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かつやくんのこくはく 前


 物心ついたころから、白鳥勝也にとって羽田由梨という女の子は誰よりも大事な人だった。それこそ、自分自身よりも。



 由梨は覚えていないだろうが、保育園の頃の勝也はとても内気で引っ込み思案だった。母親の後ろにいつも隠れ、怖いことがあるとすぐ逃げ出し、泣いて縋る。時に通園もままならない。父親はそれが気に食わなかったようで、何かあると常に「男だろう」「男のくせに」「お前は女か」と叱った。それは父親なりの励ましだったのだろうが、如何せん言葉足らずで前時代的でもある。母親もそんな父親の教育方針に苦笑しつつ口を出さない。幼少の勝也にとって父親は怒ってばかりの恐怖の対象、社交的で器用な兄と違って不器用で後ろ向きでもあったし、放っておけば無用な鬱屈を招いていただろう。

 男らしいってなんだろう。女っぽいって、悪いことなのか。

 歪んでしまいそうだった勝也を歪ませないでくれたのが、年中組の時に出逢った由梨だ。

 おままごとより外で遊ぶことを好み、女の子なのに男の子に混じって元気いっぱい遊ぶ。誰も仲間外れにすることなく、誰の悪口も言わない。具合が悪くなった子に誰より早く気づき、先生に言う。そして優しい。鬼ごっこで誰にも追い付けず一人で泣きそうになっていた勝也に気づいて「ユリも一緒に鬼やる!」と言ってくれた。運動神経が良くて足がすごく速くて、皆に「ずるい」と言われてもニコニコ笑っていた。彼女が居ると場がぱっと明るくなるようで、皆に引っ張りだこ。そんな子が、誰にも好かれるすごい人が、勝也に親し気に話しかけてくれたのだ。

「ねえ、かっちゃんって呼んでいい?」と。


 小さな勝也にとって、小さな由梨はスーパーヒーローだった。自分もこうなりたいと憧れた。仲良くなりたいと願った。……ずっとそばに居たいと。


 一緒に居たいから、追い付きたかった。当時の勝也にとって由梨は純粋な目標で、男とか女とか関係なかった。小難しいジェンダー論とかそんなのは置いといて、目の前に目標があったからこそ迷わず突き進めた。父親に怒られて強制的に、ではなく、身近な人に憧れて心底なりたかったからこそ、変われた。巧くやれる兄へのコンプレックスとは関係なく、生まれて初めて自分のための努力ができた。

 由梨ちゃんが泣かないから、お注射の時に自分も泣かない。由梨ちゃんが怖がらないから、自分も通園時に近所の犬を怖がらない。由梨ちゃんが挨拶をするから、自分もちゃんと大人に挨拶する。由梨ちゃんがこうだから、由梨ちゃんがこうするから……そういったものを積み重ね、いつの間にか勝也は内気も引っ込み思案も解消していた。父親も優しくなり、叱ることも少なくなった。

 由梨のお陰で、勝也はひねくれずに済んだのだ。



 小学校に上がってからは、勝也は自分の元の性格なんて忘れた風に過ごしていた。

 どんなことでも練習しただけ出来るようになると気付いてからスポーツが楽しくなり、中でも野球はお気に入り。友達もやりたいことも増え、昔と違って自信が磨かれた勝也に人はどんどん寄ってくる。その多さにちょっと戸惑い、でもすぐ判断した。気に食わない奴は構ってもつまらない、気の合う奴とだけ一緒に居たい。女子はちょっとメンドいから、男子の方が楽。ああ、だから自分は男なんだな。そういう風に解釈して。

――でも、唯一の例外は由梨だった。由梨は保育園の時からずっと変わらない。いつだって朗らかで、スポーツが好きで、逢うと楽しい。手を振るとこっちを向いて笑ってくれる。そして手を振り返して、「かっちゃん」って呼んでくれるのだ。

 由梨の「かっちゃん」をしばらく聴かないとさびしくなる。他のが呼ばなくなったってこんな気持ちにならないのに。不思議だけど、でもなんとなくわかる。男とか女とか関係なく、由梨の存在自体を自分は気に入っているのだ。

 保育園の時と少し立ち位置は変わったけど、一緒に過ごす時間が快いのはなぜだか変わらない。冷やかす奴もいるけど、付き合いの長い自分と由梨が仲良いのは当然だろう、と思う。むしろ冷やかされるたび、変な優越感みたいなものが湧いてきている。由梨の悪口を言ったりちょっかいを出してくるようなのは、大抵が由梨と仲良くなりたいと思ってる奴だからだ。

