共にゆくはオネイロスの扉の先
煙突から蒸気を吐き出す機関車は、もう出発の準備が整っている。今は、乗客が全員乗り込むのを待っていた。
そんな帰路の足を駅のホームの片隅で眺めていたハノーニアは、歩み寄ってくる気配に視線だけを動かした。
「いやはや…もう行ってしまわれるのですね。大変さみしくなります。そして…至極残念でなりません」
制帽を目深に被ったクレヅヒェルト軍人は、良くしてくれた情報部員の彼だった。
「…そこまで惜しんでもらえるほど、お役に立てた覚えはありません…。何せ、ハノーニア・ノイゼンヴェールは日々学園内の見回りをしていただけですから」
嘘ではない。ハノーニア・ノイゼンヴェールという帝国軍中尉は、クレヅヒェルトはおろかその首都に構えられたマガドヴィウム魔導学園より一歩も外に出ていない。その記録がない。
――軍病院での静養も終盤に差し掛かった頃。シュエンディルによって引き合わされた自分の身代わりである二人に、そっくりだなんて馬鹿正直に口走ったのはいい思い出だ。おんなじ顔は世界に三つあるなんて言うじゃないかと宇宙を感じる猫になればいいのか、とんでもない身分になってしまったなぁとなんちゃらスナギツネになればいいのか。そんないらないことまで考えた。
「…逆に、其方こそ大変でしたね。聞いた話ですが、ミノーレアの魔導師の護送に当たっていた軍人がお一人、最中にあの研究所の大事故に巻き込まれたそうで…。…お名前は…そう、ウルリカ・ベルシュタイン大尉と記憶しております」
情報部員がふふっと笑った。
「えぇ。彼女については本当に災難でした…。…片目を、負傷しましてね。丁度、今の貴女と同じく左目を。
まぁ幸い深いものではありませんでしたので。じき治ります。痕も残らずに…。…しかし、強く濃い魔力を伴った傷は表層だけではすみません。経過観察が重要と、医官や研究官たちが皆口を酸っぱくして申しておりました。
ノイゼンヴェール中尉殿も、どうかごくれぐれも自愛くださいませ」
「…私のは、ただの怪我ですよ。広大な学園内を散策中の、です。ついでに申しますと、ただの怪我と思って応急処置が甘かったらしく、発赤と若干の腫れがまだ残っていましてね。帝国に帰っても、もう少し眼帯のままです。…その、恥ずかしいので」
「…ん、ふふっ。あぁ失礼。留学生…リートミュラー、でしたかな? 彼とそのご学友たちの慌てっぷり…心配のしようは、見ていて微笑ましくなるほどのものでしたので。思い出して、つい…。お許しください、中尉」
「これくらいで怒るほど、短気でもありません。それに、彼らがついつい微笑んでしまうほど可愛らしいのは事実ですから」
「ははは。なるほど。大事に思っていらっしゃるのですね。…ですが、祖父心を一つ。どうか男へ可愛いは、心の中で思うだけでお願いいたします」
「……了解しました。
同僚にも言われました。…そんなにいけませんか?」
「いけない、という訳ではありません…ありません、が…。男心も複雑なのですよ」
「なるほど。今後も勉強を続けていこうと思います」
「よろしくお願いいたします」
ニコリと人好きのする笑みを浮かべた情報部員は、隣り合う片手を伸ばして来た。その手には包みが一つ握られている。
「ヴォルフォツェール大将よりお預かりしてまいりました」
そう言われてしまえば、ハノーニアは受け取る他ない。一礼して両手を伸ばしたところで、さりげなく距離を詰められた。
「ハノーニア・ヅスク・リンシュガルテン」
耳元で呪文を囁く声に、ハノーニアは息を呑む。視線だけを動かして彼を見れば、制帽のつばの影の中から紫電に輝く双眸とかち合った。
美しく笑む唇が再度動く。
「この名前も、君のものだ。持っていきなさい。全部ぜんぶ。
…いつだって、あげることができるものは少なくて、乏しくて…。君を使い、君を動かし、君を売るのは僕だってのに…嫌われやしないかって震えていた。今だって…ほら」
