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夢の寿命の限りまで  作者: 真神
第一部
18/50

ミミルの形代になれたなら


「――やぁ。取り込み中失礼するよ」


 悪魔の声か、それとも天使の声か。

 どちらであるにしろ、ハノーニアはその声――シュエンディルの登場にか細く息を吐いた。


「僕の時機が悪いのかいいのか…。大体話し中で申し訳ないね。

 だけれども…今回はあえて言おうか。そこまでだよトゥエルリッヒ。かわいそうに、震えてるじゃあないか。

 なんだい、取って食うことにしたのかい? 殺してしまうのかい? そんなつもりはないって言っていたけれど…気が変わったのかな?」


 にんまりと笑うシュエンディルの頬に、えくぼが出来る。


「それなら僕も変わろうか。

 まず手始めに、この可愛いかわいい末の子を、クレヅヒェルト(我が家)へむかえるために、色々頑張ろう」


 ハノーニアは声を発しようとして、自分を抱えて放さないエルグニヴァルから伝わってきた低い唸り声に息を呑む。

 引き連れてきた従者や部下さえ緊張で強張る中、シュエンディルだけは相変わらず微笑のままだ。そして彼は、大袈裟に肩を竦めてみせた。


「おぉ怖い恐い。睨むくらいならちゃんとしなよ。あぁまったく…人間らしくなってきたねぇ君」


 にまにまと目を細めて笑うシュエンディルは心底楽しそうだ。

 エルグニヴァルを眺めていた紫の瞳と不意に視線が合って、ハノーニアはビクリと肩を跳ねさせた。


「きれいだね、宵の狭間の空の色」

「っ」


 いつの間にか『バイカラー』になっていたらしい。慌てて戻そうとするが、シュエンディルにやんわりと止められた。


「いいよ、そのままで。その方が、此処だと楽だろうし。魔力の溜まり場であるこの国は、『バイカラー』にとっては最高で最悪の場所だからね」

「……無駄話に来たのなら一刻も早く去るがいい。今、わたしの機嫌がどうであるか…貴様ならよく分かっているだろう」

「やぁだなぁ。僕が手土産もなしにかわいこちゃんへ会いに来るとでも? あぁ勿論、君へのお土産もあるから。機嫌も直る…かもしれない。

 だからまぁ…せめて明の薄明は解いてくれないかい。かわいい部下や従者たちが怯えてるんだよ」

「貴様だけくればよかろう」

「そういう訳にもいかないんだよねぇ。僕、これでも王弟っていう身分だもんでね」

「あぁ…そうだったな」

「そうそう。そうなんだよ」


 一般的なものとはだいぶ違う雰囲気の中で叩かれた軽口は終わったようだ。

 軽やかに、気軽ささえ携えて歩み寄ってきたシュエンディルは、寝台脇の一人掛けソファに腰を下ろす。


「ちょっと長くなりそうだから、今飲み物を用意させるね。ハーブティーはいかがかな? ノイゼンヴェール嬢」

「…は、…い…。…いただき、ます…」

「うん。

 それでなんだけれど。一つ目。ミノーレアの『花』――アルス・ゲシェンクはクレヅヒェルトで預かることが決定しました」


 これまた天気の話でもするようにさらりと、へらりと微笑みを添えて言われて、ハノーニアは唇を引き結ぶしかない。自分を抱き締めるエルグニヴァルの手に力が込められたので彼を見上げれば、相変わらず明の薄明のままの目が鋭くシュエンディルを睨みつけている。


