かつやくんのこくはく 後
一連の出来事の後、勝也はより一層意識して由梨と距離を置いた。置かざるを得なかった。恋を自覚してから、どんどん自分が変容していく。いや、これが本来の自分だったのだろう。
由梨のお母さんは勝也の母親を通じ何度か由梨と話すよう働きかけてきたが、全て無視した。最終的には「年頃だしねえ」ということで双方の母親は見守ることにしたようだ。どうとでもとればいい。
母親同士の会話を盗み聴いてしまうほど、彼女のことが気になっている。由梨を遠ざけているくせに由梨のことばかり考えている自分をどうにかしたくて、様々なことに手を出した。いずれも大したことではないが、勝也の今の気持ちを顕すよう、どこか後ろ暗い行為だ。それに伴い外見も相応に変わっていった。
中学に上がる前には精通し、自分では制御出来ない現象も度々起こるようになった。変声期直前の成長痛がきつく、気分もイラつくことが多くなって家族とは度々喧嘩した。自分と違って万事巧くやれる兄の忠言なんざ聞きたくもない。自身が多忙なくせに厳格な父親に夜中に帰ってきたことを咎められ反発し殴られ、そのまま家出もしばしば。たるい学校や窮屈な家庭にうんざりし外に仲間を求めてみるも、どいつもこいつも似たか寄ったかでつまらない。所詮、こういう世界は似た者同士しか集まらないのだ。
自分の外見が女受けすること、適当に相手すれば発散になることなどもそこで知ったが、やはり飽きるのは早かった。たまに勘違いしたのに彼女気取りでベタベタされるのが鬱陶しく、しかし逐一相手にするのも面倒臭かったので寄ってくるのは寄ってくるままに任せて放置。こういうのは自動的に離れていく。それがいつしか誇張され更なる噂が広まったが、どうでもいい。
つまらない。どいつもこいつも、どれもこれもがつまらない。
たった一つの例外を除き。
別社会の刺激に誘われたこともある。だが、その例外が理由で断った。なんのことはない、捕まるのはやはり嫌だったから。院暮らしはゾク入りの箔になるぜ、と頭の悪い台詞を吐いた奴とは関わらないことを決めた。馬鹿につける薬など無い。
頭の軽い女はじめ、勝也の上辺のみで寄ってきたり好き勝手な噂を吹聴する連中はわかってない。勝也は悪に憧れているわけでも厭世を気取ってるわけでもないのだ。気まぐれでこういう世界に出入りしているだけで、入り込む気など毛頭無い。……遠ざけているからといって、想いが消えたわけでもない。
恋は、距離を置いたことで逆に深まっていた。
〇 〇 〇
中学二年の初夏、休日。
珍しく早起きした勝也は、悪い仲間の居るコンビニ前にもビル駐車場にも寄ることなく、着替えてから一直線にある場所に向かった。
公民館に隣接した市立図書館。閑静な場所にあるそれは、不良ないで立ちの勝也が訪れるにあまりに場違いだったが、要は入らなければ良い。
殆ど使われていない公衆電話ボックスの影で人待ち顔をしながら、そっと周囲を見渡す。――来た。
図書館が開く朝の九時半前、いつもの道からゆっくり歩いてくる小柄な姿。今日はくるぶしまで裾のある長いスカートを穿いている。そこらで見ないような、大人っぽいファッション。多分仲の良い母親からのおさがりだろう、凄く似合っている。真っ白なトートバッグとシャツ、ちょっと汗をかいた前髪を掻き分ける仕草。
(今日も、かわいい)
胸が高鳴る。どくどく鼓動するというより、きゅんきゅんと締め付けられるような、そんな奇妙な動悸。
中学指定の女子制服は野暮ったいデザインのブレザー。それでも可愛いが、やっぱり私服は格別だ。
そして今日も遠くから見ている、それだけだ。
あのことがあってから距離を置きつつ、でも想いを抑えきれなくて遠くからこっそり見つめる日々が続いた。そしたらすぐに、重大なことに気づいた。
――由梨はすごく可愛い。たまに食べちゃいたいくらい可愛い、という事実だ。
食べるってなんだよとたまに自分でツッコミたくなるが、本当にそうなのだ。耳とか、ちっちゃい鼻とか。口に含めそうなところをぱくっとしたくなる。特に唇なんて最高だ。
そして何より、胸が大きい。同級生の誰より大きく育っていて、形が良い。と服越しにわかる。でもでかいから好きってわけじゃない。由梨だから好きなのだ。
低俗な言い方で例えるなら、スカート捲りで子供っぽく喜んでいた男子がスカートの内側を細かく想像するようになる、そんな年代。十代入りたては男女間に一線が引かれることが多いが、だからこそ色々なことを妄想し、身体の欲求のままに視線が向くようになる。個人差あれど性的興味の具体性が高まり、成人向け漫画をこっそり貸し借りし合ったり、袋とじのある週刊誌を回し読みしたり、ネットでギリギリの画像や動画を漁ったり、クラスの女子やグラビアアイドルやらなんやらの品評が始まったりするのだ。
