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夢の寿命の限りまで  作者: 真神
第一部
11/50

烏神の御気に入り

※近接格闘戦は雰囲気だけでもお楽しみいただければ幸いです


 久しぶりに袖を通す軍服は、やはり気が引き締まる思いだ。

 襟のボタンを留めて、ハノーニアは姿見に映る自分を見る。

 短くなった髪は、改めて毛先を中心に整えてもらった。頬や額に残る発赤は、もう隠しようがない。傷も、いくつか痕が残ってしまった。加えて言えば、服で覆い隠すことが出来る胴体などには、まだもう少しだけ保護のガーゼや包帯が残っている。

 それでもいい。それでいいとさえ、思う。間違っても、深窓の佳人ではない。生まれ変わったとしても、なれはしないだろう。


「……私は、軍人だよ。ね、ハノーニア」


 鏡越しの自分へ語り長けることは危険だったけ、なんて。またもや前世の記憶の欠片が流れ星のように流れては消える。わらって、ハノーニアは鏡に背を向けた。

 見渡す部屋は、この療養期間でだいぶ様変わりした。元からあった調度品の隙間に、ハノーニアの持ち物たちが収まっている。どれもこれも肩身が狭そうに見えて、持ち物も持ち主に似るんだろうと、これまた微苦笑がこみ上げる。官舎の自室はいつの間にか引き払われ、全財産はきれいにこの部屋へ移し替えられた。言葉でも待遇でも、全てでもって「帰る場所は此処だ」と示されて、ハノーニアはそれを甘受する。

 お返しに、しかし可愛く鳴くことは出来そうにないので、せめて元気に務めを果たそうと思う。


「……いってきます」


 主に侍女が静かに開閉してくれている扉は、流石と言うか、自分でやっても音一つ立てなかった。


 ***


 ――青々と茂る芝生を踏みしめて、ハノーニアは思う。


(……なんで、私こうしてるんだろう)


 心底思った。思いながら、数メートル距離をあけて向かいに立つ人物から目を離さない。

 対峙する男から柔らかく微笑みを貰ったが、ハノーニアに微笑み返す余裕など欠片もない。踵を返してすぐさまこの場から去りたい気持ちを、震えそうになる体共々制しながら、今に至る経緯を整理する。一生懸命反芻する。

 午前、エルグニヴァルの屋敷から総統府へ出向き、復帰を祝う言葉を賜り、昇任を拝した。晴れて、ハノーニアは総統府付き護衛官の一人として、中尉の地位に就いた。公的な場であるから、流石のエルグニヴァルも屋敷でのような振る舞い――ハノーニアを足の上に抱き抱え、手や頬、痕になってしまった傷を撫でる等――はしなかった。いつだったか「閣下は分別のある御方です。流石に公的な場では…」と苦笑いしたハノーニアに、真剣過ぎる顔で「おれ様何様怪物様だぞ、奴は」と返したのはルシフェステルだ。そんな彼が参列者の中からこれでもかとエルグニヴァルを睨み付け見張っていたことも、効いたのかもしれない。

 そうしてつつがなく式は終わり、引継ぎのためにハノーニアは先輩たちについて総統府の中を歩いた。護衛と言えども、平時は事務仕事だってある。覚えることは沢山あるなぁと引き締めた外身の内、心の中では不安を噛み締めたハノーニアは、幾らかの休憩を言い渡された。専用の食堂、その隅で窓の外を眺めながら軽食を済ませる。


(……閣下のお屋敷で頂いたものの方がおいしい…。……いや! なに慣れてんだ私!!)


