どちらが前かは己で決めろ③
そのまま広大な青空に目を転じて、
「考えてもずるずる悩んじゃうんだもの。だったらもういっそ最後の最後まで泥くさく悩み抜いてやろうかなって」
問題は確かに山積み――のように思えるのは、アリスがまだ選んでいないからだ。
あれもこれも、と捨てられないでいるからだ。
当たり前だが、何かを選ぶということは、他の何かを選ばないということでもある。往々にして、すべてに得がある選択肢など与えられないし、それほど世界は生易しく出来てはいない。
目先の問題だけ睨んでも、結局はこうして堂々めぐりになるばかり。どっちつかずの状態が続く。
最終的に選ぶ何かのために、その他を切り捨てる覚悟をもってこそ、『選択した』と言える――と、アリスは考える。
けれど。
切り捨てるほどには、割り切れない。
すべて追えるほど、要領良くもなれない。
そもそも、何かひとつを選べるほどの素直な心でもない。
ただ、自分自身が、気持ち悪いのだ。
目の前にある「出来ること」を放っておくのが。
(だからあたしはやっぱり優柔不断なんだ)
あれもこれも、と手を出して、万事上手くなんていきっこないのに。そんな八方美人こそが嫌いでしかたなかったのに。
でも。
「でも、どうしても決めなきゃいけない、ってときは、覚悟決めるわ」
悩まず自分の心に素直になれれば良いのだが。いかんせんアリスのなかには要らない意地ばかり余りあって、それがどうしても妨げになってしまう。自分のことながら損な性分だ。
どこか苦笑じみた表情を浮かべるアリスを香姫は口も挟まず見ていたが、不意につと、
「じゃあ、結局この先はどうするつもりなんだ?」
「ん、ゼロのために動くわよ。今は、それやんないと後悔しそうな感じだから」
「うむ。具体的には?」
行儀良く膝上に両手を乗せて、ちょこんと香姫は首を傾げる。異国情緒のある鮮やかな衣装と小柄な体格もあいまって、その姿はまるで飾り人形のように愛らしい。
真向かいに座る少女の容姿に少しだけ羨望を覚えてから、アリスは背を丸めて頬杖をついた。
「そこが問題よねー……。そいやあんたの仲間? ってこっちにいるの?」
問われ、香姫の眉間に皺が寄る。
「はぐれた」
「はぐれたぁ?」
「気付いたらいなかった。おそらく迷子になっているのだろう」
まったくあいつは、とぼやいて首を振る香姫をアリスはたっぷり数拍は見つめ、そして口を開く。
「……逆じゃなくて?」
「え?」
「あんたがはぐれて迷子になったんじゃなくて?」
人が何かに思い至るさま、という瞬間がこんなにも衝撃的なのだとアリスはのちに振り返ってつくづく感心する。
ともかく香姫は雷に打たれたかのように身を震わせたものの、すぐさま平静をとりつくろった。と、容易に看破出来るほどそれはそれは見事な表情の変化であった。
いまだ会ったことすらない火神使徒のその人物にささやかな憐憫を感じる。神様の使いもなかなか大変そうだ。
「そそそそういえばあの軍隊はどこの国のなんだ?」
「あ、知らないんだっけ。ここよ。あたし達が今いる国。東ワールゲン。その王様の、直属の護衛隊」
「なっ……! そうなのか!? ならばここは敵地のど真ん中じゃないか!」
「えっ? ……あ、そーね。そう言われれば」
「ぬるいぞ、アリス! よし、城に向かうのだ! こういう場合は根源を断ち切――むがむがっ」
熱っぽくまくしたてられた香姫の台詞は途中で不明瞭な発音となる。
「ちょっと! もう少し考えてからものを言ってよ!」
香姫の口を手で思いきりふさぎながら、アリスは小声で怒鳴った。不服げに歪められる上半分だけの顔に向かって、再び釘を刺す。
「不敬罪とかで捕まるのはごめんだからね!」
「――ふふふっ。お嬢ちゃん、今のご時世に不敬罪はないよ」
「ふぇっ!?」
唐突に隣から声をかけられ、アリスは驚いて奇声をあげた。香姫と揃って発声源へ首を向ける。
「お嬢ちゃん達、うちの国に来るのは初めてかい?」
「あ、あの……えっと、まぁ」
