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銀の翼を天使と呼んだ  作者: 早藤 尚
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待ち合わせはお城の前で②

「黒い、夜?」


 はい、とソーニャは柔らかく微笑んだ。ふわりと香しく漂うお茶の匂いがまるで彼女の笑顔に花を添えているようで、アリスは一瞬見蕩れてしまった。意味もなくごまかしたくなって出されたカップを取ってみる。


「闇夜ってこと?」


 淡い紅色のお茶はアリスの知らない味がした。

 一拍の間ののち、侍女は少し困った顔で、


「いいえ。闇より尚深く、暗く、そして、恐ろしいのです」

「……」


 淡々とした口調が逆に怖い。硬直したアリスを気に留めることなくソーニャはやや離れた椅子へと腰を下ろした。

 陽光あふれる天空の鳥籠には、今、香姫とアリス、そして侍女のソーニャの三人だけである。

 ――お茶、飲みませんか。

 そう言った彼女はこちらの返事を待たずに、慣れた手つきでポットやカップ、そして美味しそうな焼き菓子までもを用意して、アリスと香姫にすすめた。どうぞ寛いでくださいと言わんばかりの待遇にアリス達は目を白黒させつつもつい従ってしまった。それくらい、彼女の言動に毒気がなかったから。

 ――ケーニヒ国王陛下より貴女様方のお世話を命じられました。ソーニャと申します。

 それから彼女は次のことについて話し始めた。

 自分はこの王城に勤める侍女であること。普段は厨房回りや部屋支度の雑務を行っていること。アリスと香姫については王の客人としか聞いておらず、お茶を飲むなり話をするなり、とにかく相手をしておけとの命令であること。期限はわからない。そして最後に、この部屋から絶対に出すなと固く命じられていること。


「とは言え、私は鍵を持っておりませんので、たとえ貴女様方を外へお連れしたくてもその術がありません」


 心底申し訳なさそうにソーニャは頭を垂れた。


「え? ちょっと待って出入口はこの扉だけなのよね?」

「ええ」

「じゃああなたもあたし達と一緒に、その……軟禁、される、ってこと!?」

「その通りでございます」


 こともなげに答えるソーニャに思わずのけ反る。


「何それ! 使用人ごと閉じ込めるって……! やっぱりひとでなし!」


 扉に向けて悪態をつく。それくらいしか出来ない自分にますます腹を立てながら。


「アリス、窓も全然開かない」


 投げかけられる香姫の焦燥。嵌め殺しらしく一面硝子張りの窓は鍵すら見当たらず、さして厚そうにも見えないのにどういうわけか割ることも出来なかった。呪文も使えない今の状態ではまさしく打つ手なしだ。


(本当に、閉じ込められたんだ)


 呆然と座り込む。握り締める指が痛みを伝える。

 実感が訪れるのはいつだって現実より後だ。

 そして、腹が決まるのも、いつも実感のその後なのだ。

 アリスは奮然と立ち上がった。静かに控えるソーニャを見据える。

 そう。まずは。


「お茶、飲みます!」


 情報収集。と、腹ごしらえだ。

 そういえば、最後に食べたのは、食い逃げした饅頭だったなと思い出す。

 あのとき一緒に追いかけられてくれた彼は、今どこで何をしているのだろう――。



     *



「人間ってよくわかんないよなー」


 紫鳩はパンを頬張りながらおもむろに呟いた。

 何と返していいものか答えあぐねていると、


「真っ暗なのが怖いのか? 今こんだけ明るいのが暗くなるんだからそりゃ怖いかもしれないけど」

「黒夜のことか?」

「そー」


 頷いてまたかぶりつく。

 ちなみにゼロの手にも同じパンがある。さきほど紫鳩が持ち帰ったお土産だ。店の売り子が何故か無料でくれたらしい。よほど空腹そうな顔でもしていたのだろう。

 一口大にちぎって食べる。果実が練り込んであるのか少し甘酸っぱい味がまた美味だった。


「どっちかだけならわかるけどさ、明るくなったり暗くなったりって変じゃん」


 紫鳩は最後の一口をせわしなく飲み込んで話の続きを始める。


「動くのにも不便だしさー、そりゃ寝るのにはちょうど良いけど。天使だか何だか勝手に決めつけて狙ってくるし変なところだよ」


 変なところ。

 アリスに天界のことについて話したときが思い出される。酷く驚いていた。面食らっていたというべきか。おそらく今紫鳩が口にしたのと似たような感想を人間側も感じているのだろうなと思う。