「そーんな顔で睨んでもだめです。決まりましたー。ミノーレア側も下手に引き取って帝国と事を構えたくないんだろうね。泣きついてきたよ」

「……ミノーレア主導、ではない…と?」


 つい口走ってしまったハノーニアだったが、シュエンディルに微笑んで頷かれたため、そのまま彼の言葉の続きを待った。


「まったくの白。真っ白けとは言えないだろうけどねぇ…。少なくとも『今じゃなかった』って感じの焦りは感じたかな。ま、予定や計画なんて壊れるものだもの。ね!」


 「ね!」ではないと思う。思わずしょっぱい顔になってしまったハノーニアは、シュエンディルが申し訳なさそうに眉を下げたのを見た。


「とはいえ、君にはすまないと思っているよ。心からね…。

 この前も大怪我をして、やっと治ったところだったんだってね」

「ぁ…」


 そう言えばそうだった。エルグニヴァルによって抱き締められて感じる苦しさはあるが、怪我の痛みを不思議なほど感じなかったため、今更ながらハッとする。

 またしばらくガーゼや包帯と仲良しこよしだな。なんて思い微苦笑を浮かべたハノーニアは、恐らく労わろうとして伸ばされたシュエンディルの手がエルグニヴァルによって叩き落とされるのを見て固まった。見守るしかない部下も従者も固まった。


「触るな」

「あいったぁ…。相変わらず素早いなぁ君は。流石黒鷲。昼間じゃ君に敵わないかぁ。残念。でも君から直接攻撃を受けるだなんて、歴史的に見ても稀だよね」


 固まるハノーニアたちをそっちのけで、シュエンディルは叩き落された手をのんびり摩り、エルグニヴァルは相変わらず不機嫌そのものの顔だ。眉間にしわを寄せた彼の両腕が、気持ちきつく締まった気がする。


「さっきも言った通り、この国は魔力の溜まり場だから。ちゃんとした使い方をすれば、魔力の流れを良くして、怪我の治りも早く出来る。勿論、我が国も手を惜しまない。必要なものことひと、何なりと。