意味をなさないアリスの返事に、その老婦人はおかしそうに目尻の皺を深めた。
だいぶ白いものがまじってはいるが豊かな茶髪。優しげに細められた双眸。肩にはおっているのは落ち着いた煉瓦色のストールだ。貴金属の類は、ストールを留める花のブローチのみ。一見慎ましい身なりには見えるものの、真っ白なブラウスもふわりと風を含む長いスカートも、使われているのは決して安価とは言えない生地だ。
実家で鍛えられた目利きで老婦人の暮らしぶりを見抜くも、決して庶民ではないだろう人物が何故こんな乗り合いの馬車などにいるのかは皆目わからなかった。
やや違和感こそあれど、少なくとも印象は悪くない。ちなみにアリスは人を見る目もなかなかだと自分では――そう、自分では、思っている。
内心警戒はゆるめず、とりあえず笑顔で取り繕う。
「ごめんなさい、さすがに不敬罪はなくてもちょっと失礼ですよね」
老婦人は微笑んで、
「それがねぇ、そんなことないのよ、実は。不敬罪で死刑になった人もいるんだからねぇ」
「――死刑ッ!?」
「先代の話だけどねぇ」
ほっほっほ、と楽しげな笑い声をあげた。
「な、なんだーぁ……先代、って前の王様ですよね。い、今は、違うんですよね?」
「そりゃあもちろんですよ。見目が珍しい方だから口さがなく言う人もいるけどね、私は好ましく感じますよ。先代に比べて無闇な徴税はなさらないし、気まぐれで極刑もない、それだけでもう私達国民にすれば良い王様だもの」
「へぇ……そう、なんですか?」
「そうねぇ。まだ即位して間もないから、この先はわからないけども」
ともかく今のところは自慢出来る王様よ、と老婦人が笑う。
その誇らしげな笑顔に、アリスは何か違和感を覚えた。見れば香姫もどこか不可解だというように眉をひそめている。
アリスの視線に気付くと、香姫は身体を寄せて耳打ちをしてきた。
「王様は悪い奴ではなかったのか?」
「そう、よね」
「なんか想像してたのと違うぞ」
アリスも同感である。
しかしまだ即位したばかりだ。老婦人の言うように良し悪しはともかく、その実力を認知されるには不充分な期間と言えよう。
(表で良い顔して裏じゃ悪人、なんてよくある話だし)
気にするほどではない、とアリスはその違和感を横においた。
気付けば馬車は国境をだいぶ離れたようだった。緑の田園風景が今は煉瓦造りの家々に変わっている。落ち着いた暖色の街並みを、乾いた風と轍の音が軽やかに駆け抜ける。ちらほらと見えるのは人影だ。農作業や商いに励むさまは国を越えても変わらないものだと、アリスはこの旅を通じて感じた。
だが、いくら見慣れた光景がそこにあったとしても、ここが異国であることには違いない。
(『王様』って、いったいどんな人だろう)
にわかに、今まで記号的認識しかしてこなかった東ワールゲン現国王の人物像が気になり出した。王という肩書き上ではない、その本人自身のひととなりが。
もちろんアリスにとっては徹底的に悪であり、それ以外には形容しがたい。しかしその一方で、目の前の老婦人のように好ましいと評する者もいる。人物像の評価などおおむねそんなものであるが、この場合どちらがより真実に近いのだろう。
話せば万事解り合えるなどという甘い考えを持っているわけではないけれど、このときアリスのなかに一筋の光明が差したのもまた事実だ。
心中考えをめぐらせながら、初めて目にする異国の風景をぼんやり眺めていると、突然馬車が減速し始めた。ゆっくりと道端へ寄り、ついには完全に停止する。
「え、どうしたの?」
「休憩ですよ。お馬さんも休息は必要だもの。馬車の点検もあるから、少し長く停まるかしらね」
と、言いながら老婦人は年齢を感じさせない軽やかな動作で馬車を降りていく。
「ここで降りるんですか?」
「いえいえ。王都まで乗りますよ。ふふっ。ちょっとしたお祈りに行くだけ。なんならお嬢ちゃん達も来るかい?」
「え?」
お祈り。と言えばやはり、神への礼拝だろうか――?