 ハッとして、叫びそうになるのを唇をきゅっと結ぶことでなんとかやり過ごす。そして、この癖をエルグニヴァルやルシフェステルの前でうっかりやると、決まって彼らに指でもって唇を押さえられることを思い出して、赤面した。


「………だめかもしれない」

「――おや、それは大変だ」

「!」


 顔を覆って独り言ちたハノーニアは、まさか応答が聞こえるとは思ってもみなかったので、飛び上がらんばかりの勢いで姿勢を正した。


「シ、シジルゼート少将!」

「あぁいい、そのままで。

 相席しても?」

「勿論であります」

「ありがとう。

 それで、お加減はいかがですかな?」

「ッ…シジルゼート少将?」


 シジルゼートはこの総統府での直属の上司となる。そんな彼からこんな言葉遣いで対応される理由など、ハノーニアにはない。ないが、思い当たることは一つある。

 ハノーニアが「まさか」と目を見張ったことを認め、シジルゼートがニコリと笑った。人好きのする表情だが、今のハノーニアには息を呑むものでしかない。勿論、ときめきではなく恐怖に似た理由で、だ。


「エルグニヴァル閣下のいとし子に何かあっては一大事ですからな」

「、」


 そっと身を乗り出し、シジルゼートは耳元でそう囁いた。エルグニヴァルとはまた違った低く落ち着いた声が耳朶を震わせる。甘い声音に、しかしハノーニアは恐ろしさで身を震わせた。

 食堂には、謀ったかのように二人っきりだ。広い部屋に、笑いを含んだ柔らかい声がひそやかに響く。


「ご安心ください。小官も閣下の一派、その忠実なしもべの一人でありますので。本来ならご挨拶に伺いたかったのですが…閣下のお許しがでず…。申し訳ございません、ノイゼンヴェール様。どうか以後お見知りおきを。

 あぁそう、職務中はきちんと貴女をいち護衛官、いち中尉として扱いしごきますので。そちらもご安心ください。公私混同は示しがつきませんし、何より貴女に嫌われたくありませんからね。ルシフェステル様からも仰せつかっております」

「たい、さ…からも?」


 一瞬、自分も様付けで呼ぶべきかと思ったが、シジルゼートが何も言わなかったので、ハノーニアもそのままにした。


「えぇ。それはもうきつく、ね」

「は…はぁ…そうで、ありますか…」


 背筋をピンと張りながら、ハノーニアはそう答えるので精一杯だ。変わらず甘く柔らかく微笑んでいるシジルゼートを見つめながら、ハニートラップとはこういう雰囲気なんだろうかと思考を横に飛ばした。


「時に、ノイゼンヴェール様。一つ、小官と遊んでいただけませんでしょうか?」

「は…え?」


 様付けされたことを訂正するのが先か、それとも遊びについて問うのが先か。ハノーニアが迷った隙に、シジルゼートは続きを口にする。


「なに、簡単です。軽く組手に付き合っていただきたい。それだけですよ」


 いたずらっ子のように楽しげな笑みを浮かべたシジルゼートに手を取られ、ハノーニアはあれよあれよという間に広い中庭の一つに連れてこられた。


(…前世で言うところ、体育館裏来いやオルァってやつですかそうですか)


 対峙するシジルゼートはご機嫌そのもので、鼻歌らしきものまで聞こえる。ハノーニアは四角く切り取られた中庭の空を仰いだ。


(…そりゃ、そうか…。…いくら『バイカラー』の囲い込みとは言え、敬愛してやまない御方がこんなぽっと出の小娘…、いや、初見では性別不明とか言われる一兵士をお気に入りだなんて言うのは、いくら歴戦の猛者であるシジルゼート少将と言えども面白くない…)


 シジルゼートの働きに見合う噂は知っている。高魔力保有者を多く輩出してきたシジルゼート家の生まれである彼は、まさに一騎当千だ。しかし、実家とは魔力適性についての事柄で折り合いが良くないとも聞いたことがある。曰く、『バイカラー』のなり損ないだとか。口さがない輩が口走ったのを、ハノーニアも『偶然』聞いたことがある。


(…『バイカラー』は、私だけじゃない。でも…お気に入りとして囲うのは、飼っているのは、ひとまず今は、私だけ…)


 重く圧し掛かる畏怖の中に嬉しさが混じっていて、ハノーニアは自嘲するしかない。


「ノイゼンヴェール様」

「…はい、シジルゼート少将」

「どうか、私的な場ではシジルゼートと。いえ、シジルゼートも幾人かいますから是非とも名前で呼んでいただきたく思います」


 答えに窮し唇を引き結んだハノーニアを見て、シジルゼートはまた楽しそうに笑う。


「あぁですが…それでは閣下のお怒りを買ってしまいますね。

 …では、こうしませんか? この組手で、私の帽子を落とせばノイゼンヴェール様の勝ち。願いごとがありましたら、どうぞ何なりとお申し付けください。叶えるため、命も惜しみません。代わりに、最後まで帽子を守り通せば、私の勝ち。どうか一度で構いませんので、名前を呼んでいただきたく思います」

