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銀の翼を天使と呼んだ  作者: 早藤 尚
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未明の攻防②

 部屋のちょうど真ん中、虚空に揺らめく水鏡のような鏡面に、ふたりの使徒の姿が映っていた。

 ひとりは全体的に白い印象の。もうひとりは、両の手に長槍を携えた。


「ゼロくんもなかなか攻め入らせてくれないねぇ」

「ああ。だがうちの紫鳩の力はあれしきのものじゃあないだろう。なにしろ私こと火神に属する使徒なのだからな!」

「うわーすがすがしいほど親ばかですねー」


 まったく感情のこもらない言い方で感想を述べ、東雲(しののめ)は長い脚をゆったりと組み替えた。寝そべるように身体を転がせた長椅子の隣には(さきは)がいて、やはり無言で行儀良く座っていたがそのちいさな額には淡く薄く紋章陣が輝いている。それは映像の縁を彩る紋様と同一で、連動しているように細かく明滅していた。


「でも見たところ、相性良くないのでは?」


 そう言って、東雲はティーカップを持ち上げ口をつけた。

 柔らかな椅子が直角に挟むローテーブルには花柄のティーカップがあとふた組。それと砂糖壺、ミルクポット。中央には甘い匂いを漂わせる焼き菓子までもが置いてあり、優雅なお茶会といったていだ。

 人間界へ行った使徒ふたりの苦労をよそに火神は丸い菓子を手にとりぱりんとかじる。


「多少の苦難、熱き意志で打ち破るのが火神眷属というもの!」

「あーなるほど。だからユリウス様は何度振られても諦めないんですね。たいした図太さ、いえ精神力ですね」

「お前今わざと言い直しただろう」

「いえ、最適な言葉を使ったまでです。他意はありませんよ、もちろん」


 いつもながらのふざけたというよりは気の置かないやりとりが一通り終わると、幸がふいに東雲を見上げた。


「どうしたんだい、幸」


 主に普段紫鳩達へ向ける顔とは違う、柔らかな笑みで東雲は幸の視線を受け止める。小柄というよりは線の細い少女の(みどり)色の瞳が一瞬迷うように揺らいだあと、


「『黒夜』って、なに?」


 短く問いを発した。


「あの王が、それを言ったとき。東雲も、火の神様も、へんだった。……黒夜は、なに?」


 言葉に詰まる火神をちらと一瞥し、東雲は淡々と――彼にしては抑揚の乏しい口振りで――説明を始めた。


「人間界の一部の地方に伝わる古い信仰さ。幸にも教えてあげたことがあるだろう? 英雄の話、神々の話、さまざまなお伽噺を。それらと同じだよ」

「かみさま?」


 幸の視線が主である火神へ向けられたことを察すると、


「もちろん僕達とは違う。人間界に伝えられている神話は、ユリウス様達天界の神々をなぞらえたものもあるけれど、黒夜に限って言えばまるで別物だ。――あれは、人間が生み出した……お伽噺だよ」

「そう、空想の話だ。幸が気にするようなことではない」

「どんなおはなし?」


 火神は早くこの話題を終えたかったようだが、幸は気付くそぶりもなく再び東雲へ視線を転ずる。黒衣の使徒は一呼吸、間を空け、望まれるまま静かに口を開いた。


「昔々、――もうずっと昔の話だ。

 世界の滅びが訪れるならそれはきっと暗黒に飲まれて終わるのだろうと、その国の人々は思っていた。真っ暗な、音も光もない、果てさえない。そんな終末を、彼らは予感……そうだね、予感していたんだろうね。純粋な畏怖という名の、信仰だよ。けれど長い年月に本来の意味――何故、忌避するのか、黒夜とは何か――が失われ、現代にはただ、漠然とした畏怖と、断片的な言い伝え、そして魔除けのならわしだけが残ったのさ。


 その耳を澄まして聞くがいい

 狂い(たけ)る闇の咆哮を

 (くら)き瞳へ映して知るがいい

 まことの(つい)の深淵を


 欲すれど暁は訪れず

 さやかな御光(みひかり)のみが安寧へのしるべ

 沈黙の(かいな)に抱かれまぶたを閉じたなら

 きっと果てなる色を知るだろう


 それは名前のない災禍

 名前すら塗り籠めた凶兆


 我がここに伝えよう

 彼の国の最期を」


 まるで彼自身が詠んだ詩文であるかのように滔々(とうとう)と語られたそれはどこか物悲しい韻律だった。


「昔どこかの吟遊詩人が歌ってたんだ。聴衆に受けが悪かったのかあまり広まらなかったから知る人ぞ知る希少な伝承になったわけさ」


 と東雲は肩をすくめて、


「だから東ワールゲンの王は物好きというか、変わってるっていうか」


 蒐集家なのかな?と首を傾けてみせた。

 そんな年長者を見て幸は少し逡巡したのち、


「……わかった」


 ちいさく頷いた。

 普段あまり感情を表に出さない彼女にしては珍しく唇を固く引き結んでいて、解答に不満があるのだろうことはありありと窺えた。しかし幸は黒夜についてそれ以上尋ねることはせず、黙って鏡面へと顔を向けた。

 東雲はそんな幸の頭をぽんぽんと撫で、その純黒の双眸を細めた。


「……ところで、東雲」


 多少気まずそうに火神が呼ぶ。


「はい、何でしょうユリウス様」


 応える使徒はまったくもって余裕だ。


香姫(こうき)はどうしてる?」

「あー……」


 さっと視線が逸らされたのを火神は見逃さなかった。


「いや待て何も話すな。きっと聞かない方がいいに決まっている」

「いえいえ、主たるユリウス様の命ですから、お答えしましょう」

「聞かん。私は聞かんぞ!」

「香姫は今頃……まあざっくばらんに言うと森林を破壊してます」

「――何故そうなった!」


 しっかり聞いたうえ突っ込みまでして、案の定火神は盛大に頭を抱えた。

 こらえきれず肩を震わせる東雲と、それを無言で眺める幸と。いくらか人数が足りないがそれは火神廷の変わらぬ常だ。事態こそ非常であるもののこうして平素と違わぬ空気になれるのは火神ユリウスの人柄のたまものである。賑々しさでは天界一と噂される彼らは、ひとしきり笑ったあと再び鏡面のなかの眷属を思い思いに応援するのだった。


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