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……四年と半年前、泣きながら母親に相談したことを思い出す。
『かっちゃんはどうしてユリにひどいことを言ったのかな?』
母親は由梨の涙を拭いつつ言った。
『わからないわ。かっちゃん本人に理由を聞いてみないとね』
『かっちゃん教えてくれなかったんだよ』
ユリは確かに女だし、キャッチボールは佐倉くんみたいに上手じゃないし、「投げる」のも下手。だからかな。ユリがもし男で、「投げる」の上手だったらかっちゃんは仲良くしてくれたのかな。人に怪我をさせた理由、そして自分が怪我した理由をちゃんと教えてくれたのかな。
『かっちゃんとまた仲良くなるにはどうしたらいいんだろう』と。
母親はほんのりと笑い、そして答えた。でも、その後の言葉をなぜか思い出せない。
『そうね……。
由梨ちゃんがもしも、この先もずっとそう思うなら、』
お母さんはなんと言って、そして当時の由梨はなんと返したのだろう。
● ● ●
佐倉と話してからまたしばらく日にちが過ぎた、翌週の半ば。登校した由梨は教室が何やら異様な雰囲気に包まれていることに気づく。
「どうしたの」
「えっとね、チカン!」
「は?」
「変質者が出たんだって!!」
そうこうしているうち、担任教師が教室へ入ってきた。今日は全教室テレビ放映にて、朝礼が緊急で開かれる。
そこで校長の話を聞くに、どうやら先週から今週にかけて、下校途中で不審者に遭遇した生徒が数多くいたらしい。皆女子で、暗くなった時間帯において車で静かに後をつけられ、一人になったところで後ろから猛スピードで追い越しつつ、身体をさわられそうになるとのこと。いきなりのことで何も反応出来ず状況も把握できず、最初の何人かは偶然と判断し届け出をしなかった。しかし日が経つにつれ事例が重なり、とうとう胸をそれとわかるかたちで触られた女子生徒が保護者を通じ学校に連絡したことで、事態が明らかになったのだそうだ。
報告があった場所を登校ルートに持つ何人かに聴き取り調査をしたところ、「クラクションも鳴らさない車がいきなり後ろから追い越していった」「開いた窓から伸びてきた手が肩や鞄をかすめた」ことのある女生徒が何人もいることがわかった。手口が同じこと、車種と車窓から目撃された犯人の姿がほぼ共通なことから同一犯。人気の少なくなる時刻と視界が狭まる場所で下校中の学生を狙った変質者、悪質な痴漢だという。
「あそこ近道出来るからよく通るのに」「他の車通んないの」「小学校の通学路でもあるから車通りは少ないんでしょ」
「静かに! 今から犯人の特徴と判明している車種の説明があります」
担任の指示でまた画面に注目する。似顔絵のような人相書きと車の写真。マスクに眼鏡、野球帽を深くかぶった男と、黒のワンボックスカー。バックナンバーは反射鏡が付いていて読めず。
「近場でこういう不審な車を見かけた人、被害に心当たりのある人は担任の先生か職員室の誰かに連絡をください。そしてこの時期、暗くなるのが早いのでなるべく一人で帰らないように。特に女子の皆さんは気を付けてください。今日から警察の方が定期的に巡回されますので、不審な人や車を見かけたら、腕章を付けた警察官にすぐ連絡を」
そんな校長の言葉で緊急朝礼は締めくくられた。
「ひったくりの痴漢バージョンか……やだなキモイ」
「でも車とかわかってるんだし、早く逮捕されたらいいのに」
「だね」
口々に会話しながら教室は一旦の収まりを見せる。一時間目は国語現文であるが、担当教諭が事情で遅れるようで、来るまで自習となった。
「ねー朝言ってたチカンって、もしかしたら影村のことじゃね?」
「なんで」
「だってあいつキモいし。あいつの車、黒の似たようなやつでしょ? 女子中で女子追っかけてたセクハラ野郎なら、そういうことしそう」
「えーまさかー」
「本人じゃなくても親戚とか」
「ありえるー」
根拠の無い噂話が、クスクスと無邪気に囁かれる。一方で、無言で自習に取り組む生徒もいた。真面目な受験生か、――もしかしたら被害者か。
「ねえユリは? 影村が犯人だと思う?」
「う~んわかんないや」