「暗いから寝る時間に充てるんだろう。黒夜は――、そういうものじゃなく、信仰の(たぐい)のような気がする」

「そんな奴天界にいねーよ。聞いたこともないし」

「だから、それも、」


 ――『天使』と同じなのだ。たぶん。


「人間って面倒くせえ」


 ぼそりと紫鳩が呟いた。


「――、人間が、嫌いなのか?」


 どうしてだか名前を呼ぶのは躊躇われ、妙な間が空いたうえに妙な質問をしてしまった。一瞬取り消そうかとも思ったが、当の紫鳩が答えるそぶりを見せたので黙ったままでいることにする。

 火神の使徒ははねた枯草色の髪をくしゃくしゃ掻き回して、


「嫌いっつーかなあ……」


 そのまま押し黙る。

 窓の外からはいまだ喧騒が絶えない。人々の活気溢れるざわめきは不思議と耳に心地良く、こんな状況でなかったら午睡でも楽しみたいほど気持ち良い昼下がりだった。


「……嫌いっつーか、そもそもあんま見たことないし……」

「俺も人間と関わったのは初めてだ」


 紫鳩は俯き、


「火神さまの使徒であることは俺の誇りなんだ」


 床の一点をじっと見つめて語る。


「だから人間のことなんかに構ってらんねーし、別に知らなくて良かったんだ。俺の大事な全部は、あっちの世界にあるんだ」


 ――蘇る。

 紫鳩の言葉に触発されて、奥底から浮上する。

 古い記憶。

 初めて彼女に忠誠を誓ったときの――あの、何物にも替え難い、喜びと、誇り。


「解るよ」


 ずっと尽くすのだと思っていた。

 彼女の傍で、永遠に。

 それが至上の幸せだと、あの頃は、信じていて。


「俺も、そうだった」


 物言いたげな紫鳩の視線が刺さる。ゼロより遥かに長く生きてきた使徒はけれど何も訊かず、代わりにこう言った。


「まー俺はお前に勝てれば他はどうでもいーし」

「……まだやる気なのか」

「当たり前だっ! 勝つまで挑む! ただし手加減すんじゃねーぞ!」

「先は長そうだな」

「どういう意味だコラ!」


 床に座り込んだままのふたりを柔らかな日差しが照らす。暑くはない。からりとした和やかな良い天気だ。

 束の間お互い口を閉じ、そしてふたり顔を見合わせた。


「――で、東雲はいつ来んだよ?」

「さあ……」

 待ち人、いまだ来ず。



         *



 見渡す限りの荒野に、彼は立っていた。


「これは困ったね」


 そう呟くその表情、声音、仕草。どれをとっても、台詞通りの困惑などまるで感じられない。むしろ笑みを浮かべて、彼は腕を組んだ。目的地はここではなかったのだが、何の因果かこの荒野に引き寄せられてしまったようだ。

 黒髪をさらう一陣の風に、砂塵が舞う。ひび割れた大地にはしかし根付く緑の鼓動が確かに感じられた。


「やあ。久しぶり」


 彼は目の前の何もない空間に向かって笑う。とてもとても、涼しげに。


「本当、しつこいね君達は」


 嘆息すると、そよ風が頬をくすぐった。乾いた風だ。きっと火と相性が良い。


「まあでも、ちょうどいい。案内してもらおうか。もちろん向こうには内緒だよ」


 返る言葉はない。ないが、それを代わりとするように微風が黒衣の裾をなびかせた。

 そして彼は歩き始めた。待たせる言い訳をいかに面白おかしく捏造しようかと頭をひねりながら。


                *

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