「……少将、お言葉ですが…。…ご命令いただければ、すぐにでもお呼びいたします」


 ハノーニアは硬い表情で答えた。それに対して、シジルゼートは肩を竦めて首を振る。


「それではいけません。ここは命令ではなく、お願いを聞いていただくことに意味があります。どうか、男心を酌んでください」

「…申し訳ございません。短慮をお許しください」


 「いいえ」と微苦笑を浮かべたシジルゼートは、制帽を目深に被り直した。

 真意はやはり読み取れない。ただの気まぐれなのか、見極めなのか、ハノーニアには判断が付かない。ただ逃げることが出来ないことは、分かる。制帽のつばの下、その影の中から美しい緑青の目が、獰猛に此方を見つめている。視線は合ってしまっている。逸らせば、喉笛を食いちぎられる。そう思うくらいの威圧感を感じて、ハノーニアは深呼吸をする。

 空が暮れるように『バイカラー』へと変わっていく琥珀の目を見て、シジルゼートは口笛を吹いた。


「あぁやはり、美しい。成程、噂以上だ。閣下のいとし子となられるのも頷ける」

「お褒めに預かり光栄です」

「ふふ、しかし初めから『バイカラー』ですか…。私も偉くなったものです」

「御冗談を、少将。小官では『バイカラー』であっても、それこそ帽子の端にすら掠りませんよ」

「ははは。それこそ、お上手ですねノイゼンヴェール様。

 ……さぁさて。はじめましょう。でないと、怒れる閣下が来てしまいます。折角貴女と語らう時間を捻出したのに」

(拳で語らう時間…わあ素敵)


 素敵すぎて泣きそうだと、ハノーニアは両の拳を握って構える。

 男性平均と同等の身長を持つハノーニアだが、シジルゼートは当然というかそれよりも体格がいい。経験値なんて、比べるまでもなく彼が何倍も何十倍も上だ。

 ハノーニアに出来ることと言えば、いかに受け身を上手く取り、地べたに這いつくばることぐらい。もしくは、シジルゼートが言う『怒れるエルグニヴァル』の一秒でも早い到着を願うことくらいだろうか。


(…はは、ある訳ない。たかが飼い狗の一匹。多少毛色が珍しいだけ。たかが宝石の一つ。世の中にはもっと大きくてきれいなのがいっぱいある)


 ハノーニアは内心でわらい、瞬きの後シジルゼートに一つ問うた。


「少将。せめてもの情けで、初手はいただけますでしょうか」

「それは私の台詞だと思います。…が、分かりました。お譲りしましょう」

「…ありがとうございます。……では――」


 深く息を吸い込んで、ハノーニアは地面を蹴る。千切れた芝生が風で舞った。

 馬鹿正直に懐目掛けて飛び込んで、救い上げるように繰り出したハノーニアの拳は、いとも簡単に避けられる。唸りを上げて振り込まれた蹴りを魔力強化した腕で受けつつ、ハノーニアはそのまま横へと飛ばされる。

 受け身を取って芝生の上を転がれば、一瞬前に居た場所へ追撃の拳が突き刺さっていて、しかし顔を青くしている暇もない。後転倒立の要領で跳ね起きて、迫って来ていた太く逞しい腕に両手を乗せる。


「ッ!」

「おっと!」


 魔力で上げた筋力でもって地面を蹴り、シジルゼートの腕を起点として側転する。下手な平均台よりも安定感があるなんて、おかしな感心が頭を過ってすぐ消える。飛び越えざまに口でもって帽子の角をとらえようとしたが、おしい所で避けられる。

