青春のりんごの味をおぼえているか
食べ物の怨みは恐ろしいと言います。ならば、食べ物の奇跡もすごいといい、なんて。
職場復帰を果たして早数日。ハノーニアは今日もつつがなく職務を果たしている。
総統府宛ての書簡等に不審物が混ざってないか確認し、仕分けながら(平和だな)と思った。
(いいことだ。例え仮初だとしても…力と恐怖の均衡で震えながらの平和だとしても、それを悪い事だと断じることは、出来ない)
前世の記憶をより鮮明に思い出すようになって、一層感じることだった。軍人として前線に放り込まれた経験もあるからだろう。
(……本当に。ほんっとーに、よく生きてるな私…)
心の底からそう思う。確認作業の手は止めていないが、顔には出ていたらしい。
「中尉、何か異常でもありましたか?」
「あぁいや。ない。…すまないシュッツエ准尉、顔に出ていたか?」
「険しいと言いますか、難しい表情に見えましたので」
隣で同じく作業に当たっていたシュッツエ准尉に、ハノーニアは片手で口元を揉み解しながら苦笑した。
「いや、恥ずかしいな。やはり私に腹芸なんぞは無理のようだ。しないに越したこともないと思うが…。
…なに、平穏無事であることを噛み締めていただけだ」
「…えぇ。ご無事でなによりです、中尉」
「ありがとう。准尉に…貴方にそう言ってもらえるのは、何度だって嬉しい」
ハノーニアが微苦笑を浮かべれば、准尉もまた微苦笑を返して来た。
年齢と経験を重ね、出会った当初伍長だった彼とこの総統府で再会した時は、思わず目を見張ってしまった。
「あなたには、シュッツエ准尉には世話になりっぱなしだ。いつかおいしい食事でも、と思うが…生憎この首都には今まで縁がなくて。只今猛勉強中だ。いっそ、准尉のおススメを聞いた方が的確だろうな…」
「ははは。小官もまだまです。…それに、中尉とのお食事は是非ともご一緒したいのですが…。…申し訳ございません、小官、まだ命が惜しいので」
「あぁ」
微苦笑を深くし声を潜めて答えたシュッツエに、ハノーニアは肩を竦める。
彼もまた、エルグニヴァルの息がかかった軍人の一人だった。シュッツエが一体いつからそうなのかは勿論知らない。きっと今後も知ることはないだろう。ただ、訓練兵の頃から何かと面倒を見てくれていた理由に、ほんの少しで良いから彼自身の気持ちがあってほしいなとは思ってしまう。それが、哀れみでも親切心でもいいから。
「……おちおち一人で出歩けもしないな」
どこで誰が見ているか、聞いているか分かったもんじゃない。
軍の最高官職は、勿論エルグニヴァルである。であるから、そっくりそのまま全軍人が彼の影響下にあるのは間違いない。しかし、腹の中までもそうかと問われれば、お茶を濁すしかない。国土が大きい帝国は、当然内包する組織だって巨大になる。メッキだろうがなんだろうが、末永く一枚岩でいてほしいと願うばかりだ。
故に、ハノーニアはより一層自分の言動に注意を払うようになった。公言はされるはずもないが、自分をエルグニヴァルが御気に入りとしていることを知っているものは少なくないようで。その人物たちが敵か味方かなんて、ハノーニアには区別がつかない。
だから、職場と家の往復で一日が終わっていく。君子ですら危うきには近寄らない。凡人の自分なんて、なおさらである。
「逢引にでも行ってらしたらよいのでは? 閣下もお喜びになられると思いますよ」
「ぶッ!」
ハノーニアは盛大にむせた。手にしていた書簡から背けた顔を恐る恐る戻せば、目が合ったシュッツエはいたって普通の表情で首を傾げて見せる。
「中尉?」
「…いや、なんでも…。…そう、だな…。…閣下が、お喜びになられる可能性が欠片でもあるのならば、うん…。…だが、閣下もお忙しい方だ。お時間に余白が出来たのであれば、少しでもお体を休めてほしいと思う」
「シジルゼート少将とはお会いになっているのにですか?」
「んっぐ!?」
吸った息がおかしなところに詰まった気がして、ハノーニアは口元を押さえる。
随分と歳上の――エルグニヴァルよりも歳を重ねたシュッツエの顔が、恐ろしくて見ることが出来ない。いっそ諜報員ですと言われた方がしっくりくる。まぁより一層恐ろしいので口にはしない。沈黙は金だとどこかで聞いた。