 んふふ…破格だと思ってる顔だね」

「っ」


 口元に指を添えて微笑むシュエンディルは様になる。形の良い唇が柔らかく弧を描く光景は、こんな状況でなければ見惚れているくらいに美しい。


「破格でもなんでもないさ。これは当然のこと。君が受けるべき待遇だよ、ノイゼンヴェール嬢。

 その訳は、君が思っている通り。君が『バイカラー』――宵の薄明であるから。

 それと」

「え?」


 まだ何かあったっけ?と目を見開くハノーニアの前で、シュエンディルがうっとりと笑う。


「それと、君が『飛び血』であるから」

「…とび、ち…? 飛び地、ではなく?」


 初めて聞くだろう単語を、ハノーニアは自分の口で転がす。

 それを見たシュエンディルは「おや」と首を傾げると、エルグニヴァルへ不満そうな視線を向けた。


「ちょっと、ねぇトゥエルリッヒ。これは流石に情報統制じゃないかい?」

「必要ないと判断したまでだ」

「君じゃないでしょう。その子は。

 選択肢は多い方がいいんじゃないかい? まぁあくまでも、僕の持論だけれど…」


 一つ息を吐いたシュエンディルは、ハノーニアに向き直る。


「『飛び血』――本来ならその親、その集団からは生まれそうにない魔力を持ったものが現れること。魔力血統って言ったら、まだ耳馴染みはあるかな?」

「あ…それならば、はい。学校で…」

「与えていないとは言っていない」

「君にもそういうところあったんだ…」


 頬杖をついたシュエンディルが生温かい視線を送るが、エルグニヴァルは何のその。しれッと言い返し、おまけにフンと鼻を鳴らした。


「はぁ…。まぁいいや。

 つまり、ノイゼンヴェール嬢。君はクレヅヒェルトの、もっと言えば狼の『飛び血』なんだ」

「、…ぅ…そ、だ…」

「そう言いたくなるのは当然だよね。君はちゃんと帝国の病院で生まれた。カルテも残ってる。

 でもね、振り返ってみて…。

 例えば、性別。周りの人は、君をちゃんと分かってくれた?」

「…。…いいえ。…ですが、中には分かってくださる方も、おりました。閣下のように」


 反応したくなくても、体は正直だった。そもそも自分は腹芸なんてものに向いていない。

 それに例えそう言った訓練を積んでいても、目の前の百戦錬磨の相手にかなうとも思えない。だから、正直に答えた。

 シュエンディルは微笑みながら頷いた。


「うん、そうだね。トゥエルリッヒは分かるだろう。エルンスト君だって分かっただろうね。

 でも…ほとんどは分からなかっただろう。そりゃそうだ。君は狼で、周りはほぼ鷲なんだから」

「…狼に、鷲…。…紋章のことを、言っておいでですか?」


 ハノーニアは思い浮かんだことを口にする。

 帝国は双頭の黒鷲を、クレヅヒェルトは三つ目の狼を国の紋章として掲げているのだ。

 シュエンディルはゆっくりと頷いた。


「まぁね。今じゃそれぐらいにしか残っていないから。

 魔力にも種類というか、特徴があってね。それを表しているんだ。例えば…そう。帝国に航空魔導師が比較的多いのも、そういう理由だよ」


 そこまで言われて、ハノーニアは「あ」と声を漏らした。ついで項垂れる。夢が一つ終わったのだから。


「ハノーニア?」

「ノイゼンヴェール嬢?」

「…あ、いえ…。…その、なんでも、ありません。

 ………つまり、小官はやはり飛べないのだという事が、分かりまして…えぇ、それだけです…はい」


 脳内でチーンとお鈴が叩かれ、むなしく木霊した。


「案ずるな。わたしがいつでも抱えて飛んでやる」

「…はい、かっか。ありがとうございます…うれしいです…」

「僕も飛ぶよ。僕は梟だから」

「成るほど。叩き落されるのは、手だけは足りぬと…。分かった。望み通りその体ごと命を叩き落してやろう」

「あっはっは。昼間は勘弁。夜戦なら喜んで応戦するけどね」

(…ルシフェステル准将ともそんな話をしたこと、言わなくてよかった)


 そう心底思いながら、ハノーニアは脱線させてしまった話を戻そうと口を開いた。


「…あの、それで。お話を蒸し返してしまい、大変恐縮ではございますが…。

 …ミノーレアの魔導師、アルス・ゲシェンクと申しましたか。彼女の処遇についてもう少し詳しくお聞かせいただくことは、可能でしょうか」


 グッと力がこもったエルグニヴァルの手に、ついに首でも閉められるかと一瞬頭を過ったが、どうやら杞憂で済んだ。彼に米神へと頬を寄せられながら、ハノーニアはシュエンディルの言葉を待つ。


「うん、構わないよ。

 さっきの繰り返しになるけれど。身柄はクレヅヒェルトで預かることに決定した。幸いというか、直接の目撃者は君たちラルヴァ帝国とうちだけ…。まぁ引率や他の留学生にも何かしら思う者はいるだろうけれど、それはどうにだってする。規則も法も此方のものだからね。これでも、怒り心頭なんだよ? この留学に関わる行事や事業は国家の威信だってかけているんだ。それに僅かでも汚点なんてつけられるだなんて…あぁ耐えられる訳ないだろう?」


 中性的で美しい顔に、残忍な笑みが浮かぶのはゾッとする。梟雄なんていうのは、まさにこの男のような存在なのかもしれない。

 真っ白い歯を見せてわらったシュエンディルは、瞬きを一つ挟んで続けた。


「対外的には…こう。“溜まり場の濃厚な魔力に当てられて心神喪失。運よくクレヅヒェルト軍に保護され、経過観察と療養を兼ねて国立魔導研究局へ護送された”…かな。

 実際、過去にも何度かあるからね。魔力の暴走、暴発事故。憐れ、うら若き魔導師たちは散りかけり…なんて前例を出せば、うるさくは言えない。慈善の皮を被った、なんてことは言われ慣れてるから、好きに言わせておく。あんまりうるさいと…まぁ、なんかしちゃうけれど」


 そう言ったシュエンディルは楽しそうだ。


「なんかねぇ…おかしいんだよね、あれ」

「…あれ、とは…アルス・ゲシェンクでありますか?」


 エルグニヴァルのみならず、シュエンディルにまで『あれ』呼ばわりされ始めたヒロイン――アルス・ゲシェンクに一欠片ほどの同情が生まれかけるが、ハノーニアはそれを心の中から爪弾きにした。