それにおざなりに混ざりつつ、勝也はいつでも思っていた。「なんだ、どいつもこいつも由梨よりかわいくねえじゃん」と。パーツパーツが良くても総合するとダメだ。こいつは由梨より鼻が高すぎて変な顔、こいつは由梨より胸がでかすぎて気味悪い、これは由梨より……。したがって、全部が勝也の好みである由梨が完璧、という結論に自分ひとりで落ち着いた。そして、由梨が勝也の好みど真ん中、それこそ三球ストレートで簡単に打ち取られるくらいたまらない女だということも思い知ったのだ。
手の平を置くにちょうど良さそうなおでこ。澄んだ瞳。両手で挟んで優しく潰したくなるほっぺ。合わせたいくちびる。受け答えしている声は、小学校の時と変わらないはずなのにしっとり落ち着いて、より優しく感じる。身長差も丁度良くなったし、抱きしめたら気持ちよさそうな身体つきは言うに及ばず。
見れば見るほど他の誰より可愛くて……綺麗な人。今まで由梨の内面とか雰囲気しか見ていなかったけれど、離れてみて初めて外見の魅力を識った。思い知った、の方がやはり適切か。
――羽田由梨は、勝也が思っていた以上に魅力的で眩しい女の子だった。
そんな女神様のような彼女に、勝也は余計近づけない。ひどいことを言った挙句、自分から世界の隔たりを作ってしまった今の勝也が近づけると思えない。あの誇張された噂はきっと彼女の耳にも入っているだろうし、その張本人である自分が彼女の前に出て行ってどんな視線を受けるかと考えただけで恥ずかしくて色々縮む。
(もし由梨にヤリチンとか言われたら軽く死ぬ)
自業自得だ。だから今もこうして見ているだけ、それが精一杯。触れたくとも触れられないなら、遠くから見つめられることを最上としなければならない。
補導なんてされたら、見つめることさえ出来なくなる。それだけの話だ。
ロングスカート姿の由梨が図書館に入っていった、それを見届けてから勝也はほっと息をつく。良かった、今日も由梨は一人だ。
遠くから気づかれないように見つめるには限度があるから、彼女の生活内容までは知らない。けれど見た感じ由梨の周囲に異性の影は無かった。たまに同性の友達と遊ぶ以外、至極真面目に、勝也と正反対な学生生活を送っていることが窺える。
日曜日にこうして図書館通いするのは、本好きというより勉強をするためらしかった。自分ひとりより適度に周囲に人が居た方が集中できるという、彼女らしい選択だ。塾通いもしていないのに成績は優秀で、貼りだされる順位は学年上位常連。それこそ、勝也とは違って。
「……」
なんだか気が重くなり、その日はすぐに帰った。途中で全然覚えてない顔に親し気に話しかけられ、更に陰鬱な気分になる。どうしてこういう頭の悪そうな奴としかつるめないのだろう。それはひとえに、今の自分がそうだから。頭悪い奴には頭悪いのしか寄ってこない。所詮、底辺は底辺なのだ。
家に帰ったら留守電が入っていた。今の底辺な勝也に未だに構ってくる、奇特な友人からだ。渋々と子機で電話すると、すぐに出た。
『よお』
「……なに」
『なにってなんだよ。休日にせっかく電話してやってんのに。暇だったら遊んでやるけど?』
「いらね。お前の方が暇なんだな」
『かっちゃんと違って学校生活真面目組だから暇じゃないよ。そっちもサボってばっかりじゃなくてたまには時間通りに登校しろよ』
「真面目組部活野郎はサボってんのか」
「残念でした、今はテス勉期間中ですぜ。オベンキョみてやろっか?』
「余計なお世話だっての」
受話器から聴こえる変声中のしゃがれた声の主は、かつての野球クラブメイトでバッテリー相棒だった佐倉卓だ。昔から世話好きでお節介で、こうしてマメに連絡を寄越す。学校でも物怖じせず勝也に話しかけてくるので、たるいと思いつつも無視出来ない。
……勝也にとって、底辺でない世界を見せてくれる貴重な相手だからだろうか。
『ところでさ、かっちゃん』
他愛ないことを話した後、佐倉はなんてことない口調で言った。
『羽田さん、この前の期末で学年総合三位だったって。すごいよな』
「……それ、俺に関係ある?」
『頭良いから南女の特進を目指してるんじゃないかって誰かが言ってた。南女って最近共学化したところだよな。男はまだ数人くらいしかいないってさ』
「……」
『でも、北高って手もあるよな。あそこは学費安いし進学率だけなら南女と変わんないし。あっちは男の数の方が多いぜ』
「……佐倉お前、何が言いてえんだよ」
『羽田さん、おとなしいけどけっこう可愛いからなあ。高校行ったらモテそうだよなあ。北高だと医学部目指してる理数科の奴とかインテリ系に声かけ、』
通話を切った。