「准尉。それは私がノイゼンヴェール中尉に命を救われたからにほかならない」
そんな金の沈黙を破ったのは、ひょっこり現れたシジルゼートだった。彼の登場を神の助けと見るか、火に油とするかは、時と場合による。
「存じております、少将。貴方がまた、閣下のお怒りを大量に買い込んだことも」
「はは、流石だなシュッツエ准尉。そうともそうとも。お陰で暮らしはカツカツで、針の筵に座る気分だ」
「……そうおっしゃる割には、相も変わらず朗らかなお顔でいらっしゃる。成程、鉄面皮はご健在で」
「あぁそうだとも。
貴様こそ、歳の割には耳も目もまだまだ良いようだ」
「お陰様で」
楽しそうな笑みを浮かべたシジルゼートと、怒っているわけではないが当然ニコリともしないシュッツエ。ベテラン軍人に挟まれるハノーニアは、自分こそが針の筵状態だと叫びたい気持ちでいっぱいになる。
「あぁ、そうだ。ノイゼンヴェール中尉、ほら。受け取りたまえ。
先日の『暴漢』相手の活躍、見事だったと聞いている。これでも食べて、負傷した背中を早く治したまえよ」
「あ、え…あぁ、ありがとうございます…」
「ではな。今日も一日、職務に励もうではないか諸君!」
ウインクが極めて似あう中年男性とは、これいかに。
(…それも、乙女ゲームの世だから…なんだろうか)
颯爽と去って行くシジルゼートを半ば呆然としつつ見送って、ハノーニアは渡されるがまま受け取った紙袋を見下ろす。それは、未だ帝都に馴染みが薄いハノーニアでも知っている有名な菓子店のものだった。覗き込んだ拍子に、中の箱から焼き菓子の香ばしくて甘い匂いがふわりとのぼってくる。
「…まめというか、律義な御方だな…」
ハノーニアはついつい苦笑する。
シジルゼートから焼き菓子の詰め合わせを贈られるのは、これが初めてではない。
暴漢――シジルゼート本人との組手を終えたその日の夜に、彼は大箱を抱えてエルグニヴァルの屋敷を尋ねてきた。
「まさかこんなに早く…いえ、というか、叶えていただけるとは思ってもみませんでした」
「むしろ、この約束のお陰で命を拾っていますからね。毎日お届けにあがりますよ」
「去れ。来るな」
「閣下がそうおっしゃるのであれば、職場でお渡しするとしましょう。ノイゼンヴェール中尉と、二人っきりで…」
「ほう。菓子だけでなく命すらおいていくか。よいだろう」
「よくありません閣下!」
そんなおっかないやり取りを経て、菓子の贈り物は続いていた。こっそりと机の引き出しや外套のポケットの中に忍ばせてある時もあれば、今のように何かと理由を付けて大胆に渡してくることもある。
公衆の面前で贈られた時は、ハノーニアはその菓子を数少ない同性軍人にこっそり分配することにしている。袖の下ということなかれ。女は幾つになっても女である。味方は多いに越したことはないのだ。
丁度、最後の書簡の確認も終わった。本日も異常はない。各部署へ仕分けした箱を抱えたところで、ハノーニアはシュッツエから声をかけられる。
「ノイゼンヴェール中尉。その焼き菓子、あらためますか?」
至極真面目な顔つきで問うてきたシュッツエに、ハノーニアは我ながら品がないと思いつつもその場で焼き菓子の箱を開け、一番美しいきつね色をしたものを一つ手渡した。
「シュッツエ准尉。これであなたも共犯だ」
「毒見役、しかと承りました」
(うん違う、そうじゃない。そうじゃないんだよ)
ただ純粋に、おいしいものは親しい人と分け合って食べたい。なんていう気持ちは、なかなかどうして伝わらない。
ハノーニアはちょっぴり苦く笑いながら、集配箱を抱え直した。
***
「おかえりなさいませ、ノイゼンヴェール様」
「…た、ただいま、帰りました…」
慣れない事務仕事を先輩たちの指導と助けによって乗り越えて、ハノーニアは定時を少し過ぎてエルグニヴァルの屋敷へと帰宅した。
「閣下ももう少しでお着きになられると、先ほど連絡がありました」
総統であるエルグニヴァルは、官邸が住まいである。しかしハノーニアが私邸の一つであるこの屋敷で療養することになってからは、もっぱらここで寝食を済ませているようだった。朝食を共にすることはなかなか難しいが、その代わりなのだろうか、夕食やその後の時間は是非とも一緒に過ごしたいとエルグニヴァル直々にお願いされた時は、嬉しさと恐れ多さでどうにかなりそうだった。