言葉が嘘かどうかは分からない。そっと握られた手から伝わる微かな震えが本物かなんて知らない。
だから、ハノーニアは言葉通り受け取ることにした。本物だと信じたいので、少しでもぬくもりを分け与えることが出来ればいいと、手を握り返した。
「…ノイゼンヴェール嬢」
「おや、もうハノーニアとは呼んでいただけないのですか? …まぁ、お立場というものがありますからね。…さみしいですが、仕方ありません」
「立場うんぬんより、トゥエルリッヒの焼きもちがね。とんでもなく厄介だ」
肩を竦めたシュエンディルに、ハノーニアはぱちくりと瞬いた。
「今も昔も、それこそ出会ったころからずぅっとそうさ。お陰で、この帰りのおまじないもおちおちかけられたもんじゃない。何度むしり取られたことか…」
「へ、へえ?」
「あっ、信じてないなぁ?」
「い、いえ? は、はははっ。
………リンシュガルテン。リインの庭。…つまりは、墓…。…ですよね」
「……知ってたか。いや、思い出したのかい?」
「ご想像にお任せします」
「ふふ、いけず」
柔らかく苦笑したシュエンディルに、ハノーニアも似たような微笑みを返した。
「…春を告げる花。導の花。どんなに遠くの地へいってしまっても。どんなに遠くの地で果ててしまっても。命は迷わずかえってこれるように。またこの地で生まれ、出会えるように。
そんな願いを込めて…ぼくらは、外へゆく子らに、この名前を贈るんだ」
「……ありがとう、ございます」
「うん。
……本音を言えば、つけたくもおくりたくも、ないんだけれどねぇ。今生は、ラルヴァに生まれて、ラルヴァで育ったんだもん。行くって言うなら、出来ることして、やれることやって、見送らなきゃ。ね」
繋いでいた手を包みこまれて、渡された包みごとそっと押し付けられる。ハノーニアはそれを胸元に抱いて、シュエンディルの言葉を待った。
「お守り。リインの種が入っている」
「っ。……持ち出し厳禁の特級品、ですよね」
「なに。ぼくらしか知らないさ」
果たして、ぼくらとは誰までを言うのだろう。ハノーニアは頬が引きつるのを感じた。
「リインは知っての通り、クレヅヒェルトおよびその周辺を生育地域としている。帝国もギリギリ。だけれど、これを良薬劇毒とする生成方法は門外不出。各国各機関が血眼になって探り、喉から手が出るほど欲してる。これのお陰でうちは魔導大国たり得ている、なんて噂がまことしやかにささやかれているくらいだ。
実のところ、その真偽についてはぼくらも日夜調査研究中なんだけれど…。…一つ、確かなことはね。リインは、魔導師の亡骸の傍でよく育つんだ」
「……マンドラゴラみたいですね。あれは、確か刑場跡とかに、生えると聞いたことがあります」
「ふふふっ、似てるよねぇ。
…おまじないが先か、花が先か。願いが先か、骸が先か…。どちらにせよ、なんにせよ。世界は繰り返す」
ハノーニアはシュエンディルを見つめた。一瞬、彼もこの世界に瓜二つのゲームを知っているのかと思ったが、そうではなさそうだった。
「人は、繰り返すよ。何度だってね。
生まれる場所も何も選べないけれど。繰り返す力は持っている。…たちが悪いと思わないかい? だから…ぼくらも、やるだけやるのさ。後悔は、あんまりしたくないからね」
目を細めたシュエンディルは、微笑みながらそっと手を伸ばしてハノーニアの眼帯に守られた左目を指先で撫でた。
ハノーニアはそれを、紡がれた言葉と共に受け取る。
「いってらっしゃい。ぼくらの、ぼくの…可愛いかわいいハノーニア。
嫌なことされた叫ぶんだよ。飛んでいくからね。ぼくじゃあ遠くて間に合わなくても、ほかの梟やミミズクが飛んでいくからね」
「は…はい」
何が何処にいるって?と聞き返したかったが、一歩身を引いて姿勢を正して目の色を琥珀へ変えたシュエンディルの背後に、ルシフェエステルの姿で歩いてくるエルグニヴァルが見えた。ハノーニアも姿勢を正す。