 女子で一番スポーツが出来る由梨は、一部除き男子からも評判がいい。でもガサツってわけじゃなく、女子から弾き出されてるから男子と仲良いってわけでもない。勝也の母親は昔から「由梨ちゃんは芯があるわよね」と言っていた。目立つ人気者じゃないけど、いざという時に頼りにされる、不思議な魅力のある子。

 そんな彼女と仲が良いこと、彼女が好きなものや好む行動等を知っている自分が誇らしい。由梨がボールを上手く投げられないことをどうこう言ってちょっかいを出そうとする男子を見るたび、「バカじゃねえの」と思う。そんなんで由梨の気を引けると思ってんのかよ、と。

 手本と称して由梨に「投げる」姿を見せるたび、そのきらきらした視線を受けるたび、優越感と奇妙な満足を噛みしめる。この先どんな奴が現れても、自分より由梨と仲良くなる男はまずいない。この先もずっとこうなのだろう。

 由梨は勝也とずっと一緒だ。これからもずっと。

 そう、驕っていたのだ。


〇 〇 〇


「一体何があったのか、教えてくれる?」

「お、おれの、俺のせい、なんです、」


 気を抜くと泣きそうになるのを堪え、勝也は車の助手席で拳を握りしめた。声がみっともなく震えている。身体も震えそうだ。後部座席に横たわる人を振り返れない。

「俺のせいで、由梨は胸が痛いって、」

「何をしていたの?」

「キャッチボール、練習してて、俺の、投げたボールで、当たったから、だから、俺のせいで、」

「だいじょうぶ、落ち着いて。由梨は勝也くんとキャッチボールをしていたのね。エースドッジの練習。そして、受け止めたボールが胸に当たって、由梨が痛いって言って倒れたのね?」

「は、はい」

「わかったわ」

 説明してくれてありがとうね、と言って、由梨のお母さんはハンドルを握り直した。その凛々しい横顔を見上げながら、勝也はまた拳を腿に食い込ませるように握る。暖かな言葉に安堵したかというとそうでなく、どんどん気持ちは沈んでいった。

(俺のせいだ)

 そのことだけが、心身にこびりつく。


 由梨の「かっちゃん」を聴いてこれほど苦しくなったのは初めてだった。




 自宅まで送ってくれた由梨のお母さんが、励ますように何か言っていたけれど、よく覚えていない。

 覚えているのは、未だに脳内で延々と繰り返されるのは、自分の放った球を受け止め、正面から崩れ落ちる由梨の姿。顔は真っ青で、息が苦し気で、声が出ないようで。

 それをしたのは自分なのだ。

 誰より大事な、大切な、大好きなあの子をそうさせたのは自分なのだ。

 そう、誰より。誰よりも好きなのに。


 勝也にとって耐えがたい痛みを伴った、恋の自覚だった。



 その夜は帰宅した家族の誰とも口を利かず、すぐ横になった。しかし布団の中で、震えが止まらなかった。由梨は大丈夫だと、心のどこかでわかっていた、でも、事態を起こした要因が自分だと、由梨を形だけでも苦しめた自分の行為が赦せなかった。

(苦しめるつもりじゃなかった)

 でも、不用意に、無邪気に、深く考えず本気の投球をしてしまったから。それを我慢して受け止めるよう由梨にけしかけたから、あんなことになったのだ。そこらに居る男子と由梨を一緒にしていたのか、自分は。

 そう。

 勝也は、由梨が女の子だという事実を完全に忘れていた。だから。

「……ばか、やろ……ぅッ」

 自覚したばかりの恋が苦しくて、自分という男が情けなくて。しばらく勝也は眠れなかった。

 そう、元の勝也はこういう気質。内気で、引っ込み思案で後ろ向きで、……臆病な奴だったのだ。




 それからのことは、思い出すだけで自分を殴りたくなる。


(こんな俺なんて由梨の傍に居る資格無い)

 そんなことを安直に考え、否、隠れ蓑にして、腐った心地のままで由梨を避けた。苦しかったから。自覚した途端に怒涛のように溢れてきた恋心で窒息しそうだったから。失いたくない恋を馬鹿正直に告白して、片想いをつきつけられたくなかった。臆病、その一言に尽きる。

 今までどれだけ自分は彼女に依存していたのか、これからもどれだけ依存するつもりなのか。そのことも思い知らされ、自分が心底嫌になり、すべてが億劫になった。軟式野球の試合もそういったことで散々なものとなった。ボロクソに言われ、実質罰としてのレギュラー降ろしに遭いつつ、全部がどうでも良かった。