 芝生の上を少し滑りながら体勢を整えて振り向けば、ずれた制帽を直すシジルゼートと目が合った。


「いやはや、危ない危ない! まさか唇で奪いに来るとは!」

「申し訳ございません。生憎、上品な性質ではありませんので」

「いいえ。…くくッ、まさか帽子に嫉妬を覚える日が来るとは! あぁおしい、おしいことをした。どうです? 今からでも判定を変えさせてはくれませんか? 例えば、奪うのは帽子ではなく私の唇…なんて」


 軍なんて、パワハラやセクハラに始まり、あらゆるハラスメントをごった煮したような場所だ。前世の記憶を思い出してもその点で発狂しなかったのは、幸か不幸か『そういうものだ』と呑み込むことが出来たからだろう。言い換えれば、諦めたともいえる。

 だからハノーニアは、にこやかに笑いながら自分の唇を指さすイケオジ少将に向かって言ってやるのだ。


「御冗談を!」

「おや残念!」


 吠えて跳びかかるハノーニアを、シジルゼートは相変わらず楽しげな笑みでもって迎える。

 伸ばした片手首をグッと掴まれたハノーニアは、すかさず腕を捻って拘束を外す。これでもくらえと米神を狙って繰り出した回し蹴りは、やはり受け止められた。


「くッ! そッ!」

「ははは! 人間らしい言葉が出ましたね」

「どう、もッ!!」


 軸足に多少無理をかけてでも体を勢いよく捻り、ハノーニアは辛くも、迫ってくるシジルゼートの顔から逃れた。そのまま一回、二回と飛び退って距離を取る。


「おしい。頬にでも口付けが出来るかと思ったんですが」

「お、お戯れを…少将」


 心底がっかりしたと肩を竦めるシジルゼートは、笑みを欠片も失っていないどころか、呼吸一つ乱れていない。肩で息をしながら、ハノーニアは格の違いを改めて思い知る。


「お疲れですか? ノイゼンヴェール様」

「…えぇ、誠に、悔しながら…。…あぁ、やはり、自分に此処は不相応である、と…力量不足、甚だしい、と…改めて、痛感している、次第であります…、…」

「ご謙遜を。貴女はこの帝国の危機を、あの方がたを、二度も救ってくださった」

「……たった、二度ですよ…」

「………そう、おっしゃらないでください」


 ハノーニアとシジルゼートは、お互い苦笑した。

 隙にもならない、そんな束の間。

 ハノーニアは空けていた距離を跳んで詰める。下から振り上げた左手は避けられる。鳩尾へ決まったかに思えた膝は、大きな手のひらでしっかりと受け止められていた。グッと力を込められて痛みが走る。呻き声と共に、殺気でも漏れたのだろうか。


「あッ!?」


 シジルゼートに顎ごと首を掴まれて、ハノーニアは仰け反った。息を吸うことも吐くこともままならず、苦しさに目をつむってしまう。経験がなす絶妙な力加減に意識も一瞬飛んだ気がした。

 シジルゼートの指が緩む。重力に手繰り寄せられるまま、ハノーニアの体が崩れ落ちる。その瞬間。


「――ッ!!」


 ハノーニアの片腕が、鞭のようにしなった。補助演算珠に込められた魔力でもって動かされた腕は、手は、指先は、シジルゼートの制帽を引っ掻き、四角い空目掛けて弾き飛ばした。

 咄嗟に避けて後ろに飛び退ったシジルゼートと、力尽きてその場で倒れたハノーニアは、ほぼ同時に着地する。


「ッあ!? ぐ、った…ぁ、は、うッ、あ、ッつ――ん――」


 受け身を取る力すらなくしていたハノーニアは、無様に背中を打ち付けた。芝生とは言えしたたかに打てば、衝撃が内臓を容赦なく揺さぶる。肺が痛んで、先ほどとは違った苦しさで呼吸が上手くいかない。そんな生理的な涙と、情けないやら悔しいやらの感情的な涙が、合わさって両目に浮かんだ。


「! ノイゼンヴェール様――」


 ハッとしたシジルゼートが駆け寄ってくるのを感じた。しかしそれは、間もなく阻まれる。


「――ハノーニア」

「――ぁ……か、っか…?」


 ばさりと、視界いっぱいに広がる漆黒はエルグニヴァルが羽織るマントだろうか。

 肌触りのよいそれに包み込まれて、ここしばらくですっかり慣れ親しんでしまった香りに満たされて、それでも、ハノーニアは自分を胸に抱き抱えるエルグニヴァルが都合の良い幻覚ではないかと疑った。