「どうか、夢見て。願って。無意味なんてことはないから。繋がっていくから。積み重なっていくから。例えば、君がお土産に持ってきてくれた蛇だって…。
――それでは。どうぞ復路もお気を付けて。次は学年末の終業式典…と言わず、どうぞいつでもお越しください。我々一同、心よりお待ち申し上げております」
声も情報部員に戻ってしまった彼に見送られて、ハノーニアは一礼を返してエルグニヴァルの元へ小走りに向かう。
「待たせたな、ノイゼンヴェール」
「いいえ」
そうして、揃って帰りの列車に乗り込む。
車窓から最後にもう一度だけと見送りのクレヅヒェルト軍人や兵士たちを見、ハノーニアは先を行くエルグニヴァルの背を負った。
行きとは違い、留学生たちがいない分列車の中はがらんどうとして静かだ。
貴賓室に入った途端、ハノーニアはエルグニヴァルに引き寄せられる。視界の端で閉まる扉の向こうに微笑みながら手を振るシジルゼートたちが見えて、しかしすぐに見えなくなった。
「…か、閣下?」
「………」
瑠璃色から秋空色に戻った目でジィッと見つめられて、ハノーニアはほんのちょっとだけ躊躇った後、呼び直す。
「…トゥエルリッヒ様」
「あぁ。
わたしの、ハノーニア」
淡く、しかし確かに喜色を浮かべて微笑むエルグニヴァルの腕の中で、ハノーニアも笑みを零す。
「はい。トゥエルリッヒ様。……わたしの、トゥエルリッヒ様…」
「あぁ、勿論だ」
ついばむような細やかなキスをされる。
秋空色と琥珀色の目で見つめ合って、鼻先と吐息を合わせた。
「魔女王との約束も果たした。許しはついにもらうことは出来なかったが…それについては、まだ機会はある。…お前が、生きているのだから…」
「…閣下が、貴方が、願ってくださったお陰です」
「……呪われたの、間違いであろう…。可愛そうな、わたしの、可愛いハノーニア」
すり寄るように頬を寄せてきたエルグニヴァルを受け入れて、ハノーニアはつい笑ってしまった。
「呪いも愛も、私にとってはおんなじです。正直に申して、違いが分かりません。…そんなかわいそうな私を…可愛がってくださるのでしょう? それこそ、ずっと。ずぅっと。寝ても覚めても。変わらずに」
エルグニヴァルが目を見開いたのは一瞬だった。すぐさま嬉しそうに細められた両目は、それぞれ明の薄明と宵の薄明に変わる。
ハノーニアも眼帯を取り去り、同じく薄明かりに輝く目でもって、下りてくるエルグニヴァルの顔を見つめた。
唇が触れる一瞬前に閉じた瞼。そのまつ毛の先に肌を感じる。
「…わたしを、見てくれ。ハノーニア」
口付けを区切ったエルグニヴァルにそう願われて、ハノーニアは満たされつつも微苦笑した。
「見ていますよ、トゥエルリッヒ様」
「口付けの最中もだ」
「うぅん…」
「…嫌なのか?」
「違います! ……その……き、キスの時、目を閉じない女を信用するな。なんて言葉が共和国にはあるそうで。まぁよその国の事なので気にする必要もないといえばないのですが…。…やはり、閣下には、トゥエルリッヒ様には…少しでも信じていただきたいので…。
…こんな誰のものとも分からない言葉さえ気にしてしまうほど、貴方のことが好きなんですよ」
すらすらと唇が動くのは、ついさっきまでエルグニヴァルによってあたためられていたからだ。なんて、ハノーニアは自分で思っておきながら、笑いがこみ上げてきた。
その気持ちのままに破顔したハノーニアは、もう一度エルグニヴァルから口付けを受ける。今度は、さっきよりも深くて長い。頭を鷲掴み、腰を抱き締める手も痛いほど強い。
痛みを感じるのだから、これは夢ではない。
夢のような、現実だ。
永い長い夢路を辿ってようやく着いた、今生なのだ。
これにて、第一部の幕引きとなります。




