に接触してきたり、部室に来たりするのではないかと思った。しかし、それと思しき動きは何もなかった。警察が高宮さんの失踪に関心を持っているのかどうかも、また捜査しているのかどうかも分からなかった。

 僕は、内ゲバ事件の後に警察から高宮さんについて事情を聴取されたことは、児文研のメンバーの誰にも一切話していない。あの件と失踪との関係が気にならない訳ではないが、逆に関係があるとは言い切れない。余分なことで児文研を混乱させたくはないし、高宮さんを疑いたくもなかったので、その件については、引き続き沈黙を守ることにした。

 ところで、昨年3月、日野さんは卒業して予定通り東京の出版社に就職した。日野さんは、その後も時々金沢に来ており、その際には部室にも顔を出す。少し痩せて顔色もさらに蒼くなったようにも見えるが、編集者の仕事は意外に厳しいのかも知れない。

 木村さんは大阪国税局に就職した。国家公務員上級職試験に合格したものの、期待していた経済官庁(大蔵省、通産省、経済企画庁)からは面接試験のお誘いが一切なかったらしい。しかし別に受験して合格していた国税専門官で大阪国税局に採用されたということだった。木村さんも部室に一度顔を見せたことはあったが、やはり少し痩せて、少し精彩がなくなったように見えた。実社会はやはり厳しいのだろう。

 日野さんらと入れ替わりに4月には5人の新入生が児文研に入ってきたが、彼らは、1年前に入った僕らとは微妙に違っていた。彼らは読書会やその他の行事がある時にしか基本的に部室に来なかった。 行事のない日は、授業が終わるとアルバイトをしたり、友人宅で麻雀で遊んだりしているようだった。中にはパチンコが趣味とか、ショッピングが趣味とかで、それに時間を使っていると言う者もいた。

 また彼らは、読書会で取り上げる作品について、あれこれと注文した。リチャード・バックの「かもめのジョナサン」や五木寛之、野坂昭如などの小説を、読書会でやろうというのである。それらを何故取り上げるのかと理由を聞かれると、いま売れていて、面白そうだからと応えるだけで、それ以上の理由は言えなかった。しかし、彼らの意見も無視できないので、読書会で「かもめのジョナサン」と五木寛之の「内灘夫人」を取り上げた。

 さらに、彼らは、部室の棚の上、しかも一番奥の、下からは見えないところで、埃を被っていた影絵人形の残骸を発見して、自分たちも影絵の人形劇をやろうと言い出した。誰かの創作を元にした影絵の人形劇を市内の子供会で上演して、子供たちに感想を聞いてまとめるというのである。児文研が、サークル活動か政治活動かの、言わば「路線問題」に揺れていたころまで、実際に児文研で影絵の上演をやっていたという歴史を、僕は彼らの提案を通じて初めて知った。

 1年生以外は影絵に乗り気ではなかった。しかし、1年生から「以前はしていたのに、今はしないというのは、どうしてか」と聞かれると、誰も旨く返答が出来なかった。そして、1年生の熱意に押されて影絵もすることになった。読書会を中心とする児文研の活動に手詰まり感、閉塞感があったことも事実であり、これが1年生の提案を受け入れる土壌になったのであろう。東京から来た日野さんが、影絵の話を聞いて「お前ら正気か」と言って苦笑したが、反対はしなかった。

 メンバーの何人かが影絵のための脚本を書いたが、その中で白井さんの「ネコ君の四季」が、児文研の上演する影絵に最も相応しいというのが一致した意見だった。これは、腹を空かせた野良猫が水槽の中の金魚を食べてしまったところに、金魚を飼っていた少年が帰って来る。猫は「僕が食べたんじゃないよ」と言って誤魔化そうとする。冬の季節で食料がなく猫が空腹だったことを知っている少年は、その嘘に騙された振りをして、猫を許してやるという物語である。僕らは、厚紙とカラーセロファンを使って、1か月ほど掛けて「ネコ君の四季」の登場人物の人形や背景などを作った。そして、月の始め頃から、寺町の例の寺院に何日も泊まり込んで影絵の練習をした。

 その影絵は、クリスマスの前後に幾つかの子供会と子供養護施設で上演した。それを鑑賞した子供たちの反応は、どの子供会、養護施設でも上々だった。子供会の世話役の中には、来年の子供会の行事予定に、児文研の影絵鑑賞を入れることにしたいが、来年もしてくれるかと言い出す人もいた。

 影絵が成功した後、1年生の中には、読者である子供の存在を無視したこれまでの児文研の活動はおかしいと言い出す者が現れた。彼は、読書会で取り上げる児童文学についても、何らかの方法で子供の読後の反応をモニタリングするべきだと言っている。しかし、モニタリングするとしても、具体的な方法は思い着かない。実際に読書会の今の形式を変えるのは無理だし、僕の意見としては、これまでの形式で良いと思うのだが。

 高宮さんの失踪、日野さんらの卒業、そして新入生の入部で児文研の雰囲気が随分変わったように感じる。明るくなったと言えば明るくなったが、その反面、どことなく軽くなり薄くなったような気がする。「日野」という重しが取れて、児文研が漂流し始めているような気がしないでもない。

 川合は、以前に比べると読書会で発言するようになった。川合の感性は、今の1年生には理解され易いようで、川合の意見に同意する意見が続くこともある。川合は1年の時は児文研をやめたいと言っていたが、今はそれをあまり言わなくなった。川合が児文研を続けてくれることは、僕も嬉しい。川合との関係は、その後も少しも縮まる気配はないが。


 昼時間になった。ここも近くに食堂などはない。バイトの学生たちは、仲間の車に分乗して食事に出掛けた。僕は、宮田さんに誘われて市のジープに乗せてもらうことにした。アノラックを脱ぎ、ジープの後ろに隠れて泥だらけのジーパンも持参した予備のものに履き替えた。もちろん長靴もズックに履き替えて、ジープの後部座席に乗り込んだ。するとその後部座席には、フード付きのピンクのオーバーを着た吉永さんも乗り込んできた。

