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銀の翼を天使と呼んだ  作者: 早藤 尚
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伝承と噂話はそれほど変わらない①

 ノックの音が控えめに鳴る。

 厚い扉ごし、わずかに響いたそれを、部屋の主はしっかり聞いていたが、特に返事をすることなくただ目の前の書類にサインをし続けていた。

 やがて、ひときわ重厚に造られた扉が音もなく開かれる。


「……失礼致します、ケーニヒ陛下」


 さきほどのノックと同様、控えめな低音が主の名を呼んだ。それから一拍遅れて、痩身の男が入室する。

 無造作に背中を流れるくすんだ飴色の長髪。さながら病人のような青白い顔、神経質そうな細い眉。枯れ木のごとき体躯もあいまって一見すると老人に見えなくもない。

 しかしその声は見かけとは裏腹にひどく幽遠だ。響くと言うよりは流れると表現した方が似つかわしい美声が、主の応答を待たずに用件を告げる。


「朝の定例会議のお時間です。早急にご支度なさってください」


 そこで初めて、部屋の主――ケーニヒは手を止め、訪問者の顔を見上げた。相手の姿を確認するように眺め、


「わかった。そこで待て」


 了解の意を口にする。いまだ処理しきれていない書類の束に目を遣り、その量をざっと目測してから、ケーニヒは表情を変えずに呟いた。


「……イェンゼン」

「は。何でしょうか」


 美声だが全く覇気のない声が返る。


「少しばかり思うことがあるんだが……」


 ケーニヒは気にせず、頬杖をついてどこか明後日の方を向きながら話を続けた。


「はい」

「お前といいサリエリといい、どうして俺の側近はノックの返事を待たないんだろうな」


 そう訊くと、イェンゼンはわずかに眉を曇らせた。自身の後方にある扉を肩ごしに振り返り、ふたたび静かな動作でケーニヒへと顔を向ける。骨張った手を口許に添え、


「……サリエリは解りかねますが、私の場合礼儀を軽んじているのではなく、これまで陛下とお付き合いしてきたなかで導き出された経験則によるものです」


 ゆったりとした鈍色の袖が動きに合わせてしとやかに揺れた。

 ケーニヒの視線が自身に向けられていることに気付くと、


「どうやら陛下は私のノックが判別出来るようですので。それに、」


 問題があれば私が入室する前に制止するでしょう、と枯れ木のような男は言った。

 ケーニヒは思わず顔をしかめる。


「お前のノックは変なんだ」

(ひな)育ちゆえ、お許しくださいませ」


 軽く頭を垂れるイェンゼン。

 そういう意味じゃない、と応えてケーニヒは立ち上がった。どっしりと鎮座した執務机を迂回するように歩いてイェンゼンと並ぶ。自分とさほど変わらない位置にある青白い顔を捉え、


「いくら古いとは言え、俺に比べたらずっと正統な血族だろう。いい加減その性格を直す気はないのか?」

「ケーニヒ陛下。今はあなたが王で、私は臣下。血の直傍など、今さら何の意味も持ちません」

「だからどんな性格してようが構うなと?」


 ケーニヒは挑発気味に口の端を吊り上げた。

 しかしイェンゼンは涼しい顔で受け流し、会議へ赴く主のために扉を開けた。ケーニヒが出ると、イェンゼンもそれにならって静々と退室する。

 施錠の音を後ろに聞きながら、ケーニヒは正面の壁に飾られた絵画を見上げた。

 初代国王の肖像画。今しがた閉められた扉以上の大きさを誇るそれは、否が応にも目に入る。


 東ワールゲン王国は絶対王政だ。代々王家の一族が統治しており、初代国王と言えばケーニヒの祖先にあたる。畏敬の念がまったくないわけではないが、正直宝物庫あたりにでもお引っ越し願いたいところだ。よりにもよって執務室の真正面におわされていては気分が萎えるというもの。

 ケーニヒは肖像画から目を逸らすと半ば振り切るように身体の向きを変え、無言で会議の間へと歩き出した。この廊下には採光のための窓がない。代わりに、月の意匠が施された燭台が等間隔に並び、照明の役割を果たしている。突き当たりの角を曲がれば下の階へ繋がる階段だ。


「陛下。さきほどの話ですが」

「ああ?」


 今まさに階段を下りようとしていたケーニヒは突然の会話につんのめった。とっさにつかんだ手すりは思いのほか冷たく、今がまだ朝であることを痛感させられる。


「さきほど? ノックか? 血か? それとも性格か?」


 反問して、ゆるやかに弧を描く階段をふたり、連れ立って下りる。毛足の長い絨毯が敷かれているので足音が響くことはないが、それでなくてもこの広い王城の奥に位置する執務室近辺は、出入りする人間が限られているため、ほかに比べるとひときわ森閑としていた。


「性格です」


 イェンゼンの返答は簡潔だった。

 最後の一段を下りきると、彼は思案げに眉をひそめ、


「長く世間から捨て置かれていた私のような者には何の取り柄もございません。ましてやこの歳まで培ってしまった性分を変えることなど無理難題。しかし私も、陛下やサリエリより歳を重ねた一人前の人間ですから……未来ある若者の手本となるべく努力致します」


 そこで拝礼すると、いたわしげな視線をケーニヒに向け、こう言った。


「ねじくれた私の性格が改善出来ない理由を年齢のせいにしてしまっては、陛下の未来が憂慮されるというもの。私は老い先短い身ですからまだ構いませんが、お若い陛下がこの先、今以上にひん曲がってしまうかと思うと心配でなりません」


 それはそれは心底気の毒そうに、イェンゼンはケーニヒをじっと見つめる。


「…………イェンゼン」

「何でございましょうか」

「お前、歳はいくつだ」

「四十一になります」


 聞くなりケーニヒは半眼になってイェンゼンを睨んだ。彼の胸元を指差し、


「性格直せ。いらん心配するな。年寄りのふりはやめろ」


 それから病人のふりもだ、と付け加える。

 ちょうど咳込む寸前だったイェンゼンはかすかに瞠目して、口許を押さえていた手をはらりと下ろした。

 すでに背を向けていたケーニヒはイェンゼンのそんな仕草も目にすることはなく、足早に廊下を進んでいく。

 執務室前とは違い、天井高くに据え付けられた窓から朝の陽光が柔らかく降り注ぐ。


「ところで陛下。サリエリはどうしました?」


 問うイェンゼンの声は相変わらず張りのない美声。

 足を止めぬまま答える。


「仮眠中だ」

「また無理矢理暇をとらせましたか? ほかの隊員の姿も見当たらないようですが」

「別件任務」

「では今はおひとりなのですか? 護衛はいないのですね?」


 見てのとおりだ、とケーニヒは片手を振る。返るイェンゼンの台詞は珍しく呆れた語調で、


「貴方という人は……」

「別に問題ないだろ?」

「身の安全どうこうではなく、一国の主ともいうお方が護衛もつけずに出歩いているという事実の方が問題です。そんなことでは会議の間でお待ちの、揚げ足取りが大層お好きな方々に可愛がられてしまいますよ」

「それはごめんだな」


 いびつに口の端を持ち上げ、ケーニヒは荒っぽく髪をかきあげた。背後でちいさくため息の気配。


「まぁ……それはさておき、陛下はブランをご存知ですか」

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