ほらノルンは微笑んでいる
タタタン、タタタン。独特の旋律を奏でながら、列車は進む。石炭を燃やし、煙を吐いて、よどみなく。
(………どして?)
クレヅヒェルト行きの特別列車。その通路を、貴賓車へ向かって歩くハノーニアの頭の中がこの言葉で埋め尽くされるのは、さてこれで何度目だろうか。出発してまだ一時間ほどしか経っていない――つまりはまだまだ国内であるのに、ハノーニアはすでに帰りたい気持ちで胸がいっぱいだった。
「……なんて言うか、留学の時みたいだ…」
既視感から口を突いて出た言葉に、ハノーニアは一人頷く。
動くことが出来るまで回復したと思えば、いつの間にか用意された荷物と共に特別列車に乗せられていて。一人部屋を広々と使えたことに喜ぼうと自分を慰めていたら、クレヅヒェルトに到着して。帝国の『バイカラー』として、他国の『バイカラー』たちと寝食を共にした。肩身が狭いと感じる余裕などなかった時間だったなあ、とハノーニアは当時を思い出して、遠いような、生温かいような、何とも言えない眼差しとなる。
「………というか、ほんとうに、どうして? どうして私は此処にいるの?」
誰もいないことを良いことに、ハノーニアは独り言ちて首を盛大に傾げた。
足は止めないまま、特に慌ただしかったここ数日を回想する。
*
マガドヴィウム魔導学園へ向かう留学者たちの準備も、いよいよ大詰めだった。
遠方出身者たちも集合し、それらの付き添いたちも加わり、帝都は普段以上の活気と混雑に見舞われている。商売人たちは書き入れ時だと忙しい。人が集まればどうしたって治安が低下する部分があるため、軍も忙しい。
慌ただしく駆け回る同僚たちを横目に、総統府へ出勤しながら「私もこんなんだったんだなぁ」とハノーニアは内心合掌した。頑張れ、頼んだ、と心から祈った。とは言え、事務方には事務方の大変さがあることはこの短い間でもしっかり分かっているので、今日も今日とて気合を入れてかかる。
山になった郵便物や書類を確認し、仕分けし、各部署へ届けに走る。遠目に閣下のご尊顔を拝見できたらば、きっと疲れも何もかも吹き飛んでしまうのだから。そんなことを思いつつ内務に勤しんでいたハノーニアは、呼び出しを受けて向かった上官の執務室で己の耳を疑うことになった。
「ノイゼンヴェール中尉。貴様には、今回のクレヅヒェルト、およびマガドヴィウム魔導学園への留学に同行してもらう」
「…は?…」
ポカンと口を開ける間抜け顔を晒すことはなんとか免れたが、感情を抑えるには一歩も二歩も足りなかった。
執務机を挟んで相対するシジルゼートが面白そうにその緑青色の目を細めたのを見て、ハノーニアはハッとして敬礼した。
「ハッ! 謹んで拝命いたします!」
「くくッ、そうか。だがしかし、だいぶ驚いているようだな」
「…それは…はい。正直、寝耳に水であります」
「護衛官の職務は、存外幅広い。貴人が赴くところ…それこそ東へ西へ、北へ南へ、だ」
「はい、承知しております。…しかし、今回は…」
「そうだな。今回、護衛対象は閣下ではない」
シジルゼートの言葉に、ハノーニアも頷く。
マガドヴィウムへの留学、その式典には各国から貴人が招待される。帝国からは、皇族やそれに連なる高位貴族が出席することもあるが、もっぱら軍の高官がその席に着く。魔導師や『バイカラー』を直接指揮・管理しているのだから、当然と言えば当然だ。
「この間めでたく昇格されたルシフェステル准将が、閣下の名代としてご出席なさる」
「…はい、存じております」
准将が総統の名代など務まるのかと眉をひそめる者もいそうだが、いかんせん事情も理由もある。まず、軍の最高官職がおいそれと自国を出ることがあってはならないだろう。それで代理を、と探してもなかなか『バイカラー』がいない。『バイカラー』でなければならないという条件はない。しかし周りに示しをつけるためという理由もあって、最終的にルシフェステルへ白羽の矢が立つことになった。初めて聞かされた時と同じく、何ともしょっぱいというか、そんな気持ちになる。自ら経緯を説明した後「とてつもなく面倒だ。だがやらねばなるまい」と鼻を鳴らしたルシフェステルの渋面がはっきりと思い出せて、ハノーニアは漏れそうになる溜息をグッと呑み込んだ。