ジープの向かった先は、金沢港にある「みなと会館」の食堂だった。

 「みなと会館」の2階の食堂に入ると、窓の向こうに係留されている海上保安本部の巡視船が揺れているのが見えた。少し波があるようだ。窓からは、さらに五郎島の方向には、北洋材を運んで来たらしいソ連の黒い貨物船が沖で停泊しているのが見えた。海は空の色を映じて墨のように黒い。まだ春の海ではない。

 宮田さんと、ジープを運転している南野さん、そして吉永さんと僕との4人で一つのテーブルに座った。発掘のバイトをしている別の3人グループも、近くのテーブルに座っていた。

宮田さん、南野さん、僕の3人は刺身定食を注文し、吉永さんはハンバーグ定食を注文した。彼女は魚が苦手なのかも知れない。

 熱い味噌汁をひと口飲むと、冷え切った体に染み渡った。塩分制限をしているので、味噌汁はひと口かふた口しか飲めないが、そのひと口目は至高の瞬間だ。それから、定食の刺身のふくらぎ、さわら、タルイカ、甘えびを次々に口に運んだ。そのどれもが甘くて旨い。瞬く間に食べ終わった。食事が一段落すると、

「刀祢、久しぶりだが、現場はどうだ」と宮田さんが聞いた。

「水が染み出てきて辟易ですよ。何の遺跡はなんですかね」

「古墳時代の土器の投棄場所のようだな。歪な形をした土器の破片が沢山でてくるだろう」

「それって、私たちは古代のゴミ箱あさりをさせられているってことよ」と、僕より数日前から現場に来ている吉永さんが、本当に嫌そうな顔を作って言った。吉永さんと会うのは旧制中学校校舎で会って以来1年半ぶりだ。綺麗な顔の輪郭があの当時より少し丸みを帯びて、健康になったように見える。吉永さんが、絶対に行かないと言っていた現地に来ているのは、体調が良くなったからだろうか。

「ゴミ箱くらい、どうってことないよ。中世のトイレを発掘していたこともあるからな」と宮田さんは言った。そして、「今回は、現場が小さい割には人足を十分に投入できたから、来週早々には目途がつきそうだな」と付け加えた。この現場についても、調査の早期終了の要請が、工事施工業者などから来ているのだろう。

「調査が終わったら、どうなるんですか」と聞くと、宮田さんは、

「埋め戻して、約3分の1は道路敷きになり、残りは会社の倉庫の敷地になる」と教えてくれた。

苦労して掘り起こしても埋め戻されるしかない。暫くすれば、誰もそこが遺跡の発掘現場だとは分からなくなるだろう。その上に道が出来て建物が建つと、最初から古代の遺跡などはなく、ただ現代のありふれた風景があるだけに見えるだろう。


 食事が終わって、「みなと会館」の建物を出ると、風が冷たかった。ポリ容器や木の切れ端、細かな芥の浮いた海水が岸に押し寄せては引き返していた。風は北東の方角から吹いていて、向こうの岸壁には白い波が高いところまで上がっているのが見えた。

 4人がジープに乗り込むと、宮田さんが、

「刀祢、この近くに犀星が下宿していた寺がある。どこか教えてやろうか」と言った。

「近くなら、教えて下さい」

 そこで高宮さんが運転手の南野さんに「悪いですが、桂町の方まで走ってもらえますか」と言うと、南野さんは「いいよ」と言って、来た時とは逆方向に、金石街道の方に向かってジープを走らせた。途中で海側の細い道に入って暫く走ると、右手に古い黒っぽい建物が現れた。

「ここですか」

「そう、ここの2階に下宿していたらしい」

簡素な造りの2階建ての寺院だった。建物の横の墓地には、供養塔なのか墓石なのか、何本もの石柱が寒々と立っていた。

「姉と慕っていた女性が、犀星が知らない間に嫁いだのは金石でしたっけ」と聞くと、宮田さんは、

「それは、高岡の伏木だろ。金石は、犀星が法務局の職員をしていた時に、近くの登記所に通うために下宿してたんだ。抒情小曲集の詩の何篇かは金石で作ったものらしいよ」と言った。

「随分詳しいですね」

「金沢の子供は、犀星の話をよく聞かされるからな。小学校の校歌も犀星作詞だからな」

 ジープは、寺院の前をゆっくり通り過ぎると大きくUターンし、金沢港無量寺埠頭の方向に走り出した。犀星は詩も小説も瑞々しい。言葉に対する感覚が古さを感じさせない。児文研の読書会に取り上げる作品は最近何でもありになり始めているが、「幼年時代」や「性に目覚める頃」を取り上げても良いのかも知れないと一瞬思った。しかし、取り上げるに足りる理由があるだろうか。何でも考えなしに取り上げるのは、やはり良くないだろう。ここは今の1年生と意見の合わないところでもある。取り上げる理由、取り上げるに至る必然的な何かがやはり必要だろう。年間の活動内容を総括する際は、何故、その作品を取り上げたりか、ストーリー性をもって説明できないといけない。それが犀星の中に見出せるだろうか。

 現場に戻ると、僕と吉永さんは先にジープから降ろされた。吉永さんがジープから離れる時に「刀祢君、入院していたんだって」と聞いた。そこで、僕が、

「ええ、まあ、それは1年以上も前のことですけどね。しかし、誰でも、他人には分からない悩みや苦しみはありますからね」と言うと、小さな声で「そうね」と言って頷いた。何か納得したようだった。

 僕は、後半の部分は、ひとりで悩んでいるのは吉永さんだけではない、みんな同じだから吉永さんも元気を出してと伝えたかったのだが、言い方が少し不味かった。きっと吉永さんは、僕は病気で悩んでいると理解したのだろう。死ぬまで治ることのない病気は、確かに僕の気持ちを重くはしているが、それは、悩みとはいうのとはまた違う。僕の悩みは、もっと女々しい、小さい、他人が知ったら笑い出しそうなことだ。

 大河君のことは、良く知っている訳ではないが、僕の目からみても優秀で嫌味のない、いい男だと思う。どの点をとっても僕ではとても敵いそうにない。しかし、そうは思ってみても、川合のことがなかなか諦められない。川合の可愛らしさが僕を引き付けて離さない。週のうち何日も顔を合わせて話をしているのに、川合との距離は一向に縮まらない。いっそのこと、「君なしで僕は生きていけない。僕のものになって下さい」と言ってみようかと思わないではないが、実際にそんなことができる訳がない。彼女の方からみれば、勝手に好かれて強引に迫られたら、とても迷惑だろう。それは僕にも理解できる。

