ほらノルンは微笑んでいる_2
要所要所で補給を行いながら、鉄道の旅は順調に進んでいる。そして昨日、国境を越えて帝国からクレヅヒェルトへ入った。
国境の大部分が寒冷な山岳地帯であることもあり、帝国とクレヅヒェルトの国交は比較的穏やかに保たれている。先人たちの努力のお陰で両国の行き来はしやすい方だ。
山頂付近を万年雪で真っ白に化粧された大きな山々を窓の外に眺めながら、ハノーニアはエルグニヴァルと食事を共にしている。もうこの状況にはツッコんだりしない。「何故!」といちいち反応するよりも、有難く享受することにした。
(幸せも幸福も、消費期限は短い)
勿論、それを一分一秒でも長くするために努力は惜しまないつもりだ。具体的に何をすればいいかは、目下鋭意検討中であるが。
「口には合ったか?」
「はい。本日のお食事も、大変おいしかったです。その…ご一緒出来て、とても嬉しかったです」
「わたしもだ。お前と同じ時間を過ごせて、とても満たされている。嬉しいぞ、ハノーニア」
「っはい!」
想う相手にそう言われて、嬉しくならない筈がない。弾む気持ちのまま、ハノーニアは笑みを零した。
相変わらず胃袋ごと心を掴まれるおいしい食事を終えて、ハノーニアは脇に置いていた制帽を抱えて立ち上がる。
「あぁ…もう、か」
「はい。巡回に行ってまいります」
護衛官なのだから四六時中傍に居ればいいと、初日にエルグニヴァルから言われた。だがしかし「不安の芽は自ら摘みたいのです。閣下がいらっしゃるのですから、なおさら」とハノーニアが言えば、渋々承諾された。「まあこんな末席『バイカラー』にウロチョロされる方があれかな」と内心俯くハノーニアに、シジルゼートが「さみしがっておられますので。ぜひ最短で御戻りを」なんて囁いた。
それをまんまと本気にして、効率よく車内を巡回できる経路を無い頭を必死に動かして組んだ。シジルゼートたち歴戦の将の知識知恵も思いっ切りお借りした。改良を重ねたその経路は、この旅路の間に他の帝国軍人たちへも共有されていて、役に立ったとまではいかないが改善のきっかけにはなれたのかな?とハノーニアは少し嬉しかった。
必要とされることは、嬉しい。役に立てることは、もっと嬉しい。感謝の言葉や仕草、態度が示されるのは、なんと満たされることだろう。
「気を付けてな。それと…早く帰って来てくれ」
「はい。ありがとうございます。
では、いってまいります」
「あぁ。いってらっしゃい、ハノーニア」
立ち上がったエルグニヴァルから頬にそっと口づけされて、あたたかくなる胸を押さえた。何度されても慣れない。赤く染まっている頬が恥ずかしいが、それを耐えつつハノーニアもエルグニヴァルの頬へ口づけを贈る。
ひたるように閉じられる秋空の目が、とてもいとおしい。自然と浮かぶ笑みのまま、ハノーニアは部屋を辞した。
「………いってきますといってらっしゃいのちゅー、とか。ほんと、何度させてもらっても…夢じゃないかって、思う」
深呼吸をして制帽をきゅっと被り、気持ちを引き締める。
「さあでは。お仕事を始めましょう。
帝国のため。ひいては…閣下のために」
つばの下で魔力光をたたえる琥珀色の目は、まさにオオカミの目だ。
*
さらに数日を経て、一行はクレヅヒェルトの首都イールアーデェへと到着する。
駅からは、クレヅヒェルトが用意した軍用車と軍用馬車に乗り換えての移動だ。数年ぶりとなる風景だったが、何ら変わりはないようだった。
「舗装があまりされていないというのは、本当だったのですね…」
「なんだ。私を疑っていたのか?」
留学生組の中でも何度か言葉を交わしたことがある一人の呟きを拾って、ハノーニアは少しいじわるに笑って見せた。
「そ、そういう訳では! 申し訳ありません中尉殿!」
「いや、こっちこそ。少し意地が悪かったよ、すまなかった」
音が聞こえそうなほどの勢いで敬礼してみせた彼に、ハノーニアも素直に謝罪する。
「まぁなに、町の中に入るまでさ。町中はしっかり整備されている。
この舗装が薄い街道だって、侵略された時を想定してだそうだ。自分たちが使いやすいものは、敵にとってもそうであることが多い。なら、多少の不便は耐えるんだと」
「はぁあ…。感心する気持ちもありますが、そこまでと呆れに似た気持ちもあります」
「今でこそ魔導大国としての地位も確立しているが…周りは敵だらけのようなものだからな。此処は」
「確かに」
