人は誰しも守りたいものがある④
きん、と酷く冷たい剣戟が夜のしじまを割り砕く。
「……っ、兄上、城内に入らなくてよいのですか」
もうとっぷりと日は暮れている。今日はほかでもない黒夜だ。月のない夜、屋外にいる。そのこと自体に身体が、心が抵抗を覚える。
それは兄も同様のはず。
「……っ!」
だが、迫る剣の切っ先は揺るぐどころか鋭さを増してベルジェに襲いかかる。
兄の得物は際立って刀身が長い特注品だ。ゆえに間合いが広い。
ベルジェは懐へ入る隙をいまだ見出だせないでいた。
巻き込まれて斬られた庭木が視野の端で散るたび、心が痛む。花が散ることもだが、何より、兄は草花にぞんざいな扱いをする人ではなかった。庭の花を斬り落として眉ひとつ動かさないような人間ではなかったのだ。
ベルジェの、記憶にある限り。
「――兄上!」
ひときわ強く剣を弾く。しかし体勢を崩すにはほど遠い。だがそれで構わない。
「変わられたのは兄上の方だ!」
踏み込む一歩はせめてもの意気。
振り抜く刃は確固たる覚悟。
躊躇いは、この場において何の意味もなさない。
鈍い手応えが走る。
やや遅れて、甲高い金属音。
かしゃん。
ベルジェの間近に、それは落ちた。
兄の――兄が成し遂げてきた、きらめかしい功績の数々。その勲章。
身を低く屈めたまま、ベルジェは輝かしいそれらを手にとった。
「……兄上」
返事はない。しかし殺気もない。話し続けてよいのだと勝手に解釈して、ベルジェは言葉を紡ぐ。
「兄上にもあるはずです。王都以外の場所へ赴いたことが。地方で民がどんな暮らしをしているか。目にしたことが、あるはずです」
からん。
手のひらのなかで勲章が音を立てる。込められた栄誉のわりには、軽い音だと思う。
「王都はまさしく栄華そのものです。それが悪いとは言いません。着飾る有効性は、私にだってわかります。王都は王都らしく、きらびやかに誇り高くあるべきです。ですが、前王の時代……誇りも何もない、贅を尽くすだけの見栄のためにどれほどの民が虐げられたことか。――私は」
暗い夜闇はベルジェの裡にはびこる不安そのものだ。次第に根を張っては濃密さを増し、疑心とあてのない不安を呼ぶ。この国に生まれた者なら誰しも抱く、いや、刷り込まれたそれはまぎれもない恐怖、そのもの。
しかし、ベルジェは顔を上げた。しっかと見据える。そこにいるはずの、兄、そしてその向こうの黒い空を。
「私は、不平を訴え困窮にあえぐ民を、力で従えるために剣をとったのではありません」
兄の影――影とおぼしき気配――がふっと揺らいだ。
軍に入ってからというもの、ベルジェはずっと、剣の使い方を誤っている――そんな気がしてならなかった。守るべき民の、貧窮な暮らしぶりを目に焼き付けながら。
「国のために必要な任務だ。『国』を守るための仕事だ。迷うことはない。私意で剣を振るうなという教えを忘れたか。よもや、そんな理由で、出来るはずの出世をふいにしていたというのか。――まるで、駄々をこねる子どもだな」
「……そうだったのかもしれません。今までは。でも、」
すっくと立ち上がる。
前を見れば、おぼろながらも兄の姿が確かに見える。まぼろしなどではない、本物の兄が。
兄は、冷徹な軍人の顔をしていた。少なくとも、ベルジェにはそう感じられた。
手のなかの勲章を何も言わず差し出す。
お互い剣は抜き身のままだ。今斬りかかられたらひとたまりもないが、それはきっとないだろうと、願望めいた確信を抱いて近付く。
「何のために剣を振るうのか、それに出会うことが大事だと、昔父上に教えられました。兄上、あなたがその剣を選んだように――私も、もう選んだのです」
黒い夜に臆していてはならない。
自分が剣を捧げると、誓った相手は今まさにすべてを飲みこまんとするこの闇のその先を、見ているのだから。
ここで足踏みなどしているわけにいかないのだ。
――たとえ熟慮の末とった道が、兄と違っていようと。
「兄上の剣も、私の剣も、どちらも間違っているのかもしれませんし、どちらも正しいのかもしれません。しかし私は、この剣を振るうなら、敬愛する方のために振るいたいと、そう決めました」
いくばくかの逡巡があった気がした。何による逡巡なのかは、今のベルジェに推し量る術はない。
「……あの王は終末を呼ぶ王だ。代々王家は金髪蒼眼。直系でなくともこの特徴は顕著にあらわれる。お前や俺、傍系の貴族を見れば明らかだろう。金色の光、始まりの色だ。恵みをもたらす、朝の色。しかし当代はどうだ。まるで黄昏のような髪の色に、宵を思わせる瞳の色。何もかもが夜を暗示している。加えてあの尋常ならざる力だ。あれも魔道の一種だと宰相は言われるが、疑問視する声も多い。――あまりに、異質だから」
「……兄上も、そう見ておられるのですか」
答えはなかった。それの意味するところは、是か非か。これもまた想像するよりほかにない。
「私は、美しいものが好きです。人も、動物も、草花、見えるもの、目には見えないもの、全部です。陛下は――その身にまとった色も暗示も……志も含めて、これまで私が出会ったなかで最も美しい。あの方の手足となって汚れるならばそれは本望です。だから私は黒鷹隊への入隊を志願したい。……やっと、目指すべき剣を見つけたのです、兄上」
「ベル……」
今は懐かしい愛称だけが、幼い日の兄を思い出させた。敬愛と言うなら、間違いなくそれも敬愛だった。目指すべき、目標だった。誉れだった。ベルジェの人生のうちほとんどは、確かに兄の背中を追っていたのだ。
いや、今このときでさえ。
リカールは差し出された勲章を受け取ると静かに剣を納めた。
ベルジェもそれに倣う。
「リカ兄さん。好きにさせてくれと、そんなわがままは言いません。ですが、もう少しだけ、猶予をいただけませんか。そののち――やはり間違えていると感じたら、そのときは、もう一度」
「もう一度、があると思っているところが、お前の甘さだ。次などありはしないし、……もしも今の国王が国を傾けるようなことになれば先代のフリッツ国王に倣い退位していただくまで」
リカールの台詞はやはり冷淡だ。
だが、ベルジェは頭を下げた。これは兄の温情だと、解釈したから。
「ありがとうございます」
言い終わるか終わらないかのうちに、リカールは軍服の裾を翻して去って行く。普段は鮮やか過ぎる紺青色が、今宵は何故かとても心強かった。
そのままベルジェは黙礼していた。リカールの足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなるまで、ずっと。
……とるべき道は選んだ。
さしあたって次は――
「帰城の挨拶に、伺わなければ」
そして報告だ。
黒い夜に怯える心を叱咤して、ベルジェもまた城内へと踵を返した。
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