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銀の翼を天使と呼んだ  作者: 早藤 尚
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事実はひとつ、さて真実は②

 硝子張りの天蓋に影が差す。夕刻が近い。楕円形の床に沿って連なる窓も、美しい曲線を描く天井も、透かして映す色彩はさながら空の底にいるようで、ここが高所であることを忘れさせるほどの美観だった。

 窓際に寄ってみてもその街並みは遥か彼方、代わりに眺望出来るのは美しく整えられた広大な庭園。そのなかを緑の迷路が縦横無尽に走る。外へ繋がる城壁は本当に、本当に遠かった。

 しばし景色を眺めて得た結論はつまり、この王城は――王城の敷地は、と言ってもいい――べらぼうに広いということだった。


「ここって、お城のどのへんなの?」


 眼下に広がる生け垣を眺めながら、アリスは尋ねた。


「どのへん、とおっしゃられましても……」


 返ってきたのはソーニャの困惑気な台詞だ。


「あー、えっと、じゃあ、一番近い門は、どこ?」


 止まってしまった片付けの音に申し訳なさを感じつつも情報収集を止めるわけにはいかない。


「それは西門ですね。他の門よりはここへ近いことは確かですけれども、このあたりの城館は通路が入り組んでおりますから……」


 慣れない者だと迷うそうだ。

 これでは先は長い。

 確かに、来るときもやたら複雑な道のりだったとアリスは思い返して首を垂れた。

 香姫はと言えば、部屋の中央に置かれた巨大なベッドに膝を抱えて座ったまま、何を話すでもなくただじっとしている。黒夜にまつわる火神の話を聞いたあとでは無理もないのかもしれない。しばらくそっとしておこう。

 ――時間が過ぎる。

 刻々と、景色が朱に埋まるように。

 ただ、何も出来ない時間が積もっていく。

 同時に、募る焦燥感。


(考えて、考えて、どれだけ考えても、何も行動出来なかったら――意味が、ない)


 何でもいい。止まりたくない。

 自分は前に進んでいると、感じたい。

 硝子に這わせた指が固く握られていく。


(またあたし俯いてる)


 もっと強い自分でありたいと、胸を張れる自分であろうと、決めたはずじゃなかったか。

 目を閉じて、深く深く息を吸う。花の芳しい香りが肺いっぱいに広がって、乱れた鼓動を和らげてくれる気がした。

 静かに、息を吐き。

 今の自分自身をよく見る。


「よし」


 呟いて、アリスは顔を上げた。

 現状立ち塞がっている障害が空一面の橙色に重なって、それがまた奮起に繋がる。


(俯いたら、何度だって前を向けばいいのよ。簡単なことよ)


 アリスの心を鼓舞するかのごとく、清涼な音が王城、いや王都全体に波打った。夕刻の鐘なのか、一回、二回と鳴るそれは酷く耳に心地良い。

 しかし、鐘が鳴らしたのは刻の知らせだけではなかったようだった。

 ノックも何もなく、突然に、かつ唐突に、扉が開け放たれた。

 登場したのは、今しがた見ていた空と似た、燃える橙。強引なまでに目を奪っていく、鮮やかな夕焼け色。圧倒的な存在感。

 不意の来訪にソーニャですら言葉を継げずにいると、


「なに呆けてる。さっさとそこへ座れ」


 まるでそこは自分の椅子だと言わんばかりに夕焼け色の王――ケーニヒはどっかりと腰を下ろした。ぞんざいに脚を組み、どこか斜に構えた眼差しはやはり温かみが欠落したようにも見え。

 目が合った一瞬、肌を冷気が撫でた気がして、アリスはたまらず腕をさする。


「同じことを三度は言わない。早くしろ」


 ケーニヒの蒼暗い瞳が剣呑に細められるさまを目にしたら身体が勝手に従ってしまった。屈したように思えたのが癪で仕方ない。せめてもの仕返しにこちらから口火を切ってやるも、


「言われたとおり座ったわよ。で、何? 『話』ってやつ?」


 返ってきたのは冷たいせせら笑いだった。


「見事に薄っぺらい虚勢だな。泣いて喚かれるよりましか」


 見透かされている。やはり相手の方が一枚も二枚も上手なのか。


「ああ、俺をどうにかして鍵を奪おうなんて浅い考えを巡らせているなら止めておけ。廊下にサリエリを待たせてある。お前らがあいつに勝てる確率は微塵もないし、そもそも俺がお前らに出し抜かれることはない」


 なんという自信過剰。

 ほかの誰かがこの台詞を吐いたならアリスはそう感じただろう。でも、先刻の、牢での仕業を目の当たりにした今は。自分でも驚くほどすんなりと、そうだろうなと受け入れてしまっている。

 彼が口にしているのは希望的推測でもましてやはったりでもない、ただの事実なのだと心のどこかで理解しているのだ。

 黙り込んだアリスをかばうつもりか、香姫が身を乗り出して王へ人差し指を突き付けた。


「貴様……愚弄するのもいい加減に」

「黙れ天使。今話しているのはこの俺だ」


 あえなく一蹴される。

 いやそれよりも。


(今、『天使』って)


 こちらの動揺など気にも留めず、ソーニャへ茶を出すよう言いつけると王は口を閉ざしてしまった。

 横長のローテーブルを囲むのは今、アリスと香姫、そしてケーニヒのみ。かすかに食器の音が聞こえるほかは、沈黙がこの場を占める。

 一体、何をしに来たのだろう。

 ちらりと横目で窺うも、その真意は量り知れない。真っ向から対峙したところで汲み取れるとも思わないが。

 不意に王の視線がアリスへ向かう。


「お前の目的はなんだ」

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