自分よりも、もっと深くさらに多くを知っているであろうシジルゼートはどういう気持ちなのだろう。ハノーニアは美しい緑青の目を見つめ返すが、煌き柔らかく細められたそれから何かを読み取ることは出来なかった。
「なに、あまり深く考えるな。元は直属の上官だろう。積もる話でも楽しんできたまえ」
「職務外でお話しできるお時間があれば、是非とも」
「ふふ…真面目だな。まぁ、そういうところも好感が持てる」
「恐縮であります」
フッと表情を和らげたシジルゼートはそこで一度言葉を区切った。
続きを待っていたハノーニアは、そして不意にきれいなウインクを貰う。
「大丈夫ですよノイゼンヴェール様。わたくしめもすぐに合流いたしますので」
「は?」
*
「………え、フラグでした?」
回想を終えたハノーニアは、つい足を止めてしまう。両手で顔を覆い、傍の壁に束の間寄りかかった。
(エッフラグだったのあれ? えっヤダ。やだぁ…)
顔を覆ったまま、壁に身を預けながら、ハノーニアは首を振る。
「…お、お家帰りたい…」
泣き言を言って、それから「…ねぇよ、家…」と自分でとどめを刺す。
官舎の部屋が引き払われ、エルグニヴァルの私邸の一室が居住地となってもうしばらく経った。流されている自覚はあれど、それを呑み込み自分のものにする覚悟は未だ持てないのだから、どうしようもない。ハノーニアは苦々しく笑い、一つ深呼吸をした。
「……ねだったのはお前だよ、ハノーニア」
磨き上げられた窓ガラスに薄っすらと映り込む自分に向かって念を押す。
「家族が欲しいと願ったのは、夢見たのは、お前なんだよハノーニア。
だからね、ちゃんと対価をお支払いしなければならないの。分かってるでしょう?」
肩を竦めて、ハノーニアは頷いた。
「分かってるさ、ハノーニア。分かってるよ、私」
窓越しに自分の目とよく似た宵の薄明かりとなりつつある空を一瞥したハノーニアは、残りの距離を足早に歩いた。
そうしてたどり着いた貴賓車両との連結部分で、見張りの兵士に異常がなかったことを伝えて扉をくぐる。元々特別列車ということもあって、どの車両の内装も絢爛豪華だ。だがしかし、流石貴人専用車両。そのさらに上の上をいく。
(なんだっけ…走るホテル、だったっけ)
前世のいつかに聞いた単語がぷかりと頭に浮かんだ。ただのホテルではなく、超高級がつくんだろうと心の中でだけ頷いて、一般車両よりも分厚い絨毯張りの通路を歩き出す。へっぴり腰にならずに済むのは、きっとエルグニヴァルの私邸での生活のお陰だ。
(うん、閣下のお家の方が素敵。好き……って私はまたかッ!!)
乙女になっている時間ではない! 職務中だ!!と大きく息を吐いて、ハノーニアは最奥の扉の前で足を止めた。来訪を伝えるために扉を軽く打てば、高すぎず低すぎずの良い音が響いた。
「ノイゼンヴェール中尉、参りました」
「…あぁ。入れ」
「! …はい、失礼いたします」
ハノーニアは目を見開いた。そんな訳がないと唇をきゅっと結んだところで、扉が内側から開いた。
顔なじみになって久しい執事の微笑でもって出迎えられ、踏み出した足が止まる。
美しい調度品が適所に置かれた室内。長椅子から立ち上がったダークグレイの髪の男が、空色の目を優しく細めて笑う。
「――…か、…かっか?」
ハノーニアは、口走る。そんな訳があるか。此処にいるだなんて馬鹿なことが、ある訳ない。
目を見開いた彼女は、自分の口を押えるよりも速く、男――ルシフェステルと瓜二つになったエルグニヴァルからの抱擁を受けた。
「ああ、ああ!! わたしのハノーニア! ははッ! 分かるか? やはり分かるのかお前は! なんと愉快なことだろうか!