 昼食の間に穴の中は水が溜まり、遺物を載せた山の繋がりは島のようになり、地山は泥水の底に沈んでいる。南野さんが排水ポンプのディーゼルエンジンを始動させると、地を這い穴の泥水の中に頭を突っ込んでいる、正に大蛇のような蛇腹のホースが小刻みに震えだし、泥水を吸い上げ始める。穴の周りを囲んで立っている何人もの学生や主婦が、寒々とした格好でその様子を眺めている。10分余りで地山が顔を出し始めた。

 僕は、泥の付いたアノラックを再び着て、ズックを長靴に履き替えてまた穴に入る。穴の中にしゃがむと、そこは静寂の世界だ。川合のことも嘘のように遠ざかっていく。ショベルを持った手は僕の心の中とは無関係に勝手に動く。ショベルの先は一つの触覚となって土を嘗め回し、中に横たわる物質の象を浮かび上がらせる。手の指先にだけ神経を集中すると、頭の中が空洞になるのが自分でもよく分かる。そこには様々の思いが独りでにやってきては、何のこだわりもなくまた立ち去っていく。僕はただ去来するもののために場所を提供するのみだ。一つの連想が次の連想を生み、一つのイメージは別のイメージへと際限もなく枝分かれしていき、もとに帰ることはない。

 そのうち、長靴を履いた足は再び踝のあたりまで泥の中に沈み込み、尻はパンツまで水が浸みてくる。僕はふくらはぎから踝にかけて身悶えしそうなほどのしびれを感じながら、刷毛を水に濡らしては土から現れた高杯の表面を洗い始めた。現場写真を撮るためだ。僕が洗っている杯に連なって、口縁部に奇妙な文様のある甕の一部などの出土物がある。この一群の土器の表面をきれいに洗わなければならない。

 何のために、こんなことをしているのか。身体を冷やすのは腎臓に良くないことは分かっている。最近は、それに加えて痔も心配になってきた。親からは贅沢しなければ生活するのに十分な仕送りがあり、バイト代がなければ生活できない訳でもない。

 理由などはない。ただ、こうして水の染み出る土の壁に囲まれて、静かに作業をしているという事実があるだけである。児文研のことも、川合のことも、何か理由らしい理由がある訳ではない。児文研は、たまに嫌なことがあっても通い続けている。川合は、大河君がいるのに、僕の愛しい気持ちは捨てきれない。これは、全てそういう事実があるだけのことで、それを説明できる理由がある訳ではない。


17.ルーインズ(その1)


 午前中は、検温と血圧測定があった。血圧は上が150 mmHgで下が92 mmHgだった。入院した時は上が180 mmHgを超えていたが、幾種類もの血圧降下剤を飲み続けたこともあって、少し下がってきたのだろう。

 昼食は、チキンのソテーとほうれん草のお浸しと味噌汁。それにオレンジが半分とバナナが半分ついていた。食欲はないが、決して食事が不味いという訳ではない。とりあえずバナナを残して大方頂くことができた。

 看護士が食後の薬を持ってきた。昼食後は、ジピリダモール錠百ミリグラムを1錠飲むだけである。


 私は大学を卒業すると、近畿地方のある地方銀行に就職した。その銀行には叔父が勤めていたので半ば縁故採用だった。

 銀行では本店営業部と都内店舗で融資渉外を経験した後に、資金証券部の投資有価証券運用と銀行の資金繰りを担当する部署に異動し、ここが自分の畑となった。資金証券部長、リスク管理部長、経理部長を務め、そこで定年を迎えるつもりだった。ところが頭取の推挙で、定年となる前年に常務取締役になった。企画畑でもなく海外勤務の経験もない私を役員にするのに、他の役員から相当異論があったようだ。しかし、頭取は銀行財務に詳しい役員が是非とも必要と言って押し切ったようだ。バブル崩壊後、不良債権の償却財源確保に奔走した資金証券部長の頃の苦労に報いてくれたのかも知れない。私は常務を2期4年務めて昨年退任した。

 銀行は児童文学とは関係がない。遺跡とも一切関係がない。私は学生時代に考えていたことは封印して、日々の業務に邁進した。そのことについて責められるとは思っていない。サラリーマンとして生きようとすれば、誰でもそうならざるを得ない。こうして40年と言う歳月が過ぎたのだ。

 ところで、この40年間の勤めを全うできたのは、何をさし置いても妻のお陰と感謝すべきだろう。決して軽くはない持病のある私を、妻は毎日の食事の管理はもとより生活全般に亘って支えてくれた。

 退任後はその妻に報いたいと考えていたが、妻は少し前から金沢への転居を望んでいた。妻の母親が金沢市内の老人介護施設に入居しているが、近くに誰も家族がいないので、自分が看取ってやりたいと言っていた。私は、銀行の本店所在地から遠くないところに家を建て、妻とともに1男2女の子供を育てた。しかし子供たちは3人とも既に結婚して家を出てしまっている。もはや、それぞれの子供の部屋のある家は不要である。そこで、家を売り払って金沢に転居しようかと考えた。私自身も、心のどこかに金沢に対する郷愁のようなものがあったのだと思う、その決断に時間は掛からなかった。金沢駅前から南町に掛けて幾つものマンションが建設中だったので、そのうちの1室を購入して昨年末に引越しした。

 しかし、転居後私は体調を崩してしまった。医師が処方したザクラス錠やペルサンチンカプセルなどで血圧をコントロールしていたはずだったが、血圧が急に上昇し始めて180mmhgを超えるほどになった。そこで、妻に付き添われて市内の循環器専門病院の外来に診察に行った。診察の結果、高血圧緊急症の疑いがあるとして、医師の勧めで入院したという次第である。入院してから血圧は徐々に低下し、腎機能の著しい低下も避けることができた。