「もし影村がチカン野郎だったらさー大問題だよ。停職っていうか辞職になるよぜったい。あのキモ教師追い出すチャンスだよ」
「そうだね~」
由梨は笑いながら適当に合わせ、内心で溜息をついた。こういうおしゃべりの輪に入っていけないのは昔からだ。付き合い悪いと思われようと、どうしてもついていけない。四年前のことを思い出してしまうせいだろうか。
陰口めいた噂というものは、本当に、いつだって無責任で。自分に関係が無いからこそ、好き勝手言えるのだ。詳細真偽など置き去りで、当事者の苦しみや迷惑など考えもしない。勝手に予想して、勝手に結論づけて、そして後から一致したことがあると「やっぱりね」としたり顔になって、またあること無いことをばら撒くのだ。第三者にとっては何が嘘で何が真実かはどうでもよく、面白ければそれでいい。だから噂は尾ひれがついていたり、伝言の末に原型を留めていなかったりするのだろう。子供は特に、言われたことを鵜呑みにし易い。
先日、佐倉が言っていたことを思い出す。
『散々なこと言われててしかも本人が全然挽回する気が無い、こっちの助けを突っぱねる奴にイラつかないのって、小学生じゃ正直無理。今もアレだし、あいつと付き合うのは相当気が長くないとな。だから、昔からブレずにかっちゃんを信じ続けてる羽田さん、マジすげえって思う』
思い出すと顔が熱くなる。由梨のこれは、佐倉が言うように気が長いとかでなく――
「ユリどうしたの。顔赤いよ」
「へ? あっ、な、なんでもない」
「熱あんの? 保健室行った方がよくない?」
「だ、だいじょうぶっ。ちょっとノート取ってくるねっ」
誤魔化すように笑いつつ、由梨は席を立った。まだ国語教諭が来る様子が無いので、少しだけなら大丈夫だろう。優等生なので先生に見つけられてもサボりと思われないのが由梨の強みである。実際サボりではないし。
顔の火照りを引かせるために、そして予習復習を兼ねている特製ノートを補充しに、ロッカーのある廊下へ出る。ノートを取り出したあとは窓に近寄り、窓枠に手を掛けて、ふと動作が止まった。
由梨たちの教室は棟の端で、教室からは校門が、裏の廊下からは校門へ続くグラウンド沿いの通学路が見下ろせる。
……そこを、勝也が歩いていた。
「――」
長めに伸ばした髪に衣替え前の腕を捲り上げた白シャツ。堂々遅刻の時間帯であるし、格好はいつもとほぼ変わらなかったが、珍しくも一人だった。派手な女の子や、不良仲間も傍にいないようだ。紅葉にはまだ早いが、緑が控えめになった並木道をゆっくり上がってくる。
(髪、黒に戻したんだ)
風が吹いて黒髪が顔に被さり、鬱陶しそうに片手で後ろに流した勝也が――こちらを見上げる。そして、見下ろしていた由梨と――目が合った。
「――」
由梨は、動けなくなった。
目が合った勝也が、微笑んだように思えたから。
・
・
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秋の暮れが早いように、受験生の昼もあっという間に過ぎる。放課後、あちこちから部活の音や声がするより早く、何人かは下校していった。今朝の緊急朝礼のせいというより、塾等の秋期講習に遅れないためだろう。
「由梨、帰らないの?」
「うん、ちょっと予習してく」
「家でやんないの」
「家だと怠けるから」
「余裕なのにー?」
「余裕じゃないよー」
友達に手を振って、由梨は自習室へと向かった。
大体今のシーズンより、由梨達の中学校では放課後にいくつかの教室が自習室として解放されている。塾通いのしていない受験生に集中して勉強する場を与えるためだ。文化部の活動を妨げない範囲で、空き教室がそれに割り当てられることが多い。
この学校に理科室は二つあるが、その一つにて由梨は参考書とノートを開いた。まばらに居る自習生徒と同じく、目の前のことに取り組もうとして――手が止まる。
鈍色のバットに、緑のカバーネット。次々と倉庫から運び出される器具。
一階の理科室は、窓からすぐグラウンドが見える。音も聴こえやすい。尤も、それがうるさいということではない。ただ。
挨拶の声。ユニフォームを着た野球部員らが二人一組になってアップを始める。走る。
