事実はひとつ、さて真実は⑤
「人間は『天使』って呼ぶけど本当は使徒って言うらしいわよ。あんたも覚えたら?」
「認識さえ同じなら呼び名なんてたいした差違じゃあない。それにしても火神とはな」
そこでまた、王は薄く薄く笑んだ。まるで何か含むものでもあるように。
アリスは無意識に給湯場の方へ目を遣りながら、
「黒い夜の話、ソーニャさんから聞いたわよ。火の神のくだりも」
邪魔をしないよう陰でそっと控えているのか、侍女の姿は視界に入らない。
「なるほど。それでその怯えようか」
「私は怯えてなんかいないっ! 憤慨しているんだっ! 火神が人間の命を奪ったりするものか!」
「実際にその行為があったかないかなんてな、問題にもならないんだよ、天使さま」
王の故意に揶揄するような語調は香姫を煽るばかりだ。その証拠に火神の使徒は頬どころか顔全体を紅潮させ、細い肩もわなわなと震えている。もしも今呪文が使える状態だったならきっとこの部屋そのものを灰塵にしていただろう。
――もし、呪文が。
(……使えたなら?)
「訊かなきゃいけないこと、まだあったわ。あたし達に何したのかってこと。牢で使ってた術、あれは何?」
そしてまだ問いたい疑問もある。
すなわち、
「あんた、何者なの?」
王の表情、挙動共に変化は表れず。
だがしかし、確かに空気が変わったことをアリスは肌で感じた。王が現れたときにも感じた、冷気の感覚。
(やばい。まずい)
――質問の選択を、間違ったかもしれない。
背中を怖気が襲う。
ひたひたと。
何かが。
すぐそばに。
――来る。
不意に王が手を払った。それはまるで、何かを制止するかのようでもあり、何かを拒むようでもあり。
意味は、ないのかもしれないが。
悪寒はぴたりと止んだ。
それでもまだ腕も脚も鳥肌だらけで、アリスは思わず身を震わせる。
ちらりと窺い見た王は狂気を感じるほど、愉しそうな目をしていた。
「つまらない問いだ。まさにその牢でサリエリが言っていただろう?」
「ううん、違う。そういうことじゃない。あんなこと、誰にでも出来るわけないじゃない。……ていうか、出来るとも思わないし」
「それはお前が培った固定観念のなかでの話だろ? 一般常識ぶるならまだ知らず、たかがガキひとりの知識で世界が測れるとでも思ったならとんだ思い上がりだ」
「……っ」
酷い言われようだったが、返せる言葉もまた、ない。何より、さきほどの悪寒がまだ肌に残っていて、とてもじゃないが反発する気概を持てなかった、というのもある。
「……呪文を封じるなんて、お伽話の魔王みたい」
ぼそりと口からこぼれ出たのは、わずかに燻る反抗心からの台詞か。
しかし案外と王の気に召したようだった。
「魔王か。……それも悪くない」
暮れなずむ橙の薄闇に溶かされて、その面持ちは判別し難い。
そうだ。話し合い、かどうかはともかく、対話の場だからといってすっかり失念していた。今こちらには自衛の手段がないにもかかわらず、相手は――おそらく相当な魔道の使い手だいうことを。
誤った選択は、命の危機を招きかねない。もう、失言は許されない。気を、引き締めなければ。
「さて。これでしまいか?」
「まっ、待って! まだある!」
早く。
早く考えろ。
最も効果的な質問を。
しなければ。
いけないはずだったのに――
「黒夜って、何?」
口をついて出たのは、そんな台詞だった。
(ああもう! こんなこと訊きたいんじゃなかったのに!)
せめて王の明確な目的、あわよくば不可解な術の正体を聞き出せたら、と思案していたはずなのに。
猛烈な勢いで悔恨しても時は戻らない。なんとか軌道修正を試みるほかないだろう。
と、アリスが胸の裡で固く決意していると、
「あれは化け物だ」
なんと返答が来た。
「化け……物? あれ? だって……」
アリスは首を傾げる。
ソーニャからの話によれば、あくまでも信仰上の概念ではなかったか。
「神を信じるか、信じないかと訊いたな」
おずおずと頷く。
「お前は信じないと言った。その理由を何と答えた?」
「えー……っと、あんまり自分に関係ないから、みたいなことを」
「それが答えってやつさ」
素っ気なく言って、王は息を吐いた。その吐息に含まれていたであろう感情は、おそらくアリスには決して汲み取れないものなのだろう。
「人は、自らに利益をもたらす超常を神と呼び、逆に災厄をもたらす超常を化け物と呼ぶ。しかし、それらを手中に収めたなら。あとはただの日常だ。当たり前を疑いもしない」
「それって、どういう……」
温もりのなさそうな視線がアリスを捉えた。
「どうやって魔道を封じたのか、知りたがっていたな。答えてやる前に尋ねる。お前が呪文と呼んでいるそれが、何故発動するのか知っているか?」




