青春のりんごの味をおぼえているか_2
ハノーニアは、摘まんだサブレーを一口かじる。さくりと軽い音をたててかみ砕かれたそれは、舌の上で甘くほろりと崩れていく。ザラリと少し粒の大きい塩が程よくきいていて、絶妙な味わいをもたらした。
「おいしい?」
「うん。おいしい」
談話室でサブレーを摘まみに、ハノーニアはアンリとひと時を過ごしていた。
とある任務で長らく行方不明となっていた旧友である彼と再会して、もう数日。会えなかった時間を埋めるように、二人はこうして合間合間に談笑していた。傍らに、アンリの得意菓子であるサブレーを置いて。もっぱら、それらはハノーニアの腹に収まっている。それについて「太る」「君はもう少しくらいふっくらしたらいいよ」「…閣下に嫌われたらどうしよう」「僕が責任取るさ」なんてひと悶着があった。
「ふふ、よかった。…でも、閣下と一緒だったらもっとおいしく感じてもらえたんだろうね」
向かいに座ったアンリはとろけるような微笑みを浮かべて、ハノーニアを一瞥した。
ほんのりと頬を染めながら、ハノーニアはそっぽを向いた。さくりと、もう一口サブレーをかじり、味わい、そして呑み込んで、そっと溜息を吐く。
「…仕方ないさ。お仕事だもの。
クレヅヒェルト王国…マガドヴィウム魔導学園への壮行式も近いしな…」
ハノーニアは、自分の顔が険しくしかめられるのを止められない。口の中は甘くて幸せで満たされている筈なのにおかしいなぁと、片手で顔を覆った。
(……ゲームの、舞台…)
この世界は、ゲームではない。それでも、生前遊んだゲームの世界と瓜二つだ。
未だに思い出すことが出来るもの・事は断片的で、整理しようにも情報量としては少なく心もとない。
いっそ学園に乗り込めば、それをきっかけに記憶が戻ったりしないだろうか。そう何度も考えるが、一介の魔導歩兵であるハノーニアにはその方法を取ることは出来ない。
(…いや、出来なくは…ない。…正式な理由、公的な訳さえあれば……って、あるか!)
エルグニヴァルの御気に入りとなってはいるが、それだけだ。虎の威を借る狐にはなりたく無い。ハノーニア自身の立場や地位が、跳びぬけて高くなった訳ではないのだ。
行き詰まる思考に、ハノーニアは唸り声を漏らした。
(…こう、なんだ。こういう系の小説だと、主人公のひととかもっとパーン!って思い出してドーン!って行動出来て…大団円に向かって突っ走るんじゃなかったっけ…。…ダメじゃん、私……)
ハノーニアはついに両手でもって顔を覆う。目を閉じた暗闇の中で、ゾッとするほど表情がそげたルシフェステル――ラスボスの姿が浮かんだ。明の薄明に見つめられて、見つめ返すことが出来なくて、ハノーニアは勢いよく顔を上げた。
アンリの柔らかい緑の目と視線が合って、ほっと息が零れる。
「大丈夫? ハノン」
「…あぁ、うん…。…ちょっと、思い出して………マガドヴィウムでの、こと…」
嘘は言っていない。
アンリも頷いて、微苦笑を浮かべた。
「あぁ…。ハノンも行ってたもんね、留学」
「ほとんど義理で行かせてもらったんだよ。補欠と言うか…なんというか…」
ハノーニアは肩を竦めて首を緩く振る。次のサブレーを手に取りながら、今度は今生の思い出を覗く。
「…『バイカラー』の…宵の薄明のお披露目って感じだった。
まぁ…実際、私の実力なんて『バイカラー』の末席も末席だからね…。
…言い訳させてもらえるなら、目覚めてすぐさま“おめでとうございます。さあ行きましょう”って感じで留学勢が乗る特別列車に荷物と共にぶち込まれて、あれよあれよという間にクレヅヒェルト…だったんだ。私の混乱と絶望は計り知れなかったと結ばせてくれ」
「お疲れさま…。すっごく頑張ったんだね、ハノン…。
さ、ほら。おいしいサブレーをどうぞ。たんと召し上がれ。いっぱい作ったから。なんなら今からでも追加で作ってくるから」
「追加はいいよ。気持ちはもらっておく。ありがとう…。
……勉強というか、魔導学や魔鉱石学とか、そういうものは楽しかったな。流石世界屈指の学園だった」
紅茶で喉を潤しながら、ハノーニアは数年前の留学経験を振り返る。
「……休日に、出歩くことを許された市街地…。…右を見ても、左を見ても…私とそっくりな色がたくさんあって……はは、笑っちゃったなぁ、あれには」
ハノーニアはゆっくりと瞬きをする。ほんの少し伸びてきた白みがかった灰色の髪を指で摘まみ、力なく笑う。
向かいに座るアンリの赤混じりの金髪や緑の目も、この帝国では珍しい色だ。
そして、ハノーニアの琥珀目と灰髪もまた、帝国では珍しい。その反対に、クレヅヒェルトでは最も多い色だった。色の濃淡はあれども、実に八割近くの国民が琥珀色の目に灰髪を持つ。
