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銀の翼を天使と呼んだ  作者: 早藤 尚
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銀色と黄昏の夜①

 それは最初、自分に向けられた台詞かとアリスは思った。考えるまでもなく、そんなわけはないと我に返って恥ずかしくなったりもしたが。


『……誰かを殴ったその手で、触れたくないんだ』


 そう言った彼の瞳がとても真摯だったから。

 だから。

 ……つかの間、目を奪われたことは事実だ。そして、ほんの一瞬、胸の鼓動が跳ね上がったことも。


(触れたくない……って、誰に……?)


 心のなかで首を傾げてみせるも、すでにその答えをアリスは知っている気がする。

 それは、きっと。

 ――脳裏に、ゼロを追いかけてきた少女の言葉がちらつく。


(たぶん、ゼロは暴行なんてしてない)


 汚れた手で、その人に触れるのを躊躇うような人が、……そんなことはしない。

 何より、そんなわけがないと、アリスは信じたかった。


(ううん、――あたしはそう信じる)


 目の前には火影に揺らめく謎多き天使。月下に映える青灰色、その奥に灯る明るい樹木色の双眸に。

 たとえ成り行きだったとしても、何度も何度も助けてくれた彼を、信じる。

 今この瞬間、アリスはそう決めた。

 と、同時に、心の端が妙に痛んだ気もしたが、今はまだ気付かなくていい。


「……すっごい、大事なんだね。その人のこと……」


 応える天使はとてもせつなそうに、それでいて酷く愛おしそうに、ちいさくちいさく微笑んだ。


「ああ」



          *



『はいそこ。右に十歩、左七歩、くるっと回ってまた左に小走りで六十二歩進む』

「えぇ? 右……十歩、で左がなな……? んで回って……、っておいこら何で回るんだ全然意味わかんねぇ! しかも小走りって何だ小走りって!」

「小刻みに走るんだろ?」

「あっそーか。って違ぇーよそれに意味はあんのかって話だよ!」

『もちろんあるとも、紫鳩(しばと)くん』

「あんのか!?」

『――僕が楽しい』


 ……この腹黒陰険人でなし野郎。

 紫鳩は一瞬目の前が真っ暗になる感覚を覚えた。頭のなかに直接響いてくる東雲(しののめ)の声は、そりゃもう楽しくて仕方がないといった口調。


「ほら、紫鳩。一回まわってワン」


 くいくいと紫鳩の服をひっぱりながら、真顔でふざけた要求をする香姫(こうき)も香姫だ。というか主旨がまったく変わっている。

 紫鳩はこめかみをひくつかせ、姿の見えない参謀に向かって口を開いた。


「……あのなあ東雲。俺は道案内を頼んだんだぜ?」


 不覚にも迷子になってしまったのは自分達だ。このまま手間どるよりは、と、血迷ってこんな奴に助けを請うたのがそもそもの間違いだった。


『そうだねえ。僕も真面目に案内してるつもりなんだけど、おかしいねー』


 微かにこもって聴こえる東雲の声は、いかにも心外だと言わんばかりだ。


「どぉこが真面目だどこがッ! さっきからあっちこっち歩き回らせやがって」

『いやー、紫鳩くんがあんまり素直に動いてくれるものだからちょっと愉快な気分になっちゃって』

「俺は全然ユカイじゃねえ……っ!」


 遊ばれるのはいつものことだが、相手の姿が見えないと余計腹が立ってくるのは何故だろう。紫鳩は声もなく、握った拳をふるふる震わせた。

 この通信能力は、対東雲にしか使用出来ない。誰の能力かと訊かれればそれは、東雲のものだろうとしか言えないのだが、彼が普段これを使っている様子を見たことがないので断言は難しい。相手は東雲に限られるが、受けるのは複数でも良いらしく、今も紫鳩の他に香姫にも東雲の声が聴こえているはずだ。


(本っ当に、何でもありな奴ー……)


 そろそろ星明かりも薄らいできている。つまり夜の終わりが近いのだということくらいは紫鳩でも承知している。早く行動しないと本格的にゼロを見つけられなくなってしまう。


「それはそうとして、東雲」

『なんだい、香姫』

「紫鳩の一人芝居も面白かったのだが……」

「一人芝居なんかしてねえよ」

「物凄くしてたし面白かったぞ。で、東雲。どこを進めば一番早いんだ?」

『いいよ、最短の道筋を教えよう』


(さい……たん?)


 呆ける紫鳩に東雲がくれた言葉は。


『よく覚えときなよ、紫鳩くん。これが上手な道の尋ね方だから』


 つまり。


(俺のはまるっきり聞き損歩き損てわけ……!?)


 ……報われない。あまりのことに紫鳩はふらりとよろめいた。


『月が見えれば判りやすいんだけど』

「月は……見えないな」

『じゃあ星の位置から方角を知るしかないね。まず天頂に蒼い星が見えるはず。そこからちょうど拳ひとつぶん離れた場所に白い連星があるのは判るかな?』

「うん。見えたぞ」

『進むべき方向はそれと真逆だ。香姫ならこういうの得意だよね』


 東雲の台詞に香姫は長い黒髪をなびかせ、目的の方角へ向き直り不敵に笑う。


「任せろ。大得意だ」


(――こいつ、邪魔なものはすべてぶっ飛ばす気でいやがる……!)


 後ろで青ざめる紫鳩をよそに、香姫はすっかり張り切っていた。

 鬱蒼と生い茂る夜の森が、心なしか恐怖に震えたように見えた……。


『……なんかいろいろと楽しそうだなぁ。僕も行こうかな』


 ――ああ。今すぐ気を失いたい。

 紫鳩はそう、切に願った。


        *

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