「エルグニヴァル閣下」

「……シジルゼート」

「ハッ。どんな罰であろうと、謹んで受ける所存であります」

「ッ! …、か…かっか、ッえほ」

「あぁしゃべらずともよい、ハノーニア。頷くだけでよい。それも辛ければ、瞬きだけでもよい。さあこの不届きものをどうしたい? 手始めに八つ裂きにするか? 逆さに吊るして腐らせるか?」

「いいえ、いいえ!! 閣下、閣下! どうか、どうかおやめください!!」


 エルグニヴァルに抱き抱えられる形で立ち上がれば、跪いて頭を深く下げ、首筋を差し出すシジルゼートの姿を見下ろすことになった。ハノーニアは必死に首を横に振って、エルグニヴァルに訴える。


「だがハノーニア…。…あぁそうか、そうだな。これの上はわたしだ。ならば、わたしも罰せられなければなるまい」

「閣下!!」


 呼吸が肌を掠めるほどの距離で自分を見つめる秋空色の目には、欠片の揺らぎもない。冗談ではないと、ハノーニアは悲鳴を上げるようにエルグニヴァルを呼んだ。


「おやめください、お願いです…」

「……分かった。だが、これの行動は看過できん。我慢ならんのだ」

「おっしゃる通りでございます、閣下」

「貴様に発言を許したおぼえはない」


 エルグニヴァルの冷え切った眼差しは、より深く下げられたシジルゼートの頭を容赦なく貫く。身を震わせながら、ハノーニアは恐怖ですくむ頭をなんとかかんとか動かした。


「か、閣下。発言の許可を…」

「あぁよいぞ。お前ならいつでもよい」

「あ、ありがとう、ございます…。

 …シ、シジルゼート少将についてで、ありますが…。…この、組手は、戯れは、小官から、お願い、いたしました」

「……ほぉ。何故かと、聞いても? 教えてくれ、わたしの可愛いハノーニア。わたしの何が至らなかった? これのどこが良かった?」


 指先でそっと顎を持ち上げられて、ハノーニアはエルグニヴァルとより一層見つめ合う。

 空は凍てついてはいないが、圧し掛かるように重く感じる。ハノーニアはコクリと唾を呑み込んだ。


「そう、では…ありません。閣下は、素敵な御方です。小官などが、お傍にいるのはおこがましいほどの…。…ですが、閣下は、そんな小官を、お傍においてくだる…。

 ならば、ならば…至らぬところばかりですが、せめて…持てる力すべてでもっても微力ではございますが、お役に立ちたく思います。ですから、閣下の優秀な部下でいらっしゃる少将に、恐れながらも、戦いの手ほどきを…お願いいたしました。

 …結果は、えぇ…大変情けないもので、ございますが…」

「………。…そうか。そうで、あったか」

「、はい。閣下を想う故の行動でしたが…大変軽率であったと、深く、深く反省しております。申し訳ございません。

 …シジルゼート少将。少将、大変、申し訳ございません」

「……シジルゼート」

「ハッ! とんでもございません、ノイゼンヴェール様。私こそ、至らず申し訳ございません。お体の具合は…いかがでしょうか?」

「もう、大丈夫です。ありがとうございます。……その、受け身を取り損ねた情けない姿は、見なかったことにしていただきたく思います」

「はい、そのように」


 シジルゼートは頷いたが、未だ顔も上げず跪いたままだ。

 ハノーニアは、エルグニヴァルを伺い見る。シジルゼートを見下ろすその横顔は、冷たいどころか無機質とさえ感じた。ルシフェステルが口にする『怪物』という呼称が浮かび、ハノーニアは思わずエルグニヴァルの軍服を掴んでいた。

 振り向いたエルグニヴァルが、ゆっくりと瞬きをした後、表情を浮かべた。此方を安心させるような柔らかいそれに、ハノーニアはいつの間にか詰めていた息をほっと吐く。


「それで、勝ったのはハノーニアだな」

「え」

「勝者には褒美をやらねばな。…ふむ、これの命などどうだろう?」

「いいえ! いいえ!!」


 まったく安心できない言葉にハノーニアは首を振って、はたと止まる。


(あ、待ってこれ、いらないって言ったら、違うって言ったら、マズイ奴では!?)