(所詮俺なんてこんなんだよ)

 そう考えていた。

 今は改めて思う。あの頃の腐っていた自分を殴りたい。



 ……最悪の転機となったのは、先発を降ろされてから間もなくのことである。


「なあ、この前名札見た四年のハネダユリってのもいいよな」


 いつも通り軟式クラブの練習終わり、そんな言葉が耳に飛び込んできた。上級生の会話だ。


「え~四年? 小さくね」

「それがさ、この前屈んでるの見たけどムネでけえの。谷間あった!」

「マジで」

「マジで!」


 何を、話しているのか。何を、喋っているのか。……誰を、下品な会話のネタにしているのか。


「だからさ、間違ったフリしてどーんといけば触れるんじゃね。四年だし」

「え~やめとけよ」

「平気平気。『あっごめん』って謝っとけばいいんだよ。絶対わかんねえって」


 一体。


「だから上手くやりゃムネさわれるって! 白鳥の知り合いっぽいし、困ったときはあいつの名前出せばなんとかな、」


 気が付いた時、その上級生の胸倉を掴み殴りかかっていた。

 



 後からそいつが後釜のピッチャーであったことなどがわかったわけだが、やはり勝也にとってはどうでも良かった。

 色々と騒ぎになり、ほとぼりが冷めるまでしばらくの療養と謹慎。大人達は「喧嘩の原因が他にあるなら詳しく話しなさい」と口々に詰め寄ったが、勝也は何も言わなかった。怨恨と思いたければそれでいい。

 相手と相手の親は謝罪と弁償を求めてきたので、問題を長引かせないために形ばかり謝った。病院費用は自分のそれまでのお年玉から崩すように親に言った。……そして悪口の吹聴もそのままにした。

 知り合いや友達の見舞いもすべてぞんざいに追い払った。何人かは戸惑ったように家から出て行き、親友の佐倉始め何人かは怒り心頭で出て行った。

 そして。

 由梨は、かなしそうな顔で出て行った。


〇 〇 〇


 中学野球部の誘いを蹴ったのは自暴自棄になったからだと言われれば返す言葉が無いが、クラブを退団したのは居づらくなったからではない。ただ、どちらにせよあの時の自分はあの環境下で野球を続けられる状態ではなかった。


――殴ったのは問題だったが、何か理由があるんだろう。

――相手とちゃんと和解して、やり直しなさい。

 療養中、何度も聴いた言葉だ。そして、響かなかった言葉だ。

 違う。そんなんじゃない。勝也は、クラブメイトを殴ったことには微塵も後悔してない。本当の意味での和解などしたくない。殴った理由も言いたくない。思い出すだけで視界が赤に染まるほどの怒りを覚える。

 だって。


(だってあいつ由梨をいやらしい目で、)


 愕然とする。改めて気づいてしまった。……自分こそが、由梨をそういう目で見ているということに。

 違う。自分のこれは、もっときれいなものだったはず。保育園の時の延長で、純粋な想いだったはず。なのに。

 なのに、心と身体は違うと訴える。勝也自身に叩きつけてくる。いつまでもあの頃のままでいられると思うなよ、と。だって由梨は、大好きなあの子は、誰よりも魅力的な女の子で―――

(そんな由梨に俺はひどいことした)



「お前がいると色々気が散る。女のくせに」



 まるでその性別が悪いことのような言い方。もう話しかけるな、と心にもないことも言った。そして同時に、自分の心が死んだと悟った。泣きそうになった由梨の顔に、「かっちゃん」と弱々しく呼ばれたその声に、自分も突き刺された。

 痛い。胸が途方もなく、痛い。でももう、涙は出てこない。

 あの上級生と和解なんてしたくない。でも、今の自分をどうしようもなく殴りたい。誰より大事な人を苦しめた挙句、あんな顔をさせてしまった自分を。

 男か女かとか差別するものでないが、根本的な違いは解っておくべきだった。身体のつくりが違うものと仲良くするということは、そういうことだ。なのに、当時の勝也はそれが理解出来ていなかった。安易に混ぜて考え、こうであるべきと勝手な理想を由梨おんなのこに押しつけ、そして実質が違ってからは勝手に混乱して八つ当たった。それがこの結果ザマだ。

 そしてこんな手では、もう真っ白なボールを投げられない。由梨がきらきらした瞳で見つめてくれていた「投げるのが上手なかっちゃん」はもういない。



 すべては、自業自得。後悔しても遅いのだ。

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