彼の事情と彼女の事情③
目が覚めたら、天に月はなく、夜の帳は透けるように東の空から白くなり始めていた。盆をひっくり返すがごとく、これまでの出来事が物凄い勢いで反芻される。
(あたし……、寝てた?)
そうだ。少しでもと、仮眠をとっていたのだった。アリスは数回ぱちぱちとまばたきをして、自分が置かれている状況を改めて認識した。
そして、思い出したように感じる握った手の温かさ。
「――……ゼロ!」
飛び起きて彼の名を呼ぶ。
「なんだ、起きたのか」
そこに居たのは、青灰色の髪を持った色白の青年――
「こんなとこで寝るなんて寝穢いぞ、小娘」
ではなくて、極彩色の衣装をまとった黒髪の少女だった。
「あ、本物の放火犯」
「なっ! ほほ放火なんてしてないぞ私はっ!」
「めちゃくちゃうろたえてんじゃないのよ! あんたのせいであたしは濡れ衣かけられたんだから! 責任とりなさいよ放火犯!」
「火はつけたが放火はしてない!」
「それを世間じゃ放火って言うんだこのおバカーッ!!」
肩でも揺さぶってやろうと、手をあげた瞬間、夢のなかでも感じた温もりがいまだ自分の手に宿っていることにアリスは気が付いた。
思わず右手に視線を落とす。
「ッ!?」
「念のため言っとくが小娘の方から握ってきたんだからな。……わ、私じゃないぞ私じゃ」
「なに恥じらってんのよ……」
ほのかに頬を染めて目を伏せる黒髪の少女に向かってげんなりと呟きながら、放り出すように握った手を離した。
「――はっ! そうだ、ゼロは!?」
腰を浮かせて彼を探してみたが、どこにもその姿は見えない。
朝露を抱いた草木に、遠くで鳴いている鳥の声。夜闇を追い払うように刻々と白み始める空、その景色のなかに青灰色の髪の天使はどこにもいなかった。
「あいつなら私がここに来たときからいなかったぞ」
せっかく捕まえられると思ったのに、と黒髪の少女は口を尖らせた。
「いないって、なんで!?」
「そんなの私が知るか」
つっけんどんに返された答えに、アリスは半ば混乱し両手で頭を抱えしゃがみ込む。
(いない……いない……いない!?)
それは紛れもない事実だ。だが頭がそれを受け入れてくれない。
(一緒に行こう、って言ったのに)
言ったのに。
手を握ってくれたと思ったのは、夢のなかだけだったのだろうか。
あのとき、彼はどう答えたっけ。思い出せ、思い出せ。
――たき火の揺らめく明かりのなかで。薄衣のようにこぼれる月光のなかで。
(ゼロは、笑ったんだ)
ほんの少し、微かに、口の端を緩めて眩しそうに。
笑った、だけだった。
一緒に来てくれるとは、ただの一言も口にしなかった。
(あたし何を勘違いしてたんだろう)
何の根拠もなく、ゼロは自分と一緒に来てくれるのだと思っていた。
――そんなわけないじゃないか。
お互いがお互いにちょっと巻き込まれただけで、元々は昨日会ったばかりの見ず知らずの人。彼に東ワールゲンへ行く用事などないし、彼には彼の目的があったはず……。
ふと、自分の隣に居座る少女を見遣る。
「ねぇ放火犯。あんたはゼロを捕まえるために追いかけてるのよね? てことは……、あんたもその……天、じゃなくて使徒、なの?」
「その通りだ小娘」
何故かやたら偉そうに、黒髪の放火犯は胸を反り肯定した。
「……あたしの名前はアリスって言うの! いつまでもいつまでも小娘呼ばわりしないでくれる?」
「私だって放火犯じゃないぞ! 香姫という、父様から賜った立派な名前があるのだ」
「いやあんたは紛れもなく放火犯でしょ」
「お前だって見た目小娘じゃないか!」
「なんですってー!!」
わめくアリスの背につん、と硬いものが触れる。感触からいって、何か鋭利なものだ。
「……?」
訝しげに振り仰いで、アリスは硬直した。
「メルフェスの宿屋にいた子だね? 少し話を伺いたい」
そこにいたのは、黒地の軍服をまとった三人の騎士。忘れもしない、つい数時間前に倒してきた騎士と全く同じ――黒鷹隊だった。その三人のうち、声をかけてきた騎士の剣がアリスの背中に触れている。もちろん鞘から抜かれて。
抜き身の剣を押し当てられてする話なんて、物騒なことこのうえない。
(でも、なんで見つかったの……?)
