きみをたずねてどこまでも②
――束の間の浮遊感が身体を包む。視界が一気に変わり、平衡感覚が狂う。どさっ、と冷たい床に、ゼロは勢いよく倒れこんだ。
「……っ」
手をついて上半身を起こす。多少眩暈がする他は、体調に異常はない。
「やあ、いらっしゃい。紫鳩くんには、おかえり」
声の方を向くと、全身黒に身を包んだ長身の青年がこちらを見下ろしていた。彼に寄り添うように、線の細い少女が立っている。
黒衣の青年の名は、東雲。火神使徒のなかでは一番顔馴染みだ。隣の少女は初めて見る顔だった。彼らの後ろには、どこか面白くなさそうに顔をしかめた火神の姿もある。
「いてぇー……」
見れば、ゼロの後ろで同じように床に転がった紫鳩が、不満そうにうめいていた。
「なんでこんな乱暴なんだよ……」
その台詞を聞くと、待ってましたと言わんばかりに東雲はにんまりと口の端を吊り上げ、
「いやー、紫鳩くんが僕の手を握ってくれてたら、もうちょっと優しくしたんだけどねぇ?」
悲しいなあ、と嘆いておおげさに肩をすくめた。
「だっ、誰が握るかお前の手なんか!」
「へ――ぇ。そうなの?」
場違いなほど爽やかな微笑をたたえる東雲に、紫鳩はさっとゼロの後ろへ隠れた。
(また盾にされた……)
――つかまれた左腕が痛い。
紫鳩はゼロの肩上から顔だけを覗かせ、なおも吠える。
「だいたいっ! なんで俺らの戦い邪魔してんだよ!」
別に戦いたくて戦っていたわけではないが。ゼロは紫鳩に気付かれぬよう、こっそりと嘆息した。
「えー? そりゃあ、あんなとこでのん気にケンカしてる場合じゃないからねぇ。無意味な戦いを止めてあげたんだから、もっと感謝してほしいなー」
「え? 東雲、紫鳩が優勢に見えたから横槍を入れたのでは――」
「ああ! あんなところに朱夏様が!」
一目見て嘘だと判る方向を指差した東雲に、それでも火神ユリウスは猛烈な勢いで食いついた。髪を振り乱してその方向に駆けてゆく。
「何ィ!? どこ、どこだ!」
「あっはっは、嘘ですよ。さすがユリウス様、その引っかかりっぷりが素晴らしいです。――それはそうと、口は慎みましょうね?」
……何故だろう、見た目は爽やかなのに、微塵もそんな印象を受けないのは。
彼の口から『朱夏』という名前が出たときは思わずゼロも引っかかりそうになったが、すんでのところで我に返った。危ない危ない。内心たまらなく動揺していたのだが、悟られてしまっただろうか。
相変わらずゼロを盾にした紫鳩が、後ろでわめく。
「おいコラ! 今の火神さまの言葉どーいうことだ! てめぇ俺が負ける方がいいのか! いーんだな!」
「誤解だよ誤解。もちろん、紫鳩くんのこと応援してたとも」
「嘘だ! ぜってぇ嘘だ!」
「まさか。可愛い紫鳩くんがゼロくんにバッキバキのボッコボコに蹴り倒されるさまを心から応援していたよ」
「そっちの応援かぁぁー!」
紫鳩と東雲の終わりなき応酬を、半ば唖然として眺めながら、ゼロはあるひとつの結論をくだした。
――火神眷属は、主も含めて全員、人の話を聞く気がない。
……ゼロはもう一度、深く深くため息をついた。
*
唸りをあげて突風が暴れ出す。
自然法則を無視して生み出されたその反動を全てぶつけるかのごとく、風の塊はアリスの結界を容赦なく叩きつけた。
ごわん、と響く低音。
それは間違っても「飛ぶ」などとは言えず。凄まじい衝撃に半ば引きずられ、下手をすれば舌を噛みそうになりながら、アリスは宙を舞った。それも相当な速さで。そのうえ恐ろしく低空飛行だ。
しっかりと抱きしめた香姫の長い黒髪が跳ねるようにたなびくさまを、アリスの目が捉える。うねる景色の向こうに霞んで見えるのは、高速で流れゆく木々。青と緑の洪水のなかに一瞬、黒い人影がよぎる。
