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銀の翼を天使と呼んだ  作者: 早藤 尚
11/75

追跡劇、始まる①

 人々の喧騒が遠くに聞こえる。ぱちぱちと、火の粉の爆ぜる音だけが、耳に響く。


(……今、なんて言った……?)


 アリスは止まっていた思考を再回転させ、さきほどのことを思い返してみる。

 木の上で、こちらをきっと睨みつけている少女。黒髪の、あまり見かけたことのない衣装をまとっているこの少女が、ゼロのことを「主に暴行を働いた男だ」と告げた。何度思い返しても聞き違いはない。


(それって……、つまり……)


 宿での部屋選びの際、交わした台詞が思い出される。

『……こんな見ず知らずの男と相部屋する気か? 無防備なのはどっちだ』


(――ま、まじで……!?)


 思わず体が硬くなる。

 何故なら、今まさに、そのゼロに自分が抱きかかえられているからだ。今アリスを支えているこの腕が、手が、……そんなことをしたのだろうか?

 背筋に悪寒が走る。

 当のゼロ本人は、顔を背けてしまっていてその表情は窺えない。

 反論をしないということは、それは肯定?


「お……お、降ろして」


 なんとかそれだけ言うと、ちらりとゼロはアリスを一瞥して、無言のまま静かに彼女を降ろした。

 同時に、ゼロの背中から生えていた一対の翼も夜の闇に溶けるようにして消えていく。

 ……そうだ、あの翼のことだって訊かなければいけない。ゼロの正体は何者なのか、あの少女だって、どんな関係があるのか。答えを聞かずにすませられるほど、自分は寛大ではない。

 炎の明かりに揺らめくゼロは、アリスが初めて会ったときと何も変わらない。ただ、その表情には、少し苦悶の色が見える気がした。


「――小娘。その男にもうかかわるな」


 極彩色の衣の少女が言い放つ。

 アリスは少女に向き直り、


「……関わるなって言われたってねえ――」


 もう充分巻き込まれている、と言おうとしたそのとき、いまだ炎をあげ続ける宿屋の方からひときわ高い喧騒が聞こえた。火事によるがや騒ぎ……ではないようだ、何か叫んでいる。


(違う……こっちに向かってきてる!?)


 ばたばたと、人混みをかきわけて出てきたのは、宿屋の主人だ。その主人はアリスと目が合うなり、びっと人差し指を突きつけ、


「隊長さん! あいつです! あの女の子が泊まった部屋から火が出たんですよぅ!」

「――え」


 主人が振り返って叫んだ先を見れば、壮年のなかなか渋い男の姿がある。姿勢良く伸びたがっしりした体格、暗い色の髪を後ろに撫でつけたその顔は、いかにも生真面目そうで厳めしい。


「早くとっ捕まえてください! こらお前何もかも弁償してもらうからな!」


 後半はアリスに向けた台詞だ。


(……ええ!?)


 隊長、と呼ばれていた男は、重々しく頷くと、


「ご主人。ご苦労だった」


 と言って、迷うことなくこちらへ向かってくる。その姿は、漆黒の軍服に身を固めて――


(……って、――えええーっ!? いや、そうじゃなくて、そうじゃなくて、軍服、あの軍服って!)


 あの衣装は間違いない。


「――ゼロ!」

「……は? って、おい!」


 傍らのゼロに声をかけ、返事も待たずに腕をひっつかむ。

 そしてくるりと方向転換。

 それに気付いた隊長が駆け出す。


「――逃げるわよ! 全速力で!」


(……あれは、国家直属の護衛隊じゃないのーッ!!)


 宿屋を燃やしたのは自分じゃないのに!


 ――そして、種族も職業も階級もこえた、大波乱の追いかけっこが始まるのだった。


         *



「……明朝には……か、…………」


 ふっと耳へ入ってきた言の葉のかけらに、金髪の青年はほんの一瞬だけ談笑を止めた。

 気付かれぬよう、耳だけをそばだてて注意を向ける。


「それで、そのあとはどうなりましたの?」

「ブラン少尉は本当お話上手ですこと。焦らさないで教えてくださいまし」


 目の前では華やかに着飾った貴婦人達が先を先をと次々にせがむ。

 興味津々といったていで好奇心に光る瞳を前にして、青年は柔らかく笑みを浮かべた。どこか人懐っこさを感じられるその微笑は、貴婦人達の頬を染めるには充分すぎるほど甘い。

 青年は婦人達とひとりひとり目を合わせ、再び話を続けた。


「苦難の末テディウスがたどり着いた楽園、そこは精霊の里でした。里に人間がやって来たのは初めてのこと。精霊達は皆驚いたものの、ここまでたどり着いた意志の強さを歓迎しました」