「そう。…此処に来る前ちょっと見てきたんだけれど、ってあぁちゃんと清めてきたから。そんな顔しないでよトゥエルリッヒ。流石に傷付くってば。

 あぁそう、それでね。なんていうかなぁ…。混ざりがひどい、って言えばいいのかな」

「…『混線』…でしょうか」

「おそらくね。でも、そうだとしてもひどいんだよ。常時混ざっている、混ざり続けている…うん、会話が出来ているようで出来ていない。というより、今現在を見ていない?」

「答えをもって出直してこい」

「それはごもっともなんだけれどね。トゥエルリッヒ。君だって当事者だろう。

 思いっ切りバレてたじゃないか。

 なに? その子に振り向いてもらえないからって浮気? 移り気? 英雄色を好むって? 君ってば絶対英雄っていうより魔王だったり黒幕だろうけど」

「黙れ」


 視線だけでは足りなくなったのか、はたまた我慢の限界なのか。身動きしたエルグニヴァルを、ハノーニアは咄嗟に抱き締め返した。


「!」

「っ、もうしわけ、ありません、閣下。ですが…ですが、跳びかかろうと、なさったのかと、思って…。…もしそうなら、なりません、閣下」


 見開かれた明の薄明で見つめられ、ハノーニアはつい視線を逸らす。シュエンディルが来る前のやり取りが思い出されて、恐ろしさと嬉しさがぐちゃぐちゃに混ざった気持ちがぶり返す。それでも、此処で手を放すことは出来ない――したくなかった。

 その気持ちが伝わったのか、エルグニヴァルに改めて抱き締めなおされた。相変わらずがっちりと閉じ込められるが、今度は締め付ける苦しさは感じなかった。


「…はぁ。君ってばほんとう、執念深い…いや、そうなったんだよねぇ」

「…シュエンディル殿下?」


 ハノーニアが聞き返しても、シュエンディルは柔らかく苦笑しただけだった。独り言、ということだろう。深く聞くのも怖いし、そもそも余裕がない。


「そんな訳で、だ。直接拳というか魔力を交えて戦ったノイゼンヴェール嬢にお聞きしたい。

 言動はもとよりだけれど。それ以外に何か異常を感じなかったかな?」

「異常…。……」


 すべてが異常だと言いたかったが、それでは何の解決、その切っ掛けの欠片にもならない。

 あの時――対峙した瞬間を思い出そうとして、ハノーニアは不快感に襲われて顔をしかめる。


「…きもちわるい?」

「外の空気でも吸いに行くか?」

「あ、いえっ。そうではなく!

 ……魔力に、気持ち悪さと言いますか、気味の悪さを感じた…気がします。曖昧で申し訳ありません」

「いいよ。にしても、魔力…か。

 ……星座石、か?」


 何か思い当ることがあったのか、シュエンディルは部下を近くへ手招いた。


「あれの星座石は処女宮だったな」

「はい。間違いありません」

(乙女座…一緒か…)