「なかなか元気がいいみたいで助かった。おかげで見つけることが出来たよ」
つまりは騒いでいたから見つかったということだ。
(あたし学習出来てないー!)
以前街道で見つかったときの二の舞であることに軽く自己嫌悪して、アリスは自分に剣を向けている騎士を睨みつけた。
他ふたりは中肉中背だが、こちらは筋骨隆々としており、黒鷹隊の軍服があまり似合っているとは言えない。よく見たら揃いも揃っておじさんだった。
「とりあえず、その剣しまってくれないかしら。話はそれからよ」
精一杯はったりを効かせると、意外にも騎士は黙って剣を鞘に収めた。
アリスの頬を冷や汗が伝う。香姫は平然としていたが、アリスにだけ聞こえるくらいの声でぽつりと呟いた。
「出たな横奪り軍隊」
「はあ? 何それ」
少々呆れ気味に、だがこちらも語気は落として、アリスが尋ねる。
「私とこいつらと、追ってるものが同じなんだ」
「同じ……って、ゼロ?」
こくりと頷く香姫。
「そうだ。だから早く居場所を教えろ、小娘」
「そんなのこっちが知りたいわよ! ていうか、あんたは探せないの? 放火犯」
「探せる奴はいるが、さっきから連絡がとれない」
そう言って眉根を寄せる香姫に、アリスは深くため息をついてから騎士を見上げた。香姫はまだ、柴がどうとかよく判らないことをぶつぶつぼやいている。
「内緒話は終わったかな?」
態度だけは努めて友好的に、筋肉騎士はアリスを見た。
……この状況は良くない。前のときはゼロがいた。ほとんど彼のおかげで乗り切れたと言ってもいい。
(でも、今はいない……)
とりあえず、おとなしく捕まるわけにはいかないのだ。
けれど、頼れる彼はここにいなくて。
アリスは心のなかでぶんぶんとかぶりを振った。
(違う違う! そうじゃない。誰かに頼る前に自分でなんとかする!)
――彼にばかり、助けられてはいけない。
とは言え、舌先三寸でどうにかなる相手ではない。となると正面突破だが、それだって成功する確率は格段に低い。それでも、やってみなければ判らないのだから。
アリスはなんとか自分を奮い立たせると、ちらりと横目で香姫を窺った。
自分はともかく、問題はこの少女だ。ゼロを追っているのだから言わばアリスの敵である。しかし、ゼロの行方を知りたいという点ではアリスと同じではあるし、目の前の騎士達に構っていられないという点でも利害は一致していると思う。今だけでも共闘出来れば、それにこしたことはない――と、アリスが心中悶々としていたとき、不意にぽつりと、それこそ何でもないことかのように香姫が、
「藤裏葉」
言葉をこぼした途端、突如唸りをあげて強風が発生した。あおられてたまらず騎士達はたたらを踏む。
「何だ――ッ!?」
「お前達うるさいぞ。ていうか邪魔だ。退け」
言い放ち、香姫はすっくと立ち上がる。
体勢を戻した騎士が語気を荒らげて、
「貴様、我らを愚弄する気」
「ウィンドアロー!」
台詞を言い切る前に今度はいくつもの鎌鼬によって騎士達の身体に裂傷が走った。
「そうよねー、あたしにはコレしかないもんね。何悩んでたんだろ。あんたの一発のおかげでなんか吹っ切れたわ。ありがとね、放火犯」
呪文を放った自分の掌を確かめるように見つめて、アリスは香姫に笑いかけた。