(あれは……)
黒鷹隊の騎士、だろう。おそらくは。このまま飛んで行けば、かなりの距離を稼げるはずだ。その後はうまく撒かないといけない。
唐突に、緑の奔流が途切れた。と同時に、足が何かを蹴る感触。
「……ッ!?」
天地が引っ繰り返る。仰いだのは青みを増す空、そしてまた緑、ごうん、とたわむ風の結界。
「――っ、きゃあぁぁ!」
アリス達を取り巻く結界は急激に減速し、限界だとでも言うように弾けて霧散した。呪文による拘束を解かれたそよ風が、体勢を崩して転がり落ちたアリスの髪をさらって走り去る。
「い……ったぁーい」
うめきながらもなんとか起き上がり、頭を振って砂埃を払った。同様に投げ出された香姫は、見ればそう遠くない場所にやはり転がっていた。
「ちょっと……平気?」
「無論だ」
言葉通り軽々と上半身を起こし、香姫はすっくと立ち上がった。綺麗に結い上げた髪が強風のためかほどけかけている。顔にかかった一房を香姫は慣れた手つきで整えた。
その様子をアリスはぼんやり眺めていたが、ふと我に返った。窮地を脱したおかげかうっかり気を抜いていたようだ。今はそんな悠長に構えてられる場合ではないのに。
窮地ではないだけで追われている事実に変わりはないのだ。一刻も早くここから移動しないと。森の木々すら吹き飛ばして直進してきたものの、これでは自分達がどこを通ってきたか丸わかりになってしまう。逃げおおせた、というよりただ距離を稼いだだけに過ぎない。
(でも、ここ、どこ?)
アリスはあたりをぐるっと見回した。
どうやら森を抜けたらしいのは判る。遥か後方には青々と密生する木々、そして見上げた先にそそり立つのは鉄の柵だった。
一見無機質ながらも瀟洒な印象を感じさせる図柄で組まれた柵は、アリスの身長のゆうに三倍の高さがありそうだ。横幅はと言えば、先は砂塵に覆われて、まるで果てなどないようにどこまでも続いていた。
――これが、メルフェスと東ワールゲンを隔てる、国境。
これを越えれば、かの国だ。鉄柵の向こうに緑の田園風景を透かし見る。
やっと、ここまで来た。
アリスは息をのんだ。しかし、感傷に浸りたい気持ちをぐっとこらえて、アリスは香姫の手を取る。
「ほら、走って! とりあえず進むわよ」
鉄柵の片側は案外に近くで途切れている。途切れている、というより、そこが門なのだ。街道を迎える形で開かれた門前には、早朝という時間帯のせいか人影はまばらだった。
一歩近付くごとに、胸が早鐘を打つ。
(大丈夫だ、別に後ろめたいことはないんだから)
……たぶん。
アリスは門を目指す。
それに、――いるのだ。この国に。
アリスが捜している人物が。
*
「朝は人の通りも少ないですね」
窓枠に手をつき、ベルジェは身を乗り出して外を窺った。
隣で仕事をする兵士が、独り言のような彼の台詞に返事をする。
「まだ陽も昇ったばかりですしねぇ。もう少し経てば、行商人やら乗り合い馬車やらで賑やかになるんですが」
「ほう。封鎖が解かれてまだ間もないというのに、それは良いことです」
「メルフェスもですが、うちの国から東へ向かうには、ここを通るほかありませんから」
後ろから別の声がかかる。
「ああ、うちの国、東側は迷いの森なんすよね。さすがにあっちから出る奴はいないでしょ」
ついさきほどまでベルジェと陛下の話で花を咲かせていた兵士だ。ややそばかすの浮き出た頬を指でかきつつ、あそこは命がいくつあってもごめんだぁ、などとこぼす。
短時間でかなり親しくなった彼をベルジェは肩越しに振り返り、
「ケルツェルンですね。あそこは未開の地が多く、地図もないので迷いやすいのでしょう」