 共通点が増えて、何とも言えない気持ちになる。

 ハノーニアは自分の演算珠と、エルグニヴァルの提げる演算珠を見つめた。機構の隙間から覗く輝石の青い光が、突き刺さる気がした。


「ふむ…。…没収した時、幾らか抵抗したと報告にあったが、それも確かか?」

「はい」


 数秒考え込むように目を瞑ったシュエンディルは、そうして「分かった」と部下を戻す。


「……こりゃあ、楽しい宝さがしになりそうだねぇ」


 五指を合わせ、それを唇に寄せながらシュエンディルがわらう。


「『花』の下でなに隠してんだか…。…隠されたら、見付けたくなるのが道理だよね」

「知らん。好きに暴けばよかろう」

「君だって光物は嫌いじゃないだろう? ほら、その子を飾るのとかにいいんじゃないかな?」

「確かにこれには様々な宝が似合うだろう。だがしかし、それよりも好きなものを贈りたい」

「へ…え? えっ!? うわ、トゥエルリッヒが…うわ。天変地異の前触れかな?」

「魚にはまだ及ばんのが口惜しくてならんが…わたしで良ければ、喜んで腕をふるおう。お前のために、お前を想って、サブレーを作ろう」

「あ、ありがとうございます、閣下。えぇ、事が終わりましたら、ぜひとも」

「うむ」


 視線を感じてシュエンディルへ顔を向ければ、口を半開きにした笑みの表情で固まっていた。


「……花より団子で、その、大変申し訳ございません…」

「や…いや、いいよ。ちゃんと食べる子って、僕も好きだし」


 シュエンディルとの小声のやり取りは、エルグニヴァルのどすの利いた「あ?」という声によって強制終了する。


「ふ、ははは。

 は~…、あーあ。花壇は花壇のまま、ただきれいに花を咲かせていたら良かったのに、ね」


 穏やかな微笑みから一転して、そう呟くシュエンディルの表情は至極つまらなさそうに見えた。


「女王陛下へ謁見の先触れを。

 ミノーレアへ使者を派遣する。花壇の下を掘り起こすためにね」


 速やかに駆けていく部下を背にわらったシュエンディルは、表情を真剣なものとしてハノーニアとエルグニヴァルへ言葉を紡ぐ。


「君たちには、しばらく国内に居てもらうよ。僕の名前に誓って、不自由はさせない。

 だから、お節介だとは分かっているけど…。その間に、少しでも話をしたほうがいいんじゃないかな?

 …折角さ。おなじ言葉をもって生まれたんだから」

「シュエンディル、殿下…」


 ハノーニアがそれ以上何も言えないでいると、シュエンディルはふわりと笑った。


「しあわせに、なってほしいんだ。曲がりなりにも、大事な末の子と、大事なともだちだからね」


 そう言い残して、シュエンディルは待機していた従者と共に部屋を出て行った。

 侍女も侍女で、ぬるくなってしまったお茶を淹れ直してくると言って退室した。

 再び二人っきりになった部屋に、そっと静寂がおりる。


「……閣下」

「…あぁ。どうした?」

「……。……」


 呼びかけて、やはり言葉が見付からない。ハノーニアはきゅっと唇を引き結ぶ。

 ふっと柔らかい吐息が間近で聞こえて、次の瞬間には、エルグニヴァルによって唇を優しく撫でられた。


「っ…か、っか」

「かわいらしい癖だ。…あぁだが、どうか傷をつけないでくれ。癒し方など、どれだけやろうと分からぬのだ…」

「…閣下…。

 ……閣下。小官は、私は……あなたの、ハノーニアですか?」

「あぁ」


 静かだがしっかりとした返答に、ハノーニアは奥歯を噛む。


「本当に? わたしとて、混ざっているかも…いいえ、混ざっているのに。それでもですか?」

「あぁ。お前は、わたしのハノーニアだ」

「私はっ…わたし、は……」


 明の薄明に見つめられて、息が詰まる。瞬けば、いつの間にか溜まっていた涙が拍子に零れ落ちた。


「…わたしは、あなたとのことを、憶えていない、のに?」


 思い出すのは前世の記憶。魔力も魔法もなかった世界で生まれて生きた、断片だ。その中に、エルグニヴァルは在るけれど居ない。


「本音を言えば、思い出してほしい。すべて、すべて…。…だが、憶えていないのなら、なくしてしまったのなら、それでも…いいのだ」

「かっか?」


 身を寄せ首筋に顔をうずめてしまったエルグニヴァルは、どうやらわらっているようだ。


「わたしは、お世辞にもよい男ではなかった。よきつがいではなかった。分からなかったから、なれなかったのだ。…言い訳であることは、百も承知である。

 そして、それをなくしてしまえるのなら、その方がいいと心の底から言えるわたしは…あぁやはり、ひとでなしなのだろう。怪物、なのだろう」


 見下ろしていた顔が動き、自嘲的に歪んだ唇が見える。自分を見上げる明の薄明に吸い込まれるように、ハノーニアはエルグニヴァルの米神へ口付けた。


「ひとでなしでも、怪物でも…なんだって構いません。わたしを、可愛がってくださるのなら…。かわいがってくださるのが、閣下であるのなら。

 ですから…ですから、閣下も、構いませんか? 私で、構いませんか。私が…私が、あなたのハノーニアで、構いませんか」


 覗き込んだ明の薄明が、笑った。


「あぁ。お前は、わたしのハノーニアだ。わたしの可愛い、かわいいハノーニアだ」


 彼女も、宵の薄明を細めて笑う。


「はい」


惚れているのですでに負け。

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