 おののいたハノーニアは、咄嗟に頭を捻って言葉を続けた。


「閣下! 恐れながら先ほどの発言を訂正させていただきたく!」

「あぁ」

「まず、シジルゼート少将の存命を、心よりお願い申し上げます!」

「理由を教えてくれるか、ハノーニア。その理由によっては…命は置いておくとして、代わりに何を取るか考えねばならぬ」

「か、かわり…?」

「あぁ。わたしは存外嫉妬深いようでな。例えば、これのような見目がお前の好みであれば…うむ、まずは顔を取るか」

「閣下が一番であります!!」

「そうか? ふふ、そうか」

「はい!!」


 身の毛もよだつことを平然と言った口から、次の瞬間にはいっそ無邪気な喜色したたる肯定の相槌が聞こえるのだから。成程、『怪物』という呼び名も正しいのかもしれない。間違っても口にはしないが。

 ハノーニアは深呼吸を挟んで言葉を繋げた。


「少将の存命を願う理由は、勿論帝国の、ひいては閣下を想ってのことです。少将の強さは、わが軍のみならず、周辺諸国へも轟いております。この方が亡くなってしまえば、崩れる均衡は少なくありません」

「かもしれんな。だがまぁ、どうにでもなる」

「えぇ、そうでしょう。エルグニヴァル閣下さえいらっしゃれば、帝国は安泰です」

「…えぇぇ…」


 エルグニヴァルと、それからシジルゼート本人からそう言われて、ハノーニアの口からは嘆息しか出てこない。

 数秒目をつむった後、こうなったら自棄だ!とハノーニアは唇をきゅっと結んだ。


「こら、ハノーニア」

「うむ、ぅ…閣下、申し訳ございません。気を付けますので、唇から、お指を放してください。

 …先ほどの発言に付け加えいたします。確かに、閣下がご無事であれば帝国は安泰でしょう。しかし、代わりに閣下が忙殺されてしまいます。御身も、お心も、死んでしまいます。そうしたら…そうしたら、一体どなたが小官を、可愛がってくださるのですか?」


 (どうだ! 言ってやったぞ!)と、ハノーニアは心の中でやけくそな叫びをあげる。

 目の前で、エルグニヴァルが空色の目をぱちくりと瞬いた。ついで、表情を甘く蕩かすのだ。


「あぁ…あぁ! そうだ! そうだとも!!

 お前を愛でるのはわたしだ。わたしの特権だ! 他の誰にも、何にもやるものか!!」

「そうでしょう閣下! そうでなくては嫌です!! 他ならぬ小官の夢は、閣下が叶えてくださるのでしょう? そういうお約束でしょう? どうか違えないでくださいませ」


 エルグニヴァルは感極まったのか、ハノーニアを抱えたままくるり、くるりと回った。

 ハノーニアは振り落とされないようしっかりとエルグニヴァルに縋りつく。身を寄せれば、なおきつく抱きしめられた。


「っ、それで…ええと、そう、そうです。

 これでもなお、褒美をねだっていいと甘やかしていただけるのであれば…。…お菓子を、ください」

「菓子、とな?」

「えぇ。小官、これでも女の端くれですので、甘いものには目がありません。あぁ勿論、菓子好きに女も男も、老いも若きもないと思っておりますが。

 ですから、少将。もし万が一、受け身を取れずに背中をしたたかに打ち付けた情けない部下を見舞っていただけるのであれば。見舞いの品に、どうかお菓子を。少将がお好きなお菓子を。お気に入りがあれば、どうかそれを…」


 顔を上げたシジルゼートを、ハノーニアはエルグニヴァルと共に見下ろした。

 ぱちくりと瞬いた緑青の目が、ゆっくりと和らいだ。


「えぇ。心を込めて見舞いましょう」

「ふん。品だけおいて去るのだな」

「か、閣下…」


 あんまりな言葉に、ハノーニアはつい苦笑いを零した。


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