 その、私の妻と言うのは、旧姓浅野冴子つまり浅野看護婦である。私は大学3年になる時に、浅野看護婦の提案を受け入れて、暁町の世帯用のアパートに引っ越した。家賃は少々上がったが、親に適当なことを言って仕送りを増やしてもらったので、何とかなった。浅野看護婦つまり冴子は、それから私のアパートに、言葉は悪いが、文字通り入り浸るようになった。仕事が非番の時は大抵アパートに来ていたし、泊まっていくこともあった。

 私は、どういう訳か冴子には全く気を遣わずに素のままの自分でいられた。ふたりで何もせずに、だらだらと一日中アパートにいても苦にならなかった。冴子も私に対して、同じような感じを抱いていたようだ。彼女は「刀祢君といると何故か安心するのよね」と言っていた。アパートから浅野川までは徒歩で10分とかからなかったが、天候の良い日の午後に浅野川の河川敷をふたりで散歩するのが、とても心地良かった。ふたりは、激しく燃えるようなことはなかったが、いつしかお互いに相手を自分の身体の一部のように感じるようになっていた。

 高野と伊藤は転居後のアパートにもよく来たので、それからも4人で酒を飲んで騒ぐことはあった。しかし、転居後のアパートは、前の学生アパートの時とは一つだけ違っていた。それはアパートに鍵を掛けることにしたことだ。そのアパートの鍵は私と冴子が1本ずつ持っていた。

 2年後に私は銀行に就職して金沢から離れたが、彼女と連絡は取り合っていた。銀行に入って2年経った頃、冴子に会った時に、彼女から「私は刀祢君より2歳上だから、そういつまでも待てないよ」と言われた。私は、それもそうだと思ったので、その場ですぐに彼女に結婚を申し入れた。その前から心は既に決まっていた。

 冴子と結婚した直後に東京に転勤になった。僕らは西船橋のアパートに入り、僕はそこから日本橋に通った。妻は、千葉県内の短大に入学して、卒業と同時に栄養士の資格をとった。しかし、間もなくして子供が出来て、次々に3人が生まれて、子育てに追われるようになったので、実際に資格を使う日はなかなか来なかった。だが、栄養士の知識は家族の健康管理には大いに役立ったのではないだろうか。銀行の経営状況が本当に厳しかった時には、万一の時は私が支えるよと言ってくれたが、銀行は何とか持ち堪えた。その後、下の娘が大学に入って家を出ると、家は私と妻のふたりだけになったので、冴子は仕事をしたいと言って職を探した。残念ながら栄養士の仕事はなかったが、近くの医院に看護師として勤めることになった。彼女はその医院に10年余り務めたが、その後腰を痛めて辞めていた。


 私の周りにいた人達はどうかというと、まず高野と伊藤は結婚した。高野は婿養子ではないが、伊藤の実家の近くに家を建てて住んでいる。高野はトヨタ系の大手自動車部品メーカーに就職した。単身でインドネシアに出向していたこともあるが、最後は営業担当の部長で定年を迎えた。妻の旧姓伊藤圭子は彼女の希望通りに専業主婦で過ごした。そして、夫とともにふたりの娘を育てた。今は私たち夫婦と高野夫婦との付き合いは、年賀の交換だけになってしまった。

 白井さんは森田さんと結婚した。森田さんは、京都府内で父親の病院経営を引き継いで院長になったが、年齢から言えば、既に引退しているのかも知れない。白井さんは40代後半で市議会議員に立候補して初当選して、今も現役の議員として活躍している。彼女の低い張りのある声は政治家に向いていたのかも知れない。

 木村さんは大阪国税局に入ってから、当局と激しく対立する側の組合で執行委員をしていると聞いていた。しかし、その後国税庁に出向し、さらに財務省理財局に転籍したようだ。理財局の課長から東北財務局の部長になったのは新聞でみたが、その後の消息は分からない。役所は既に退職している年齢である。

 そして川合は、大河君と結婚した。川合は卒業すると大河君の地元である兵庫県の公立小学校の教師になった。大河君は地元の製薬会社に就職したが、結婚後に会社からアメリカの大学に留学した。川合も休職して、大河君とともにアメリカに渡った。大河君はドクターになって帰国し、川合も帰国して教師に復職したところまでは知っている。しかし、その後の消息は知らない。製薬会社の役職員名簿を辿って消息を調べれば分かるだろうが、調べようとは思わない。私には18歳の川合の顔が脳裏に焼き付いている。大河君は頭脳が優秀なだけでなく誠実な男だ。きっと川合を大切にしていると思う。後悔がない訳ではないが、川合が幸せであることの方が重要である。もし彼女が幸せでないのなら、私の後悔はさらに深くなるだろう。

 もうひとり、藤井美雪のことを書かなければならない。実は、美雪とはその後一度も会うことがなかった。避けていた訳ではないが、彼女から連絡が来ることはなく、私からも連絡は取らなかった。高校の同窓会に私が出席した時は美雪が欠席していたり、美雪が出席した時は私が欠席したりという具合で、会う機会はなかった。美雪の消息を知ったのは、彼女から1枚の絵葉書をもらったからだ。彼女は学生時代にオーストラリアに留学していた時に、同じくイタリアから留学していたある男性と出会った。その男性とはその後も交際が続いて、結婚したということだった。そして、今はイタリアのアドリア海に面したリミニという町で暮らしているということだった。

 ところで、金沢市に転居した後、私は市内にいる唯ひとりの昔の知人である宮田さんの自宅に挨拶に行った。宮田さんの自宅は桜町にあり、建物は新しくなっていたが、住所は昔と同じだった。宮田さんは髪が薄くなってはいたが、顔は20代の面影を残していた。宮田さんは、「刀祢は昔とあまり変わらんな」と言ってくれた。その時、奥様も出て来られたので挨拶をしたが、その奥様の顔にどこかで見覚えがあった。なんと奥様は旧制吉永清美さんだった。確かに宮田さんが吉永さんのことをいつも気に掛けている姿を見ていたのを思い出した。ふたりが結婚したのは、当然の成り行きだったのだろう。私は吉永さんが元気になり、幸せになったて本当に良かったと思った。

 その宮田さんから、日野さんの消息を聞いた。日野さんは東京の出版社を辞めて、札幌に移り住んでいたが、10年ほど前に急性心不全で亡くなったと言うことだった。しかし宮田さんの奥様もいたので、その場では、それ以上詳しいことは聞けずに終わった。 