その気持ちは、今も健在だ。
「どうか夕食を共に、とご伝言にありました」
「勿論です。小官…いえ、私こそ。閣下とお時間を共にできるのなら喜んで」
微笑んで頷き、さがっていく執事と別れ、ハノーニアは自室となった部屋へと足を運ぶ。控えてくれていた侍女に外套を預け、鏡台に向かう。その台上に用意された化粧品の類は、きっと前世よりも多いかもしれない。とんだ宝の持ち腐れで申し訳なく思っているので、目下侍女に師事して此方も勉強中だ。何から何まで頼って、本当に頭が上がらない。
「いつもありがとうございます」
「ふふ、いいえ。わたくしに出来ることはこれくらいですので。いつでも、どうぞ何なりとお申し付けください」
「はい、頼りにしています」
私服であるワンピースのロングスカートに着替え、化粧を軽く整えたところで丁度エルグニヴァルの帰宅が知らされた。
ハノーニアが玄関ホールへ出迎えに行けば、外套を執事に脱がされるエルグニヴァルと目が合う。
「今帰った、ハノーニア」
「おかえりなさいませ、エルグニヴァル閣下」
緊張と嬉しさが同居する胸が苦しい。それでも、エルグニヴァルが秋空の目をそっと柔らかく細めてくれるので、ハノーニアも釣られるようにして微笑みが浮かぶ。
疑似的だろうが仮初だろうが、今この時感じる多幸感は決してまがい物ではない。
「お疲れ様です。閣下」
「お前こそ。体は大事ないか? シジルゼートのやつが鬱陶しくはないか? 今日も今日とてお前にちょっかいをかけていたと聞いたが…」
「気にかけていただきありがとうございます。嬉しい限りです、閣下。シジルゼート少将のことも、はい、大丈夫です。約束をきちんと守ってくださっているだけです。
今日のお菓子も大変美味しく頂きました。良ければ、閣下もお一ついかがでしょう」
「あぁ、貰おう。あれが選んだものではあるが、お前が好むものであるのなら、不思議と興味関心が湧く。
恋や愛というものは、誠に複雑怪奇なものだ。あぁ嫌ではないな」
「そ、そうでございますね」
照れと、別の何かから生まれる微苦笑を浮かべながら、ハノーニアは身軽になったエルグニヴァルと連れ立って食堂へ向かう。
「あぁ、そうだ。ハノーニア。
わたしからも、お前に菓子を一つ」
「閣下からも、ですか?」
「あぁ。あれにばかりいい格好をされるのは我慢ならなくなった。
気に入ると良いのだが…。…食後を楽しみにしていてくれるか?」
「はい。勿論です」
執事によって開かれる扉をくぐった先の食堂は、やはり広く豪奢だ。慣れる日がくるのだろうかと、ハノーニアは眩しさにそっと目を細める。
食事をはじめとする貴族のマナーなんて知っている筈もないハノーニアは、主人であるエルグニヴァルの「いつも通りでよい」という一言でもって、庶民の生活様式を続けている。とは言え、学校で最低限のルールは学んだ。下地のしの字くらいは幸いあったので、これもまたエルグニヴァルや侍女、執事たちに教わって勉強中だ。一朝一夕で身に付くものではないし、実を結ぶことなく終わりが来るかもしれない。それでも無駄ではないと思って、ハノーニアは今夜も少しばかり格式張った食事に臨んだ。
「――ごちそうさまでした。今日のお食事も、やっぱりおいしかったです」
向かいの席からエルグニヴァルに見守られつつ、ゆっくりと食事を終える。部屋の端に待機していた料理長へ会釈をすれば、彼からも深くお辞儀を返された。
「お褒めの言葉、ありがとうございます。閣下とノイゼンヴェール様のため、今後とも、腕によりをかけてお作りいたします」
「ありがとうございます。…ふふ、どんどん舌が肥えていってしまいます。これでは、此処でのお料理以外喉を通らなくなる日も近い気がします」
「あぁそれはいい。お前はずっとここにいるのだから」
ドキリとしてエルグニヴァルを見れば、彼もまたしっかりとハノーニアを見つめていた。
「…閣下」
ハノーニアの呼びかけに、エルグニヴァルはふっと笑みを浮かべる。そして席を立った彼は、ハノーニアの手を取ると移動を提案した。