自分のあだ名の一つ――『魔女の使い魔の落とし子』の由来を目の当たりにした時の筆舌にし難い気持ちは、未だ心に根を張っている。
「――きれいだよ」
遠くを見つめていた視線を今へ――目の前のアンリへ合わせれば、真剣な表情をした彼と向き合うことになった。
「君は…きれいだ。とっても。
その陽だまりを形にしたような目も、処女雪みたいにさらさらとした髪も、全部、ぜんぶ…。
きれいだよ、ハノーニア」
「………うん、ありがとう」
ハノーニアはいつの間にか詰まっていた息をそっと吐いた。ほどけたその唇に、柔らかい笑みが浮かぶ。
「君が生きやすいところで、生きたらいいんだ。帝国でも、クレヅヒェルト王国でも…その他にだって国はあるしね」
「は…はははっ。…それは、夢かもね…。うん、悪くない夢…。
…まぁ、やっちゃいけないことだけど…」
「軍人だから?」
「軍人だからね」
ハノーニアは肩を竦めてアンリに答えた。
「確かに。
…でも、それだけ?」
煌く緑の目に見つめられて、ハノーニアはやや間を置いて笑った。
「あ、ははッ。…はは、あー…流石アンリ。
………そうだね。もう一個…いや、もしかしたら、もっと増えるかも…」
「ふふ…何かは、教えてくれないんだ」
「知ってそうだもん、もう既に…。私顔に出やすいし、腹芸なんて出来ないし」
「訓練すればすぐだよ」
「えぇぇ…。…遠慮、しておく…ひとまず」
「うん。必要になったら言ってね」
「うん…。…そうならないのが、一番だけど…」
「ふふ…うん、そうだね」
二人揃って、顔に微苦笑が浮かんだ。
丁度その時、扉がとんとんとんと軽く打たれた。
「閣下がおかえりになられました」
「「はい」」
侍女の言葉に頷いて、ハノーニアとアンリは立ち上がり一緒に談話室を出る。
案内役の侍女の後ろを歩きながら、ハノーニアは半歩ほど距離を空けて右隣りを行くアンリを伺い見た。正確には、彼の左手――その欠けてしまった薬指を。そのほかの傷諸共隠すために、今は清潔な白手袋で包まれている手を、どうしても目で追ってしまう。
「……ごめんね」
「えっ」
「…気持ち…悪いよね。やっぱり…」
より隠すように、左手は右手で覆われてしまった。胸の前で重ねられた手は、なんだか祈っているにも見えて。ハノーニアは、自分の手を重ねた。
「ハノー…ニア」
「私こそ、ごめん。…不躾だった。ごめんなさい」
「…ううん。……ふふッ」
「アンリ?」
柔らかい声に見上げれば、声同様に柔らかい緑の眼差しがあった。
「ふふ、うん…不思議だ…。…幻肢痛って言うんだっけ。それが、あってね。でも、もうきっと、その痛みで呻くことはないかもしれないって」
「なん…で?」
「決まってるよ。他ならない君が、今こうして手当てをしてくれたんだから」
止まっていた足を先に動かしたアンリに手を引かれる形で、ハノーニアは歩みを再開する。数歩先で待っていた侍女にはすぐ追い付いた。
いつの間にか繋がれていた手の大きさや、空いてしまった指一本分の隙間を改めて感じて、ハノーニアは此処が今生きている世界だと奥歯を噛み締める。
「……いつだって、手当てするさ。これからは近くにいることが出来るんだから」
「うん」
笑顔で頷くアンリがエルグニヴァルの配下となっていることは、ハノーニアにも知らされている。「君専属の菓子職人だよ」なんて朗らかに言った彼の目の前で、思わず泣いてしまった。数日前のあの時、零れた涙が嬉しさからだったのかそれとも違う理由からだったのか。きっとずっと分からないんだろうなと、ハノーニアは笑ってその思いを呑み込んだ。
玄関ホールの数メートル手前で、手は自然と放れた。
「閣下!」
はしたないと言われそうだが、この場でハノーニアを叱るものはいない。甘く柔らかい限られた世界の中を駆け寄り、エルグニヴァルが広げた両手の中へ飛び込んだ。
「おかえりなさいませ、閣下」
「あぁ、いま帰った。すまぬ、遅くなったな…」
「よいのです。閣下こそ、お勤めお疲れさまです」
「ありがとう。お前に会って、疲れも何もかも吹き飛んだ」
澄み渡った秋空の眼差しで穏やかに見下ろされ、ハノーニアも微笑む。
「私もです。さみしさも何もかも吹き飛んでいきました」
「! そうか…ふ、ははは! そうか!!」
声を上げて笑うエルグニヴァルにひょいと抱き上げられて、ハノーニアは出かかった悲鳴を呑み込んだ。
しがみつくと同時に、彼の耳に唇を寄せて囁く。
「ありがとうございます、閣下。私の友人を…私の世界を、守ってくださって…」
エルグニヴァルはハノーニアと視線を合わせて微笑んだ。鼻と鼻が触れ合う距離で、彼は躊躇うことなく言ったのだ。
「お前の世界ならば、何度だって守ってみせる。何度だって救ってみせよう。
わたしは、お前を愛しているのだから」