 そして、最後に高宮さんの消息であるが、高宮さんは私が卒業するまでに児文研に現れることはなかった。ところが何年か前にネットの記事で、偶然に高宮さんの失踪後の消息知ることになった。記事には、「革共派の活動家だった高宮氏が市議に初当選した。三里塚闘争が終息した後も、各地で空港騒音訴訟等の裁判闘争の中心になっていた高宮氏は、数年前から○○市に定住し、過疎化の著しい町を変えていきたい、都会の若者を呼び寄せて、農業と酪農を中心に町を活性化させたいとして、酪農塾を開いている」といったことが書かれていた。

 高宮さんは学生運動の活動家で、しかも大学の新左翼のセクトと敵対していたセクトの活動家だったというのである。実はそのことは、高宮さんが消息を絶った時に薄々感じていたことであるが、改めて活字ではっきり書かれているのを読むと、やはりそうであったのかという思いが強くした。それとともに、当然のことながら、あの内ゲバ事件のことが頭をよぎった。しかし、それは、既に殺人の時効成立から何年も経った遠い過去の出来事であり、今更どうのこうのと言う問題ではなかろうと、私は自分を納得させようとしていた。今市議会議員となり、町おこしに奮闘しているのであれば、それで良いのではないかと。

 その高宮さんが、今日、私に面会に来るというのである。


「おかわりありませんか。午後の検温です」と看護師が体温計を差し出した。胸に「風間」というネームプレートを付けた若い看護師だ。

 私は、体温計を受け取るとベッドで横になり、それを脇に挟む。窓枠の中の空の色は重い鉛色に変わり、細かな雪が舞っている。下から吹き上げられた夥しい数の微細な雪の粒がガラスに当たり、しゃらしゃらという音を立てている。空中線の唸り声も途切れることなく続いている。明日の朝には少し積っているだろうか。僕の隣の、廊下側のベッドの男性が鼾をかいている。気にし始めると耳障りになるが、自分も同じかも知れないので、我慢するしかない。幸いなことにカーテンで完全に仕切られているので、男性の様子は見えない。というより、一度も顔を合わせたこともないので、どんな男性なのかまったく分からない。


 高宮さんが現れたのは、午後2時過ぎだった。

 高宮さんは、脱いだオーバーを腕に掛けて部屋に入ってきた。チェックのブレザーを着ていて小ざっぱりとした身なりだった。顔の皺や皮膚の弛緩は覆い隠しようがないが、少し長めの髪は、白いがしっかりと残っている。確かに鼻や顎には20代の頃の面影がある。僕の知っている高宮雄一郎さんに違いない。

「突然、お邪魔します。身体のお加減は如何ですか」と高宮さんが聞いた。

「大丈夫です。暫くすれば出られるでしょう」

「数年前に常務になられたのは、日経新聞で拝見して知っておりました」

「そうですか。しかし昨年の6月で退任しました。今は御覧のとおり病院のお世話になっております」

「何年振りでしょう」

「さあね。何年振りですかね」

 私は、高宮さんが失踪して、児文研のメンバーが心配して探し回ったことを思い出していたが、今になって非難しても仕方ないだろう。私は何も言わなかった。

「あの頃が懐かしいですね」と高宮さんは言ったが、さほどの感慨が潜んでいるような言い方でもなかった。この男は私に何を伝えるために来たのだろう。

「ただ今日は昔話をしようと思って来たのではないのですよ。実は、あなたにお詫びをしようと思ってきました」

 お詫?何10年も前に失踪して迷惑を掛けたお詫びだろうか。それとも…。

「お詫び?何のことです」

「話しづらいのですが…。40数年前に、大学構内で学生の一団が武装グループに襲撃されて、襲われた学生のひとりが死ぬ事件がありましたでしょう。覚えておられますか」

「ええ、覚えています。いろいろと忘れられない事件でしたから」

 学生の一団に武装した集団が襲いかかり、ひとりが死亡し、数人が大けがをした。そして、その事件の当夜、何者かがガラスを割ってサークル長屋の部室に侵入した。警察が来て部室を調べられ、警察を部室に入れたことについて、森田さんと高宮さんとが激しく口論をしていた。何者かが部室に侵入した事件と襲撃事件との関係は結局分からなかった。そして、それとは別に、私は刑事に奇妙な建物に連れていかれて、高宮さんが事件当夜に私のアパートに来たかを聴かれた。僕は、高宮さんが、その時刻に来てアパートにいたことは間違いがないので、そう答えた。

「私があなたのアパートにいたと、あなたが証言して下さったお陰で、当時、私は警察の捜査対象から外れたようです。その後も何度か事情を聴かれましたが、逮捕されることはありませんでした。しかし、それから長い間苦しんでいました。そして、この世のことは、この世のうちにケリをつけようと、最近になって、思うようになりました。」

「いきなり、そんなことをおっしゃられても」私はどう応えていいのか分からなかった。「あまりに古い話なので、思い出すのにも時間が要ります。しかし、確かに私は警察からあなたのことを聴かれましたが、私は、事実以外は何も話していないはずですよ。あなたのことも疑ったことはありません」

「分かっています。私があなたを騙したんですから」

「騙した」

「あの夜、あなたがアパートに帰って来た時、私は30分以上待っていたと言いました。しかし、実際は、あなたの帰って来るほんの少し前にあなたの部屋に入り、何食わぬ顔で部屋にあった酒を飲んでいたんです。あなたがアパートにおられたら、あなたにアリバイの偽証を頼むつもりでアパートに行きました。しかし、あなたは留守でしたから、咄嗟にあなたを騙そうと思ったんです」

「それでは、私は騙されたんですか。そして、刑事に嘘のアリバイを証言してしまったというんですか」

 最近は、思い出すことはほとんどなかったが、あの事件は大学を卒業してからもずっと心の中に蟠っていた。事件が時効を迎えた日のことも覚えている。「高宮さんを疑ったことはない」と言ったが、それは事実ではない。疑うことを慎重に避けていたというのが正しい。そして、もしも自分の証言のために事件が解決せずに終わったというのでは、犠牲者やその遺族に申訳が出来ないので困る。高宮さんは本当に事件とは無関係でいて欲しいと願っていた。しかし、高宮さんは、いま、事実が最悪のものであることを私に告げようとしていた。