「さて、ハノーニア。わたしからの菓子を受け取ってくれるかな?」
夕食には勿論デザートも付いていた。ハノーニアは勿論、エルグニヴァルもそれらすべてをぺろりと平らげている。
「…甘いものは別腹、というのだろう?」
効果覿面の呪文を耳元で囁かれて、ハノーニアは思わず笑ってしまう。
色気より食い気だ。しかしほんの少しだけ残っている恥じらいでもって咳払いをしつつ、ハノーニアは頷いてみせる。
「はい閣下。まさにその通りです」
ハノーニアとエルグニヴァルは、揃って歩き出す。本来なら腕を組むのだろうが、一度やってみたところ両者ともに「心臓がもたない」という結論に至ったので、今はまだ手を繋ぐことから慣らしている。なんと初々しく清い仲なのだろう。
着いた先は談話室だった。ソファに腰を下ろしたところで、隣に座ったエルグニヴァルに微笑まれた。
「ご機嫌ですね、閣下」
「あぁ。お前がいるからな。…だが、いくばくかの不安もある…。…お前を想って見繕ったが、果たして気に入ってもらえるかどうか…」
エルグニヴァルはほんの少し躊躇うように目をつむり、そして開いた空色の目でもって今しがた入ってきた扉を見る。彼が呼び鈴を鳴らしてすぐに、ワゴンを押した侍女がやって来た。
お茶と共に出された銀盆に行儀よく並べられていたのは、端がこんがりと焼かれたクッキーだ。バターのいい匂いが鼻から入って、神経を柔らかくくすぐる。
「いい匂いですね」
「そうか。良かった。念のため、毒見は済ませてある。遠慮せず、…あぁいや。ここはわたし手ずから食べさせても良いのだろうか?」
「んえッ」
クッキーからエルグニヴァルへと勢いよく顔を向けたハノーニアは、澄み渡った秋空の目と見つめ合ってしまう。しばしの葛藤を終えて、ええいままよ!と体をエルグニヴァルへ向けた。
「良いのか?」
「か、閣下が、お望みとあらばッ」
上擦った声を上げてしまったが、大目に見てほしいとハノーニアは誰にともなく心の中で言い訳をした。今生はもとより、前世でも家族以外から俗に言う「あーん」なんてものをされた思い出はないのだ。耐性のなさなど、火を見るよりも明らかだろう。
エルグニヴァルの指が、クッキーの一枚を摘まむ。そろりそろりと口元へ寄せられて、大人しく香ばしい匂いに集中すればいいものを、ハノーニアはエルグニヴァルの目を見つめた。
「っ」
ぱちりと合った視線に、呑み込まれた息はどちらのものだっただろう。
つんとクッキーで優しく唇をつつかれて、ハノーニアは今度こそ大人しくそれに集中した。前歯で噛めば、さくっとした口当たりを感じる。広がる砂糖の柔らかい甘さの中に、時々感じる塩味が堪らなく好みだ。
「……どうだろうか、ハノーニア」
「…おいしいです、閣下。とてもおいしい、クッキー…いえ、サブレー、ですかね…」
一口目を大事に咀嚼して、ハノーニアはエルグニヴァルに答えた。
そう、サブレーだ。クッキーの中でも、さくっとした口触りのこれは、きっとサブレーだろう。ハノーニアは口元に手を当てて、考える。思い出そうと記憶を漁る。前世のではない。今の生での、なけなしの平穏の中――。
「――…アンリ?」
「…く、ふふふ…はははははは!」
「!?」
ポロリと零れた名前に驚く間もなく、エルグニヴァルから上がった突然の笑い声にハノーニアは目を見開いた。
次の瞬間には、琥珀色の目に握りつぶされたサブレーが映し出される。
「か、閣下!?」
「あぁ、あぁ成程な…これか。これが恋か。患うとはよく言ったものだ。くく、ははは!」
粉々にしたサブレーを、控えていた執事が差し出した皿に捨てたエルグニヴァルは、ナプキンで手を拭うと、ハノーニアに向かって笑って見せる。秋の空はいつの間にか夜明けの色を呈していて、息を呑んだハノーニアの目も釣られるように日暮れの薄明かりとなる。
「ハノーニア」
「は、い。閣下」
「今呟いた者は、さて…どこの誰だ」
「……アンリは…彼は…、…少し年上の、同期でした…幼年学校の、同期でした」
「あぁ。今は、どうしている?」
「今、今は……彼は……数年前に、とある、任務で……。……消息、不明と、聞いております…」
「そうか。それで…今、菓子を口にして、何故その男の名前が出てきたのだ? なにを、思い出したのだ?