 城館と隣接した広いテラスに他の人影はなく、隠れられるような場所もない。では聞こえた声はどこから発せられていたのか。


(城館側の回廊、か)


 青々茂った庭木が邪魔をして青年と貴婦人達の姿は見えなかったのだろう。まして今は夜、星明かりがあるといっても暗いのはテラス側だ。

 おおかた、周囲は無人と思いこみ人目――この場合は耳か――を憚る注意さえ怠ったに違いない。

 青年はそう結論づけると、いっそう耳を凝らした。


「本当に……、……?」

「……がない。……うするべき……」


 詳細は聞き取れないが話の語調でどのような内容なのかは察しがつく。

 十中八九、国王陛下について、である。しかも、あまり良くはない類いの。

 現在外遊中で留守にしているとはいえ、当の本人の居城たる王城で、しかもこんなに聞かれやすい場所で陰口めいた行為に走るとは。青年はそっと溜め息をつく。

 会話の行く先に一抹の懸念を感じたものの、彼は素知らぬ振りでお伽噺を再開した。


「テディウスはそこで精霊王の宴に招かれました。異郷の王宮はかくも見事な豪華絢爛、開かれたるは色鮮やかな華の宴。すべての輝きが集結したかのような催しに、テディウスは心から酔いしれました。

 精霊王は彼を一目見て気に入り、それはそれは篤くもてなしたそうです。いつしかふたりの間には、種族を越えた情が芽生え始めました」


 物語もそろそろ佳境だ。

 肌を撫でていく、湿り気を含んだ風にか青年はわずかに口角を持ち上げる。

 それもまた、貴婦人達を蕩けさせたことまではさすがの彼も気付かない。


「交わした友愛の証に、精霊王は自身の魔法をテディウスへ与えました。魔法とは、精霊族だけが使える神秘の力。炎を生み風を操り、地を割り雨をもたらす、不思議な力。

 テディウスはありがたく受け取り、数多の精霊達に惜しまれながら里を去りました。王の他にも、テディウスは多くの精霊に愛されていたのです。

 そうしてテディウスはふるさとへ、人間の町へ帰ってきました。魔法という、新たな力を携えて。――精霊達は、別れたあとも、テディウスをずっと想っていたと言います。もちろん、今このときも」


 青年が手振りで終幕をあらわすと、貴婦人達は皆一斉に拍手を送った。

 ぱちぱち。

 さほど大きくはないがちいさくもないその音は歓声も相俟って屋内に青年達の存在を伝えるに充分だったらしく。

 ぱたりと消えた気配を追うのは諦め、青年は優雅に礼をした。身にまとった軍服からは不釣り合いとも思える所作だったが、彼の容姿にはぴったりである。


「少尉とお話するのは本当に楽しいわ。時間を忘れてしまいそう」

「ありがとうございます。貴女のお気に召す話を語ることが出来て私も光栄です」

「彼らが交わしたのは友誼だけだったのかしら……思わず詮索してしまいそうだわ。ところで少尉、今のお話は何と言う戯曲なの?」

「『賢雄テディウスの帰還』のさわりですよ、エッカルト夫人。以前仕事で赴いた先では有名なお伽話のようですね。そちらでは舞台の演目として定番なのだそうです」

「まあ、他国のお話でしたの。希少な経験だわ」

「他にもありますの? ぜひ聞かせてくださいまし」


 貴婦人達はそれぞれに盛り上がるが青年はあまり乗り気ではないようだ。


「それはもちろん結構ですが、夜も更けてまいりました。皆様今夜は月の御光のあるうちにおやすみになられた方がよろしいのでは?」


 青年の台詞に貴婦人達は何事かを悟ったように夜空を見上げた。

 地平近くに浮かぶか細い月は今にも消えてなくなりそうだ。


「……そうですわね。少尉のおっしゃる通りだわ」


 誰からともなく頷き合い、城館への階段を上がる。


「意地悪な方ですこと。すっかり興醒めよ」

「それは大変失礼をしました。気分が塞ぐようでしたらまたいつでもお呼び立てください」

「それはいいけれど」


 貴婦人のひとりが首を傾げる。


「お仕事の方はよろしいのかしら?」


 その目線が軍服の胸元へ向けられているのを察すると、


「ええ。もとより暇を持て余していますし、それに明日は非番ですから」


 そこに留められた記章の色を隠すように手をあて、青年はにこりと微笑んだ。


「少尉は相変わらずね」


 あがった笑い声に誉め言葉としての意味は含まれていないのだが、知ってか知らずか青年の笑みは崩れない。

 ただ、テラスからの眺望へ一瞬目を遣った。

 テラスにも、付近にも、もう何の気配もない。

 あるのはひっそりと忍び寄る夜気と、静かに痩せ細る月だけだ。

 ――次の夜までは、まだ長い。


          *

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