考える前に口が動いていた。
「行きます。あたし達も!」
「な……っ、私もか!?」
不服そうにごねる香姫の腕をとり、老婦人のあとに続く。踏み段を降りると確かな土の感触が出迎えた。
見上げれば五、六人は雨宿り出来そうな寄棟の屋根。停留所も兼ねるようだ。古色を帯びた腰掛けが等間隔で並んでおり、実際待ち人とおぼしき者達が何人か座って雑談に興じていた。
しかし老婦人はそちらへは足を向けず、脇をさくさくと通り抜けてゆく。
「すぐそこよ」
と、視線で指し示されたものの、前方はやや荒れた感のある林、その奥まで続く外壁があるばかり。歳月を滲ませる赤煉瓦の連なりは、遠ざかるにつれて白木と緑の蔦へ渾然と混ざり合う。そのまた遠くは、青天をくっきり切り取る峰々の黒のみ。
右手には青い葉を揺らす木々が密集して植えられており、向こう側に見えるはずの街道はわずかばかり視認出来る程度となっていた。
外壁の外ということはここは街道と街の境にあたる。
いったい、どこにお祈りする場所があるのだろう。
疑問はすぐに氷解した。
「あったあった。ここだよ」
何もないところで――少なくともアリスにはそう見える場所で――老婦人は屈んだ。二、三度土埃を手で払い、アリス達へ見せるように老婦人は身体を横へずらす。
「何だこれは?」
香姫が不思議そうに尋ねる。この三人のなかでは一番よく知っていそうなものなのだが、どうやら彼女には関わりのないものらしい。
それは、予備知識なしで見れば、何の変哲もないただの石が重なっているだけ、と思えたかもしれない。だがしかし――
「神様の祠だよ」
老婦人は慣れた手つきで石の周りを掃除しながらそう答えた。
「神の?」
「そうねぇ、確か縁結びの神様だったかしらねぇ。お嬢ちゃん達もお祈りしていったら? 素敵な人とめぐり会えるかもしれないよ」
「す、素敵な人って……」
口ごもりつつも、アリスは老婦人の後ろから石――いや、祠をまじまじと観察する。
長年風雨にさらされて白く変色してしまった、人の頭ほどの石の山。言われてみれば、どことなく祠に見えなくもない。しかしどちらかと言えば祠よりは瓦礫に近い。
何も知らずに通りがかったら、まず間違いなくただの瓦礫と思うだろう。
「あの、縁結びって、何する神様なんですか? ここにいるのは」
「私が曾祖母から聞いた話じゃ、人と人とのめぐり会いや心の繋がりを司る神様なんだそうよ。なんだかあったかい神様でしょう」
老婦人は胸に手をあて、目を閉じる。
火やら縁結びやら、どうも神の司っているものの基準が判らない。そんな疑問をこめて後ろの香姫を見遣るが、神に仕えているはずの天使、いや使徒は素知らぬ顔で祠を眺めているばかりだった。
「アリス、祈ると何かあるのか?」
「別にないわよ」
「ないなら何故祈るんだ?」
「……っていうか、そういうのは香姫の方が詳しいでしょ。このおばあさんみたいに今でも信仰してお祈りしてくれる人がいるから、神様ってやっていけてるんじゃないの? お祈りの声とか聞こえてるんでしょ?」
そう訊くと、香姫は実に面妖な表情になり、
「そんなの知らないぞ。だいいち、何故我々が人間の信仰心などに頼らなければいけないのだ。声なんか聞こえるはずないだろう、遠くに居るんだから」
「え!? でも……」
「だいたい、アリスの言ってることはおかしい。祈っても何もないと知ってるのに、何故聞こえてると思うんだ? 聞こえてて無視してるのなら、すごく嫌な神じゃないか」
「そりゃ、そう、だけど……」
アリスは口ごもる。
何だろう。今急激に、自身の神に対する知識が瓦解していくのがわかる。それはアリスの思い込みではなく、少なくとも一般常識ではあったはずなのだが。
当たり前だと信じていたことが、当たり前ではないと気付かされたとき。