近隣数ヶ国に渡って広がる森は、その広大さのためかいまだ全貌を把握しきれていない。サリエリの話によれば、目的の人物はその森に入ったらしいが、まさか迷っているわけではあるまい。どのみち、メルフェスからにしろケルツェルンからにしろ、兵士が言ったように、入国出来る門はここしかないのだ。
ベルジェが束の間思案に耽っている間に、会話の話題は迷いの森から街道封鎖へ戻っていた。
「あれ本当参りましたよねー、それまでここ通ってた行商人なんか、商売あがったりだって愚痴ってましたっけ」
「仕方ないだろう、完全に封鎖せよとのお達しだったんだから」
しかし不便だった、と仕事をしている方の兵士がぼやく。
ベルジェは窓から離れ再び椅子に腰掛けた。柔らかな手振りをまじえて話に加わる。
「完全とは言っても、私達軍部の者は出入り出来ましたよ。もちろん申請しないといけませんでしたが」
「あっ、何か任務でしたか?」
武勇伝でも聞けると思ったのか目を輝かせるそばかす兵士に、ベルジェはにっこり微笑むと、
「いえ、派遣先から帰還しただけです」
そのときに通らせていただきました、と懐かしげに目を細めて、窓の向こうの門を見た。
*
脇目も振らず一心に門へ歩を進めるアリスを、香姫の声が呼び止めた。
「私達、入っても大丈夫なのか?」
振り向かずにアリスは答える。
「大丈夫よ、確かにあちこち汚れてるしあんたは変な格好してるけど、ここで変におろおろしたりしようもんならそれこそ不審者だわ。こういうときは正々堂々と行けばいいんだから。それに、」
「それに?」
ぴたりと立ち止まって、反問する香姫へ勢いよく振り返る。一応あたりを窺いながら、アリスは小声で、
「あたし達、あの騎士隊に追われてるのよ! 後ろが駄目なら前に進むしかないでしょう!」
「それもそうだな」
限りなくやけっぱちなアリスの台詞だったが、しかし香姫は真面目な顔で頷いた。
「とりあえず何か聞かれたら、あたし達は旅の一座ってことにしよう。本隊とはぐれたって設定ね。あんたは踊り子、あたしは魔道士」
「回りくどい嘘だなぁ」
「仕方ないでしょー! それ以外にあんたのその格好を説明する理由が思いつかないんだから! 別にここで別れたっていいんだからね」
「む。……それは困る」
顔をしかめて、意外にも香姫は不承不承従った。
「こんな知らない世界の知らない場所に置いていかれるのは……」
肩をすぼませてつぶやくそのさまがあまりにも心許なく見えたので、思わずアリスは首を振った。
「じょ、冗談よ冗談! あんたには……えっと、そう、聞きたいこととか山ほどあるし! 当分離さないから覚悟しなさいよ」
「何を言うか小娘。私がおまえを手助けしてやっているのだ。こうしてついて行ってやることを有り難く思え」
「なんですって」
「なんだと」
そのまましばし睨み合うこと一刻。
いがみ合いをしている場合ではないことに気付いたのは香姫も同じだったようだ。どちらからともなく視線を外し気まずげに咳払いなどしてみせる。
(とりあえずは一緒にいた方がいいわよ、ね)
出会いこそ悪かったがゼロとはぐれた今彼女はアリスにとって唯一の情報源、そして戦力である。たとえ目的が相反していても、だ。不利な点はと言えば、彼女と一緒だとよけい問題が増えそうだということくらいか。
その程度ならさして支障はない、とアリスは割り切った。
否、もとより問題だらけなのだ。この先ひとつやふたつ増えたところでそう変わらない。もしかしたら未来の自分は嘆くかもしれないがそれはそのときだ。
「よーし、そうと決まればちゃっちゃと入国するわよ!」
「おー!」
そしてふたりは、東ワールゲンの地へと足を向けた。
*