「……」
今の由梨は、どうしてもその情景が目に入ってしまう。さっきから教科書や参考書の文字なんてひとつも入っていかない。
――苦笑する。自虐というわけでなく、改めての確認として考える。自分ってなんてだめなんだろう、と。
(かっちゃん)
あの時目が合ったのは気のせいかもしれない。いやきっと気のせいだろう。偶然、目線が上に向いた瞬間を良い角度で目撃出来ただけだ。向こうはこっちの姿など見えなかった確率の方が高い。昼間のうす暗い校舎と明るい外路の光源差、そしてガラス越しであったし。
……でも、久しぶりに笑ってくれた。
陰鬱な無表情でなく、口の端をつり上げるだけの嗤いでもなく、自然にふっと緩んだ感じのやわらかい微笑み。まるで、白い歯を見せる満開の笑顔へと続く直前のような。明るい太陽の光が、雲の隙間からちらっとだけ顔を覗かせてくれたかのような。
(小学校の頃は、遠くで見かけると手を振ってああいう風に微笑ってくれてた)
それだけなのに。
こちらを見てかつてのように微笑んでくれた。そう錯覚しただけで、嬉しさと切なさで胸が苦しくなって、何も手につかなくなってしまう。
(私って、)
本当につくづく―――
勉強しているフリをしつつぼーっと野球部の部活動を見物していたら、いつの間にか時間が過ぎてしまっていた。
自習室解放の時間は普段は部活と同じか、それより場合によって長い。ただ本日は、理科準備室から顔を出した教師が普段より短めの終わりを宣言した。
追い立てられるように由梨達は校舎を出て、それぞれの帰路につく。時間的にそれほど遅くはないが、秋の夕暮れらしさが漂っている。薄暗いグラウンドの早めに灯ったライト、その下で走り回る野球部員らの白ユニフォームは、泥だらけなはずなのにやけに鮮やかだ。
だいぶ視界が悪くなった並木の下を、急ぎ足で歩く。朝の変質者の注意喚起をそこで思い出し、ちょっとこわくなる。でも警察官が見回っているそうだし、由梨は今まで遭ったことがないし、さすがに大丈夫だろう、とも考える。
(今朝、この辺りでかっちゃんと目が合ったんだよね)
そういえばかっちゃんのご家族は元気かな、縁遠くなった時から同時に交流無くなったけど、とぼんやり考えながら木々の終わりに差し掛かった。
ふと。校舎と向かいに折り曲がる道の向こうから、斜めに横断するように人が歩いてくるのが見えた。暗くてよく見えないがのっそりした体格、帽子を被った男性だ。ポケットに手を突っ込み、速足で由梨の居る方向に向かって歩いてくる。
「……?」
向かいの道は広いので通り過ぎるのに時間がかかる。だから速足なのだろうと、由梨は気にせず前を向き――ちょっと考えて歩を止める。殆ど真っ暗闇のシルエットと化した男の影が、ちょっとこわくなったので。なぜだか、人影はこちらに一直線に近寄ってくる。
……何やら不穏な心地がした。直感ながら、ぞわぞわと寒気がするような。
(まさかね)
通りすがりの人を無闇に不審がるのも、失礼だ。そう思い直し、由梨はゆっくり歩きだす。人影は速足で道路を渡り切り、こちらの延長線地点で立ち止まっている。歩道にスペースを空け、ポケットからスマフォらしきものを取り出し、光るそれを耳に当てるのが見えた。こちらが近付いても見向きもしない。
(やっぱり気のせいだったんだ)
ふう、と息をつく。通話しているらしき男性の前方を通り抜けてすれ違おうとする。
胸に何かが触れた。
「え、――」
声が出ない。そのままぐに、と掴まれるように揉まれ、はっと気づいたその時、由梨の胸から手を離し、男は駆け出していた。
その背中を愕然と見送って。
「――、――!!」
身体を抱え込む。事態を把握した瞬間、何かが全身を這い上がってきた。
(触られた)
知らない人に。
(触られた……!!)
知らない男に。
車のドアを乱暴に閉める音。そしてエンジン音が聴こえる。
身体を抱え込みながら、視線を上げた。向かいの道路の更に向こう、路上駐車してあった白い車が発進ランプを点けている。ぎゅきゅきゅ、と耳障りな音がした。手前から別の車が来たので急バックし、そして前に走りだそうとしている。ナンバープレートは……カバーがかかってない。覚えた!