佐倉には完全にバレている。だから奴はこうして試すかのように、ちょくちょくと彼女の話題を吹っかけてくるのだ。実のところ、今朝の図書館へ来るかもしれないという情報も佐倉経由だった。小学校からの顔なじみだからとはいえ、今の勝也より沢山話せているのが羨ましくて恨めしくて、胸がじりじりする。……あいつは人当たりの良い顔をして、かなりの策士で猫かぶりだ。さすが、「女房役」だった時から強かリードを誇っていただけはある。
そして、勝也はそんな佐倉の術中に完全に嵌っている。と言って差し支えない。今朝だってそんなわけでのこのこと出かけたわけだし、今もこうしてネットで進学校の偏差値を調べて一人で落ち込んでいるのだから。
……由梨は、どこの高校にいくのだろう。そしてどんな進路で、どんな未来を望んでいるのだろう。
佐倉の言うように頭の良い、いかにもな連中らが由梨に纏わりつく幻想が浮かんできて、唇を噛む。そういうのを考えただけで大いに焦り、胸が苦しくなる。今まで由梨は誰とも付き合っていないようだから、誰のものでもないから勝也は平気でいられたのだ。「見つめるだけで充分」な恋なんて、所詮その程度。
同世代の皆が言う「可愛い女子」の中にはちらほらと由梨の名前が入ることもあったが、耳にした勝也が不機嫌になることを感じ取ってからは誰も言わなくなった。不良のレッテルはこういう時には便利だ。誰より由梨が好きな勝也が近づけないのに、無神経にその他大勢が近づこうとするなんて赦せない。あの時の上級生のようにいやらしい目で由梨を見てる奴がそのことを口にしたら最後、同じことを迷わず繰り返すだろう。
もし由梨が特定の誰かの手をとったら。あの顔に、身体に。他の男が触れることを赦してしまったら。
(そいつを殺す)
みしり、ぼきっ、と音がした。見ると、メモ用に握っていた鉛筆が、勝也の片手でへし折られている。ああまたやっちまった、と静かに考えた。冷静な素振りをしながら、頭の中は沸騰せんばかりに煮えている。
想像上の嫉妬を、自嘲でかみ殺した。
「……は。変わってねえの……ッ」
今ではわかる。あの頃の自分と今の自分はやはり同じだ。関係性が伴っていないくせに、独占欲ばかり凄まじい。
折れた鉛筆を捨て、タブレットの電源を落として勝也は席を立つ。学校指定の鞄を取り出し、中身を久々に机に開けた。
勉強しよう、と思った。遅くとも、今からやらなければ。卒業まで一年と半年、どのくらい追い込めるだろう。今の自分は、どのくらい努力しなければならないのだろう。でも、しなければ。
そうしなければ、由梨は更に遠くに行ってしまう。想いを投げても投げても、まったく伝わらないほど遠くに。キャッチボールなんて到底無理なほど、違う世界に行ってしまうのだ。
取り返しがつかなくなるその前に。
(近寄りたい。近寄って……昔のことを謝りたい)
そして、新しく始めたい。大切な人と、大切な関係を。
夕方。
勝也は一人で、河川敷へ足を運んでいた。下流にはダムがあるこの地域、広めの河川には方々に橋が渡っている。雨が降らない時の水位は低めで、整備された階段やスペースは市民の運動場でもあった。
野球クラブに属していた昔はよく使用していた河川敷のグラウンド。そして、いつかのあの時は由梨とキャッチボールをしていた鉄橋の下。
そこに立つと、ありありと記憶が蘇ってくる。なんとも言えぬ思いと、そして新たな決意も。
家から持ってきていた軟式ボールを握りしめる。ちょっと準備運動をしてから、それを思い切り真上に投げた。思った以上に力が入った。コントロールもずれた。
「―――……あれ」
斜めに伸びあがった白球は鉄橋の下にとてつもない速さで吸い込まれた。そして、落ちてこない。レール下の縁に乗り上げてしまったのか、どこかの窪みに嵌ってしまったのか。
うろうろした挙句、どうしたってボールを取り戻せないと知れてちょっと自嘲気味の笑いが洩れた。
今の自分はこんなものかもしれない。
でも、一つだけプラスなことも判明した。
(あの頃より、遠くに投げられる)
そのことを、確信する。
――由梨ちゃん、待ってぇ
あの頃の、憧れの人に一生懸命追い付こうとしている小さな自分の背中が見えた。情けないのに、ちっぽけで必死で無様なのに、今の自分より遥かに前向きだったそれ。今考えるときらきらしていたあの背中に並びたい。
そして、前をゆく人に追い付きたい。きっと追い付けるはず。だって、勝也の大好きなあの子は誰よりも努力する子だから。努力する人は、自分と同じように努力する人間を認めてくれる。
ああ、と口が綻ぶ。久しぶりに、心の内側から燃え立つようなやる気が湧いた。
(由梨と一緒に居たい)
やっぱりこれが、本来の勝也なのだ。