ハノーニア。教えてくれ、お前のことを。お前の思い出を、どうかわたしにも分けておくれ」
エルグニヴァルの明けの薄明に見つめられて、ハノーニアは一度ぎゅうッと目をつむる。一緒に唇も引き結ばれて、一見噛んでいるようにも見えるそれを、エルグニヴァルの指がそぉっと撫でた。
「…閣下…。
彼は……彼は、とても器用で…。それで、よく、お菓子を、作ってくれたんです…。そんな彼が、一番よく作ってくれたのが…サブレーでした」
ハノーニアは深呼吸して、エルグニヴァルを見つめ返す。
「………この、サブレーでした。こんな味でした。こんな口触りでした…。
…閣下。ッ、閣下。彼…なんですか? これを作ったのは、アンリなのですか? 生きて…いるの、ですか?」
そんな馬鹿なことがある訳ない。そんな奇跡が起こるものか。そう吐き捨てる自分がいる。しかし、ハノーニアは尋ねずにはいられなかった。
笑ったエルグニヴァルは大きく肩を竦めて、手を一つ叩いた。
パンという軽い音が響いて、廊下に繋がる扉が開かれる。そこには、胸に手を当てて深く頭を下げる一人の青年が立っていた。
「面を上げよ」
「はッ」
エルグニヴァルの許しが出て、青年の上体が起こされる。拍子に赤みがかった金髪が揺れる。正面からその顔を見れば、深緑を思わせる目がほころんだ。
「……アンリ?」
「うん」
「…アンリ・ロンシャール?」
「うん」
「……サブレーの塩は?」
「ふふ…。…分量外に、おまけで一つまみ」
名前も、癖も、調べようと思えば調べることが出来る。髪や目の色だって、変えようと思えば変えることが出来る。
ただ、魔力はそうはいかない。魔力を変えることは、出来ない。そう言われている。
だから、ハノーニアは信じたかった。もう何年も感じることはなかった魔力を、匂いに似た感覚でとらえながら、視線をエルグニヴァルへと移す。
エルグニヴァルは、じっとハノーニアを見ていた。
「…あの男は…彼は、アンリ・ロンシャールですか。閣下」
「あぁ」
エルグニヴァルが口元に笑みを浮かべて首肯した。
「アンリ・ロンシャールで間違いない。見つけて手元に持ってくるまではさほど時間はかからなかった…が。…手が、なぁ…」
「…て……手…。…アンリ?」
ハノーニアの呼びかけに、ロンシャールは苦く笑いながら応えた。
ゆっくりと持ち上げられ胸の前に晒された彼の両手は、ひどい有様だった。火傷らしき痕は、魔力でだろうか、薬品でだろうか。左の薬指を根こそぎ奪っていったのは、どこのどいつだろうか。
視界も思考も真っ赤に染まりかけるのを、ハノーニアは奥歯を噛み締めて耐えた。
「ハノーニア」
「……か、っか…」
呼ばれて抱き寄せられ、ハノーニアはエルグニヴァルの胸に顔をうずめる。
「わたしからの菓子は、贈り物は…気に入ってもらえただろうか? 喜んでもらえただろうか?」
耳元で穏やかに囁かれて、ハノーニアの答えは決まっている。
「はい…はい、閣下。嬉しいです、とっても、とっても!」
言葉に嘘なんてない。しかし、苦いものは混じってしまったらしくて。頬を伝っているのは嬉し涙のはずだのに、口の端から中に入ってきたそれは幾らかしょっぱく感じた。