「私は、もともと学内の動きを偵察する役を与えられていました。そして、襲撃のメンバーにも加わりました。あの夜、仲間と一緒に石垣の上の木陰に隠れて、理学部の自治会室から出てくる学生たちを待っていました。彼らが出てきたので、私たちは飛び掛かりました。自治会の委員長に最初の一撃を加えたのは私なんです。頭の骨が折れる鈍い感触が私の手にはありました。襲撃が終わったら各自ばらばらに逃げる手筈になっていました。私は一撃を加えた後、まだ乱闘中の仲間をそのままにして、あなたのアパートまで走りました」

 そういうことだったのか。私は、その事件のあった時刻、コインランドリーで洗濯をしていた。洗濯が終わってアパートに帰ったら、高宮さんが僕のレッドを飲んでいて、30分以上も待たされたと言った。あの時の高宮さんの様子は、乱闘で人を傷つけてきた後のようには、見えなかった。だから私は高宮さんを信じることが出来た。いや、時々疑いが首をもたげたのだが、それを抑えることが出来ていたのに。

 もう一つ、不明なことがある。部室への侵入者だ。

「部室のガラスを割って侵入したのは、誰だったんでしょうか」と聞くと

「分かりません。おそらく私の仲間だった者のうちのひとりだと思います」

 ばらばらという音がしたので窓側をみると、霰が窓ガラスを激しく叩いていた。霰が弱まると空中線の唸り声がまた聞こえて来た。こんな気候の悪い時期に、こんなことを告げるために、高宮さんはわざわざ岩手県から電車を乗り継いで金沢まできたのだろうか。

「そう言えば、ネットの記事で読んだのをいま思い出しました。高宮さんは、〇〇市の市議会議員なんですよね、革共派の。学生時代から革共派でしたかね。私はあまり気が付きませんでしたが」

「いえ、市議は既に辞めました。革共派も、市議になるずっと以前から全く関係なくなっていました。私は唯の市民活動家でしたが、立候補した時に私の過去を調べて、そんな記事にしたのでしょう」

「それで、どうして今になって、事実をお話になるんですか。何故、遠い岩手から私のところまで来られたんですか」

「恥ずかしい話ですが、若い頃、罪の意識は全くありませんでした。崇高な使命に従ったまでだと考えていました。自分の生活や個人の幸せなどということは考えたこともありませんでした。ところが40歳近くになって、ある女性と出会い結婚しました。そして子供もできました。この頃から、私は自分がこんなに幸せで良いのだろうか、個人的な幸せを感じていて良いのだろうかと悩むようになりました。それと同時に、あの事件のことを次第に後悔するようになりました。仲間たちとは次第に疎遠になり、45歳で岩手県の妻の実家に行ってからは、昔の仲間とは完全に縁を切りました」

 高宮さんの話はまだ続きそうだったが、いったん遮った。同室の入院患者のことが気になったからだ。同室の患者たちも、見知らぬ男の長い身の上話を、聞くつもりがなくても、聞こえてくるだろう。

「ちょっと、場所を変えましょうか」と私は言い、ベッドから立ち上がった。自分の体調を確認して、今なら少し廊下を歩いても大丈夫そうだと思った。そして、スリッパを履いて廊下に出た。高宮さんも付いてきた。

 ナースセンターの廊下を挟んで向かい側に、入院患者が談話できる広いスペースがあった。テーブルの1つをひとりの患者とその面会者が使っていたので、そこから最も離れた窓側のテーブルに高宮さんを案内した。テーブルの横には書棚があり、元入院患者たちが置いていったらしい本がたくさん並んでいる。その側に自動販売機があったので、私はそこで缶コーヒーを2本買うと、1本ずつテーブルの上に置いて椅子に座った。

 そして、高宮さんに話の続きを促した。

「妻の実家が酪農家でした。私はそこで懸命に働きました。都会に行った若い人たちを呼び戻して酪農の楽しさを教えたり、市議会議員に立候補したりしたのは、純粋に自分の暮らしている町の活性化を図りたいと思ったからです。

 しかし、良いことばかりは続きません。7年ほど前に長男を自動車事故で亡くしました。相手方の車の不注意によるものです。息子は、故意に殺された訳ではなく、あくまで事故で死んだんですが、私は相手の運転手が許せませんでした。強い憤りを感じ、憤りを通り越して殺したいとまで思いました。しかし、息子の事故から少し時間が経った時、あの事件で亡くなった学生のご遺族はどんな気持ちで生きてこられたのかと真剣に考えるようになりました。息子を事故で亡くした私たちでさえ、こんなに苦しんでいるのに、無残に殺された子供のことで、どれほど苦しまれただろうかと。今頃になって、その苦しみが十分に分かるようになりました」と高宮さんは言って、目を落とした。そして、

「明日、警察に行くつもりです。その前に、あなたにお詫びをしなければならないと思い、今日来ました」と言った。

「しかし、もう時効になった事件について、警察にお話になっても、警察は迷惑なだけでしょう。担当の刑事は既に退職しているどころか、この世にいるかどうかさえ分かりません」と私は言った。あの時の刑事の顔がぼんやりと瞼に浮かんだ。そして、次第に高宮さんに対する憤りのようなものが込み上げてきた。

「事件が時効になっている以上、もはや何もかもが手遅れですよ。あの事件は、いわば幾層もの地層の下に埋まった廃墟のようなものです。掘り出してみても、当時の人は残っていないし、本当のことは何も分かりません。本当にあなたの一撃でその学生が死亡したのか、それともそれ以外の要因で死亡したのか、今となっては、それさえも検証できないでしょう。自分の気持ちの整理だけのために過去を掘り返すのは、誰にとっても迷惑なことです。あなたの犯した罪は、ひとりで背負ったまま、あの世に行くしかないですよ。私もあなたのアリバイ工作に加担してしまったという事実は、誰にも言わずに、あの世まで持っていくしかないと、いま思っています」

