月下入水
満月のよく見える、秋の夜のことだった。
散歩に出かけていた青年は、ふと気が向いて、家の近くの海へと歩いていた。
雲ひとつない夜空に、青年の心は不思議と高鳴っている。
(何か不思議なことでも起こりそうな夜だなぁ)
成人した身であるが、いくつになっても少年の心は消えないようだ。
青春時代を戦場で過ごしたのだから仕方ないと、青年は言い訳じみたことを呟く。
子供心を捨てる暇もないほど、沢山のものを失った。
大切な人とお別れもした。
本当に酷い人生である。
しばらく歩いていると、磯の香りと波打つ音が聞こえてきた。
砂利道から砂の感触に代わり、柔らかい踏み心地がする。
サラサラとしたそれに足をとられないよう、青年は慎重に歩を進める。
そうしてある程度行ったところで、ようやく彼は足を止めた。
青年は顔を上げて、ほうっと感嘆の息をついた。
海といえば夏の印象が強いけれど、秋の海もやはり良い。
黒で塗りつぶされたような闇夜にぽっかりと浮かぶ月が、広い海に同調するかのように大きく広がっていた。
春の朧月とは違って、随分と存在感を放っている。
あまりの美しさに佇んでいた青年は、ふと強く揺れた水面に視線を移した。
今宵は風の少ない夜だったので、魚でもいたのかと思ったのだ。
しかし、どうやらその推測は誤りであったようだ。
「あれは……」
形の崩れた水月の手前に、何かがいる。
丸みの帯びた棒状の何か。
それが少しずつ、あの大きな月に向かっているのだ。やがてそれは、左右から細い枝のようなものを生やし、やはり月に向けて伸ばした。
いや、違う。
あれは棒じゃない。
青年は細めていた目を見開いて、一歩前に出た。
──人だ。
人が黒い海の中を歩き、月に向けて両手を伸ばしている。
まるで絵画のような美しい光景だ。
青年は夢でも見ている心地になって、暫くの間ぼんやりとその姿を見ていた。
そんな彼を現実に引き戻したのは、これまた海に半身を沈めた人間だった。
ハッとして青年は海辺を駆ける。
近づいていくにつれて、その人物が女性であることに気づいた。
長くて黒い髪が波に弄ばれ、全体的に柔らかなシルエットを持つ彼女は、青年の存在に気付かぬまま月に向かって歩いていく。
「あの!」
このままではいけないと思い、青年は声をはりあげた。
「どこへ行くつもりですか?」
何ともマヌケな質問であったが、女性の足を止めることは出来たようだ。
ピタリと動かなくなった女性に、青年は一先ず安堵の息をはいた。
冷たい海の中にジャブジャブと音を立てて入る。
濡れて衣が肌に張り付くのも厭わず、青年は一心不乱に彼女の元へ急いだ。
「どこへ行くつもりですか」
青年はもう一度聞いた。
細く儚い背中が小さく震えているのを見つめながら、答えを待つ。
波が二度、体を打った頃。
彼女はようやく少し身じろいだ。
「月に行こうと思っていたのです」
どこまでも澄んだ、とても美しい声だった。
「誰か大切な人を亡くされたのですか」
さらに問う。
女性は静かに月を見上げた。
「いいえ、亡くしてなどいません。だってあの人は、あそこに居るんですもの」
青年は女性と同じように顔を上げて、月を瞳に映した。
先程と変わらず、大きな満月がこちらを見下ろしている。
浜辺から見ていたものと同じはずなのに、なぜだか飲み込まれそうな錯覚に陥った。
「どうして月に居ると思うのですか?もしかしたら家で寝ているかもしれないよ」
青年の言葉に、彼女はそっと首を振る。
「家にはいません。だいぶ昔に荒れ果てた地へと駆り出されてしまったのだから。もう顔も朧気ですの。残っているのはリンドウの簪だけ」
そこで青年は、女性の左手に一本の簪が握られていることに気づいた。
青の小花が二つ、月に照らされて光っている。
「……怖くは無いのですか」
今度は確かめるように尋ねた。
「月に行っても逢えないかもしれないでしょう?」
すると、女性はぎゅっと簪を握りしめて、体を強ばらせた。
「意地悪を言うのね」
拗ねたような、不安そうな、そんな声だった。
青年はふっと微笑みを浮かべ、女性の細腕を掴んで引き寄せた。
「リンドウの花言葉は、誠実、正義、悲しみにくれるあなたを愛する」
よろけた彼女を胸で受け止めて、そっと左手の簪に手をかける。
そして、強く抱きしめると、耳元に顔を近づけて囁いた。
「ただいま」
比喩表現が多すぎて、ふわっふわな文章が出来上がりました(笑)
ふわっふわすぎて飛んでいってしまいそうですが、何とか形になりましたかね?多分。
季節外れであることは気にしないでいただけると助かります( ˊᵕˋ ;)