幸か不幸か、帝国との間には難攻不落の雪山がそびえている。他にも大きな河があったりと地の利は多いクレヅヒェルトだが、人口量としては他国に劣る。
風光明媚なこの国も、戦禍に巻き込まれたのは一度や二度ではない。
「……あぁほんとう、まったくもって軍人兵士暇がいいな」
ハノーニアが舌打ちと共に吐き捨てた言葉は、誰の耳に拾われることもなく、独り言として地面に転がって消える。
「さあ、さて! 各自荷物を持ったか? 緊張もあるかと思うが、忘れ物なんて間抜けは犯してくれるなよ! 諸君らは、帝国の代表である。その自覚を胸に、日夜励んでくれ!」
「「「ハッ!」」」
元気のよい返事に頷き、顔見知りの教官へ後を頼んだハノーニアは駆け足で移動する。
装飾が施された要人用の軍用車に促され、躊躇いを呑み込んだハノーニアは、乗車していたエルグニヴァルの隣に着席する。
「お待たせいたしました。
准将、お時間をいただきまして、本当にありがとうございます」
「よい。
お前があれら――士官学校生と親しくしているのは知っていた」
そこで一度言葉を区切ったエルグニヴァルは、ほんの少しだけ視線を下に向けて口を開いた。
「…列車では、お前を独占してしまったからな。幾らかはすまないと思った。それ故だ」
「んッ!? ぐ、げほ!」
むせたのは、助手席に乗ったシジルゼートだ。運転手を務めるクレヅヒェルト軍人は、明るい琥珀色の目をこれでもかと見開いているのがバックミラー越しに見えた。
「まぁ准将。小官には勿体ないお言葉です。…ですが、嬉しいです。とても」
「…嫉妬深い男は嫌われると聞く」
「相手に因りますし、程度にも因ります。
えぇですが…ふふ、申し訳ありません。今ぐらいでしたら、嬉しいのです。小官は、ですが」
「うむ。心得た。ならば、今後も注意しつつ嫉妬していくとしよう」
「ぶッ! か、隠しはしないんですね、っ、くッ」
「あぁ隠さん。美しい琥珀を狙うものは多いからな。これが誰のものであるか、今一度広く知らしめる必要がある」
堪え切れていない笑いを零すシジルゼートを冷ややかに一瞥したルシフェステル――に扮したエルグニヴァルは、次いでクレヅヒェルト軍人の琥珀色の目を鏡越しに射貫く。
自分よりも年上だろう彼が瑠璃色の視線を受けてがっしりとした肩を跳ねさせたのを見て、ハノーニアは思わずぬるい微苦笑を浮かべかけ、ぎゅっと耐えた。
「、そろそろ出発いたしますが…よろしいですか?」
「構わん」
決して声を荒らげた訳ではないのに、発せられる威圧感というもののためなのか、狭くはない車内の雰囲気が程よく張りつめる。
程なくして、エルグニヴァルたち要人を乗せたこの車を真ん中にして、車列が発進する。馬車の留学生組とは後程学園で合流する。式典前の最終調整や、談笑の皮を被った各国高官とのやり取りがあったりするのだ。政治的な話に付き添うのは勿論と言うかシジルゼートだが、ハノーニアもそれに随行する。後学のためにも大きい経験であるし、有事の際は身を挺して彼らを守るためでもある。
(……若干、ヒロインをチラ見してみたい気もするが…それはそれだ)
式典後、また時間を貰えれば留学生組にそれとなく聞き込みでもしてみよう。そう予定を立てながら、ハノーニアは外を見やる。
砂利道のため、時折揺れながら走る車の窓から、帝国とは比べ物にならないほどのどかな――悪く言えば過疎地帯のような風景を何の気なしに眺めた。
「ぁ、リインの花…」
明るい琥珀色――山吹色に近い花がポツポツと咲き、そよ風に遊ばれている。この国の固有種であり、国花にもなっているリインの花だ。雪を割って陽だまりの色を咲かせることから『春告げの花』『春を約束する花』とも言われている。開花時期はもう過ぎてしまっている筈だが、どうやら寝坊助がいたらしい。
「お前の目の方が鮮やかで美しいぞ」
「ぴゃ!?」
膝上に置いていた拳をそっと握られたことも、耳元で囁かれた言葉にも驚いた。変な声が出てしまったが、幸運にも少し大きめの砂利があったのか、ちょっとばかり跳ねた車体のお陰でエルグニヴァル以外には拾われずに済んだ。
「、じゅ、じゅんしょう…!」
「ふ、くく…すまん、ついな」
つい閣下と呼びそうになって、すんでのところで事なきを得る。羞恥の中に嬉しさを感じている時点で負けなのだと分かっていても、ハノーニアはエルグニヴァルを睨み付けることをやめられなかった。
握られた手を握り返して、エルグニヴァルの瑠璃色になっている目が見開かれるのを見て、ようやくハノーニアは琥珀色の目を柔らかく細めることが出来たのだった。