 声が大きくなり過ぎたのかも知れない。面会者と話していた入院患者が、私たちの方を振り返るような仕草をした。

「おっしゃる通り、何もかもが手遅れです。それは十分に分かっています。明日、警察に行きますが、一通りの話さえ聞いてくれるのかどうかわかりません。しかし、実はもうひとり重要な人と会う約束があります。その前に、警察にだけは行っておきたいと思っているのです。ご遺族がひとりだけ金沢に残っています。妹さんです。既に私のことは手紙でお伝えしていて、明日、会って下さることになっています。妹さんには私の犯したあの事件について、全てを申し上げて、お詫びするつもりです。そして、もし妹さんが、その場で私に死んで欲しいと言われたら、私は死ぬつもりです。その覚悟もできています」

「そんな簡単には人間は死ねませんよ。どの人間も、幾重にも複雑に人間関係の中に編み込まれていて、簡単にその人だけを取り外すことは困難です。高宮さんには、奥様やご長男以外にもお子さんがいらっしゃるんでしょ。ご家族には何も罪がないのに、不幸にできないでしょう。亡くなった学生の妹さんとお会いになるのは止めませんが、その後のことは、よくお考えになることだと思いますよ」


 高宮さんが訪ねてきて、1時間以上が経っていた。私が高宮さんに話すことはもうなかった。高宮さんも、私には全て話終えたようだった。

「今日は、刀祢さんにお詫びが言いたくて、病院にまで来てしまいました。ご病気の方に、こんな嫌な話をすることになって、本当に申し訳なかったと思います。お許し下さい。」それは小さな声だった。

 高宮さんは、そう言うと席を立った。私も席を立った。そして、ナースセンターの前まで一緒に歩いた。1時間前に来た時の印象よりも、高宮さんは些か年を取って小さくなったように思えた。40年余り前は、サークルでもバイトでも一緒だった。寺町の寺院での飲み会も、黒姫山の合宿も一緒に行った。特別に親しかった訳ではないが、私の学生時代の仲間のひとりだった。しかし、その後の人生は大きく違っていたようだ。もう二度と会うこともあるまい。ふたりは、そこで別れた。

立ち去る高宮さんを見送っていると、後ろから声がした。

「午後の血圧測定がまだです。直ぐに行きますので、ベッドで安静になさっていてくださいね」と風間看護師が言った。


 翌日、病院に来た妻は「高宮さんって、どういう方なの。ずいぶん、あなたに会いたがっていらっしゃったけど」と言った。

「昔、児文研にいた人だよ。それが、私が2年生になった頃に突然失踪してしまって、児文研は大騒ぎになったんだ。本人は学生運動に身を投じるためにいなくなったようだが、そんなことは誰も知らなかった。彼は、失踪して迷惑を掛けたことを、当時のメンバーに詫びたいと、随分前から思っていたみたいだ。ちょうど金沢に来る用事があったので、私の所にもお詫び方々挨拶をしに来たんだよ。今は岩手で家族と元気に暮らしていて、市議会議員も何期か務めたそうだ」と言った。

「あなたの学生時代の友達の名前なら大体知っているつもりだけど、高宮さんの名前は、あまり聞いたことがないわ」

「ちょうど君が僕の最初のアパートに来なくなった頃に、高宮さんは失踪したからね」

「そうだったの」

私は、妻に真実は語っていないが、嘘は言っていない。

 私に面会した後、高宮さんがどうしたのか知らない。高宮さんが言っていたとおり、面会の翌日警察に行き、そして死亡した学生の妹に会ったのだろうか。地方紙の片隅にさえ、高宮さんのことは全く出ていないし、あの事件が再び公になることはなさそうだった。


18.ルーインズ(その2)


 それから10日余りして、私は退院することになった。腎機能が回復した訳ではないが、危機的な状況ではなくなったためだ。しばらくは自宅で安静にして療養に努めるように、医者に言われた。

 私はその日の9時になると直ぐに1階の会計の窓口に行って入院費の精算を済ませて、妻が病院に迎えに来るのを待った。妻は11時前に病院に来た。私は病室で着替えを済ませると、妻とともに長い病棟の廊下を歩きエレベータに乗り、そしてほぼ1月ぶりに病院の建物を出た。幸いこの冬は雪が少ない。高宮さんの来た翌日の朝、外は少し白くなったが、昼前には消えてしまった。テレビのニュースでは、今年は記録的な暖冬傾向だと言っていた。しかし、金沢の空はやはり鉛色をしている。この人々の心を押さえつけるような冬の空の色は40年前と変わらない。

 私は、病院の正面の駐車場に止めてある白いアウディに乗り込んだ。運転席の妻は、静かに車を発進させた。そして公道に出ると自宅の方向に向かって走り始めた。私は、

「少し迂回して金沢城に行ってくれないか」と言った。「金沢に引っ越してきてから、まだ一度も行っていないので、行ってみたいんだ」

「こんな寒い時期に外で風に当たったら、また血圧が上がるわよ。先生はまだ安静が必要と言ってるんでしょ。早く帰って、横になった方がいいんじゃないの」と妻は言った。しかし、私は、

「いや今日は、どうしても行きたいんだ。寄ってくれ」と言って譲らなかった。妻は諦めて金沢城の方向へと車を向けた。

 本多町から石浦神社前を通り過ぎて、兼六園下を右折すると県営駐車場の建物に入った。駐車場内を回転しながら駐車スペースを探し、上の階へと上がっていったが、ようやく4階で駐車することが出来た。ふたりはエレベータで1階に降りて駐車場を出ると、兼六園下の交差点に向かって歩いた。そして 交差点を渡り紺屋坂を上り始めた。

 長い間ベッドで横になっていたので、急に歩き出せば、眩暈や足の縺れが起こるかも知れないと覚悟していたが、気分はすっきりしていて、足も予想外に軽快だった。私たちは、坂を下りてくる人達や、下から登ってくる人達と肩がとぶつからないように、人の流れをを避けながら、ゆっくり紺屋坂を上った。妻は僕より少し先を歩き、振り返りながら私の様子を見守った。坂に面して土産物店や食堂などが建ち並ぶ風景は、40年以上昔とほとんど変わらないように見える。しかし、1階に「レストラン兼六」があった電通会館は、今はおしゃれな結婚式場に変わっていた。