ああこんなにも血が沸くことは未だかつてあっただろうか!!」
「閣下。せめてそこは心躍ると仰ってください」
「わたしに踊るような心があると思うか? あぁいや…今は、あるか。そうだな、お前と出会ってわたしに心が出来たのだった。ああ、わたしの可愛いかわいいハノーニア」
とびっきりアツい抱擁でもってエルグニヴァルに捕獲され、抱き上げられて運ばれ、優しく丁寧に長椅子へと下ろされた。先ほど一瞬だけ見えた時にはいくつも書類が広がっていたテーブルはきれいに片づけられ、瞬く間にお茶と菓子が置かれていく。
隣に腰を下ろしたエルグニヴァルから順に、片づけた書類を抱えるシジルゼート、談笑の用意を整えて部屋の隅へと戻っていく執事、と目で追って。ハノーニアはエルグニヴァルに顔を戻す。
「…。…閣下…?」
「あぁ」
肘掛で頬杖をついたエルグニヴァルは、満足そうに息を吐いて頷いた。
「い、ったい、なぜ…、…御髪の、お色が…。いえ…目のお色も、……」
「あれと同じか、と」
「……。…恐れながら、申し上げます。…同じでは…同じでは、ありません」
エルグニヴァルの目が細められた。「ほぉ」と感心したような溜息をもらしたのはシジルゼートだろうか。目の前の空色から視線を逸らせないハノーニアには確かめようもない。
「……分かるのか、ハノーニア。どう違う。お前にとって、わたしとあれはどう映っている」
「……閣下の、お色は…目のお色は、秋の空です。澄み渡った、高いたかい空の色。御髪の色は、色づいた葉と同じく、あたたかく、鮮やかです。
ルシフェステル准将のお色は、目は瑠璃を思わせます。御髪は、深い銀灰だと感じております。……ほんの少し、今の閣下のお色より、黒いと言いますか、暗いと言いますか…」
「つまり、似ていない…と」
「いいえッ! 滅相もございません!」
気分を害したのかとハノーニアは肝を冷やしたが、エルグニヴァルは相変わらず楽しそうな、または嬉しそうな笑みを浮かべたままだ。
そんなエルグニヴァルにそぉっと頬を撫でられて、ハノーニアは口をつぐむ。
「あれがわたしになることは、これまでに何度もあったが…そう言えば、わたしがあれになる…なろうとしたのは、初めてだったな」
「……ぁ…影武者?」
エルグニヴァルの分枝体であるというルシフェステルは、きっとそんな役目も負っているのだろう。対外的には二人の関係が異母兄弟とされ、高位者たちの間で公然の秘密となっていることも、恐らくそれに繋がっている。
(……あぁほんと、場違いだな…わたし…)
『バイカラー』ということだけが、辛うじてこの場にいる資格として数えることが出来るものだ。奥歯を噛み締める理由、引き結ばれる唇の訳は、きっと分不相応な悔しさだろう。
(……この御方の、傍に居たい…。…居てもおかしくないくらいの、肩書きが欲しい…なんて)
俯きかけたハノーニアの顔は、エルグニヴァルによって優しく正される。
「ハノーニア。どうした?」
「閣下…いえ、…。……。……微力も微力ではございますが、それでも、お役に立ちたいと…改めて思う次第であります」
「そうか…。…ならば、わたしも力を尽くさねばな」
「え…閣下が、でありますか?」
「あぁそうだとも。わたしとて、お前の役に立ちたいと思っている。
そういうものなのだろう? 家族とは」
ハノーニアは息を呑む。呑むしかない。
(あぁ、あぁ!! 私はなんてことを願ったんだろう!! なんて御方にねだってしまったんだろう!!)
呪えばいいのか、歓喜すればいいのか。それさえ分からなかったハノーニアは、引き寄せられるままにエルグニヴァルの胸元に身を寄せたのだった。