「――、――」
でも、声が出ない。変な呼吸。たった今触られたばかりなのだ。知らない人、知らない男、変質者。痴漢。
頭でわかっていて、心が追い付いてない。身体もどうしてだか動けない。声が出ないから、助けを呼ぶことも、叫ぶことも出来ない。
だって、触られてしまったのだ。それを、赦してしまったのだ。あんな行為を。あんな奴に。
急発進する白い自動車。それを愕然と見送る。
しかし次の瞬間、別の音が響いた。
ゴゥンっ…カランッ
やや弾力のあるものを硬いものに叩きつけるような、次いで軽いものが地面に落ちるような。
車は何事も無いように走り出す。走り去ったあとに残されたのは片方折れたサイドミラー、そしてころころと転がっていく丸いボール。
そして。
「……外した」
それらを拾い上げる、かっちゃんだった。
白いボールと黒いサイドミラーの片方。
「本体に当てられなかったけど、目印にはなるな。すぐ警察いくぞ。……学校の方が近いか」
そんなアンバランスな一対を拾い上げた手は大きい。呟かれる声は低い。記憶に残るよりも。思っていたよりも。
もうすっかり暗くなった通学路、勝也が見下ろしてくる。今朝がた目があった気がした場所、微笑んでくれたような記憶。
今はしっかり目があっている。微笑んでくれてはいないけど。
「後ろから、変な奴が見えて。追っかけようと思ったけど間に合わないと思ってボール投げた。――大丈夫か、由梨」
次いで声をかけられた。名前、呼ばれた。声変わり中の掠れたかっちゃんの声。
息を吸ってみて、声が出せると判断する。
「う、ん」
頷いて、見つめ返した。衝撃的な出来事の直後、混乱の極みではあったが、目の前のこの人が何より確かな存在を示したことにより由梨は立っていられる。声も出せる。真っ直ぐに見つめ返せる。
だって、あの頃みたくきれいなフォームを見せてくれたのだもの。
「――~~っ」
安心したら涙が出てきた。
「!」
勝也の目がまんまるく開く。そんなところも昔と一緒だ。驚いたとき、困ったとき、元から大きなかっちゃんの目はもっとおっきくなるの。
「何かされたのか」
「むね、さわられた。……っ」
言ったらまた屈辱が蘇ってきて、決壊するようにボロボロ涙がこぼれた。眉間に皺を寄せてぐわっと大きくなった勝也の瞳。
「――ッ」
しかし次の瞬間、ぎっとそれが鋭くなって横を向く。車の走り去った方角を睨み、乱暴にサイドミラーをアスファルトに叩きつけた。鏡が外れて割れるひどい音。
「あいつぶっ殺す」
低く早口で呟き、野球の硬球をポケットに詰め直す。また投げつけるつもりなのか。というか、持ち歩いていたのか。
「ま、まって、まって!」
放っておいたら射程距離になるまで追いかけてしまうだろう腕を掴む。正しくは、シャツ袖を捲り上げた腕ごと抱え込むように抱き着いた。
「っ!」
勝也はまたびっくりしたような素振りで動作を止まらせた。でも、振り払ったりしない。拒絶されない。かっちゃんの温もりと匂い。角ばった肘。それを感じたら、屈辱と悪寒がどんどん薄まっていく。大袈裟かもしれないけれど、あの知らない男に触られた部分が、浄化されてくみたいな。無条件の途方もない安心と、切なさと、……胸の甘い痛み。
かっちゃんに近寄れてる。かっちゃんと話せてる。
「まって。待って、待ってかっちゃん」
涙声だけど、しばらくぶりにかっちゃんって呼べた。
「あの、あのね、私ね、ユリね、」
自分のことを「ユリ」って言ってしまうクセ、昔から家族の他はかっちゃんにしか出してないんだよ。
「ユリ、ユリはね、」
私はね。
「かっちゃんがすき。だいすきなの。もう置いていかないで。ユリを投げちゃいや……!!」
強張っていた腕から、力が抜ける。ポケットから片方の手が抜かれ、はずみでボールがまた転がっていった。てんてんと、軽くバウンドしながら。
それを気づくことも、追いかけることもなく、勝也は呆然と自分に抱き着く小柄な幼馴染を見つめる。その瞳には、ぐしゃぐしゃの顔だけど由梨がちゃんと写ってる。
思い出した。四年前、お母さんが答えたこと。
『そうね……。由梨ちゃんがもしも、この先もずっとそう思うなら、その気持ちをちゃんと、勝也くんに伝えなさい』
そう、言っていたのだ。そして由梨は『うん!』と返した。すっかり忘れていたけれど。
初恋はずっと消えずにここに在った。どんな形になっても、どれだけ遠ざけられても。
由梨はずっと、勝也だけが好きだった。
今も。そしてきっと、これからも。
この気持ちを「投げる」ことなんて、絶対出来ないんだ。