 坂を上りきると、百間掘跡に掛かった石川橋を渡った。そして石川門の前まで来た。大学を卒業してから、この場所に来るのは初めてかも知れない。妻の実家のある小松には時々来ていたが、金沢まで来ることがあまりなかった。

 石川橋も石川門も40年前と何も変わっていないように見える。もともとこの場所は飛んでもないところである。500年足らずの間に一向一揆の拠点、大名の居城、陸軍師団本部、国立大学、県立公園と用途が変遷した。こんな場所は他に例がないだろう。

私達は石川門をくぐった。

 そして、私は、門をくぐった向こうに開けた光景に、衝撃を受けた。見たことのない光景が目の前に広がっていた。正面前方に、石垣を組み、鉛瓦を載せた巨大な門のような建造物がある。その左手後方には、同じく石垣の上に鉛瓦を載せた海鼠塀の長大な建造物が二の丸を取り囲むように伸びている。それは、私の記憶にあった風景とは全く違っている。コンクリートの建物は見渡す限り1棟もない。三の丸は広大な広場となり、奥の方は芝生になっている。

 前方の建造物の前まで歩いてに石のプレートに刻まれた説明を読むと、それは金沢城創建当時にあった河北門を再建したものだという。

 壮大な河北門を見上げているうちに、位置的には、私から見て、この門の反対側、西側がサークル長屋のはずだと気が付いた。サークル長屋が残っているはずがないのは分かってはいるが、私はどうしても自分の目でサークル長屋の跡を確認したかった。

 河北門の石垣を伝って側面に回ると、門からは更に枡形の構造物が続いていた。その枡形の周りを回り込んで、門の西側まで行ってみた。

 しかし、もちろんそこにはサークル長屋はなかった。それどころか、長屋の跡は文字通り跡形もなく綺麗に整地されていて、芝生が植えられている。基礎杭1本残っていそうにない。

周囲を見回した。当時のものは何一つ残っていなかった。法文学部の校舎も教育学部の校舎も学生会館もない。石垣の下をみると、教養部と理学部の校舎の跡は芝生の広場となり、テニスコートのあった場所は庭園のようになっている。確かに石垣は見覚えがあるが、それ以外は何もかも初めてみるものばかりだ。

 寒い季節で平日なのに、市民なのか観光客なのか、大勢の人々が城内の至るところを歩いている。外人の一団もみられる。彼らは、思い思いにカメラやスマートフォンで写真を撮っている。

 しかし、この場所には間違いなくサークル長屋があった。鎧張りの外壁は長年の日焼けで炭化して、建物全体が黒っぽくなっていた。真っ黒の屋根は瓦の重みで少し撓んで見えた。廊下は砂だらけで、児文研の部室の窓は煤けて昼間も暗かった。部室には煙草の脂と饐えた酒の匂いが染みついていた。いつもフィル管弦楽団の部室や琴尺八クラブの部室からは、ホルンやチューバ、尺八などの音が賑やかに響いていた。長屋の前の通りには、激しい言葉を書き連ねた何枚もの立て看板が並んでいた。白いヘルメットを被った学生たちが、通行人の邪魔になるのも構わずジグザグデモをしていた。それらの光景が全部一緒になって一瞬目に浮かんだ。

 私はこの場所で、日野さんと出会い、白井さんと出会い、高野や伊藤と出会い、そして川合と出会った。川合にはサークル長屋でほぼ毎日会い、言葉を交わしていた。しかし、心が締め付けられるほど切ない思いを抱いていたのに、彼女の指一本触れることが出来なかった。自分の思いをただのひと言も告げることが出来なかった。臆病で情けない、恥ずかしい40年前の自分がいる。

 だが、サークル長屋こそは、すべての思いを包めて私の青春の原点だ。ここを除いては、私の青春は存在しない。

 私は、何か熱いものが急に胸に込み上げてきて、思わず涙ぐんだ。そして、妻にそれを気付かれまいと、ハンカチを取り出して、眼鏡を拭くような振りをして涙をぬぐった。

「あなたどうしたのよ。川合玲子さんのことでも思い出した」

妻の言葉が私の不意を襲った。

「そんなんじゃないよ」と返したが図星だった。それにしても、どうして妻は川合の名前を憶えていたのだろうか。

 サークル長屋のあった場所まで来て、何も残っていないことを確認したら、それで気持ちは納まった。ここは、私にとっての本当のルーインズ、遺跡だ。心の地層を1枚剥せば、40年前の遺構が広がっている。

 私は河北門を見上げながら門の東側まで戻り、妻と並んで三の丸を歩いて再び石川門をくぐった。そして石川橋を渡った。

 石川橋の前方の兼六園桜ケ丘口方面をみると、2軒の喫茶店の看板が目に入った。建物は変わったのかも知れないが、2軒とも喫茶店の名前は40年前と同じだ。日野さんに誘われて行き、川合を誘って行き、その他大勢の仲間と行って話をしたり、持て余る時間を潰したりした喫茶店だ。

 あの喫茶店の前から、自転車に乗って自宅に帰る川合の姿を見送った、夏の日の夕暮れを思い出した。その喫茶店の前の道を真っすぐ進むと石引通りに出る。石引通りに出て直ぐ左手には、妻の冴子と初めて出会った総合病院がある。通りを更に5、6百メートル進むと、土器の実測のバイトをしていた旧制中学の木造校舎がある。さらに数百メーター進むと、高野と伊藤と3人で夜に何度も映画を見に行った小さな映画館があるはずだ。さらに進むと附属病院と医学部・薬学部があり、さらにその先に如来寺がある。如来寺の近くに川合の生家があるはずだ。この道は私の40年前に通じている。

 しかし、私はその道は辿らずに、妻とともに紺屋坂をゆっくり下りた。兼六園下の交差点を渡って駐車場に戻ると4階まで上り、アウディに乗った。妻はスマートフォンでマンションの床暖房とエアコンの状況を確認した。帰れば暖かい部屋が待っている。そこが私たちの終の棲家になるのだろうか。

 車は駐車場内を何度も回転して1階に出ると、ゲートをくぐった。そして、橋場町の方向に向かって静かに走り出した。(完)





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