あとから思えば、おそらく初めて、アリスが「世界」というものに疑問を持った瞬間だった。
「近頃はみんなお嬢ちゃん達のような考え方なのかねぇ」
老婦人はよいしょ、と腰をあげた。服の裾についた土を手で払いながら、
「神様はいない。お話のなかでだけ存在するものだ、って」
その台詞に香姫が眉を吊り上げたが、アリスによって制される。
「まぁ、お祈りどころか手厚く奉っても何も起こりはしないんだからねぇ……私もいないんだろうとは思うのよ。でもなんとなく来てしまうのよねぇ。何かいいことあるんじゃないか、って」
ふふ、と照れ臭そうに口元を隠す老婦人へアリスは微笑みかけて、
「祈るだけならタダだしね……ほら、香姫もついでに祈っていこうよ」
後ろの香姫の裾をつまんだ。そのまま引っ張り、強引に座らせる。
「! なんで私まで……!」
「ごちゃごちゃ言わないの。香姫だってその……す、じゃなくてー、そう! 会いたい人とか、いないの?」
適当に言った台詞だったが、それでも香姫には思うところあるようで、渋々ながらだが目を閉じた。祈る前に少しだけ、訝しげな顔つきで石の祠を注視するも、すぐに祈願を再開する。
それを見届けてから、アリスも祈り出す。
と言ってもただ両目を閉じただけだ。作法など知らないし、そもそも祈るべき願いが見つからない。
(『人と人とのめぐり会いや、心の繋がりを――』か)
老婦人の言ったように、素敵な人と出会いたい、だとか、誰かと仲良くなりたい、だとか祈ればいいのだろうか。
――仲良く。
「…………」
脳裏に浮かぶ青灰色を打ち消して、もう一度考える。
(仲良くなりたくない、わけじゃないけどさ)
むしろアリスはそれを望んでいる。しかし、自分で努力する余地があることを神に頼むというのはどうにも筋違いな気もするし、何より、アリスの主義に反する。
要するに、慣れていないのだ。神に祈りを捧げるなどという行為は。
別段神を信じているわけではないから、神へ対する賛美もない。自分自身のことについてはこの通りだ。
ならば、自分ではどうしようもないこと――例えば、誰かの未来を案じる……というのはどうだろう。それなら何の抵抗もなく祈れそうである。
そして今、アリスが一番にその身を案じている人物と言えば――
ゼロ。
アリスが初めて出会った天使。
いつもどこか辛そうで。自分も大変な立場だというのにそれでもアリスを助けてくれた。思えばアリスは彼が心から笑ったところを見たことがないかもしれない。思い浮かぶのは煩悶の表情ばかり。
今頃どこで何をしているのか。
どうして――どうして何も言わずに姿を消したのか。
尋ねたいことも言いたいことも山のようにあるのに、肝心の本人がそばにいないのでは話にならない。
(だから……だから、どうかゼロが無事でいますように)
それは心からの願い。
同時に、心からの誓い。
祈るのは神にではない。これは、自分自身との約束だ。
(必ず見つける。どこにいたって、捜してみせるんだから……!)
そのときまでには、彼に伝えたい言葉もきっと判っているだろう。そうだといい。
そして、彼が本当に笑える日が来るといい。いつまでもあんな顔をさせていては駄目だ。
(ゼロの神様が誰だか知らないけど、部下放っぽっといて何してんのよ)
神という存在は己の部下のためにすら尽力出来ないのか。
世界中の祈りや願いを無視してもかまわない。それでも。
――それでもゼロには、笑っていてほしい。
すぅ、と双眸を開く。
崩れた石の祠には相変わらず神々しさのかけらも感じとれない。けれど、自分自身の指標は見つかった気がした。
「ずいぶん長い祈りだったな」
隣の香姫はすでに祈り終えていて、老婦人とともにアリスを見下ろしている。
「素敵なお祈りは出来たかい?」
いたずらっぽく微笑む老婦人へアリスは、
「はい!」
と清々しい笑顔を向けた。




