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 それからまた季節と共に年月が過ぎ、九月の初頭。夏休みが終わり、また新学期が始まった。中学三年目、受験生の今年最後の追い込みシーズンでもある。

 由梨は大学進学を前提に、地元高校を受験することに決めていた。田舎なのでそれほど有名ではないが、ここらでは有名私立を除けば一番の進学校である。通学も手ごろだし、今の学力からいっても妥当なレベルの高校だった。由梨は運動をあまりしなくなってからというもの勉強に打ち込み、入学から今まで学年二桁を割ることなく優秀な成績をキープしていたので。

 クラスメイトの何人かも同じ高校を受験するそうで、互いに励ましあいながら勉強した。友達は「由梨は余裕そう」と口々に言い、今の平均なら大丈夫だと先生も太鼓判を押す。でも、当の由梨自身はなぜか漠然とした不安があった。受験に対してでなく、今の自分に対しての。

 その気持ちを誤魔化す意味でも、何かをしていたかった。陳腐だけれど他の人と同じこと、なんでもいいから連帯意識が欲しい。なので、他と同じように余裕の無い素振りで受験勉強をした。授業のあとはみっちりと復習し、家では丹念に予習。休みの日は図書館に行って学習室に籠ったり、友達の家で勉強会を開いたり。習い事は習字のみ、塾には通っていなかったので、そういう時間は山ほどあった。部活も――由梨は家庭科部に所属していた――とっくに引退しているし、名実共に受験生。家族も応援してくれているし、由梨の今の生活サイクルにはなんの不自然も無い。

 ただ。

 そんなことをしていても、勉強中においても、ふと考えることがある。どうしても、想ってしまう人がいる。

 かっちゃんはどこの高校に行くのだろう、と。


● ● ●


「羽田さん!」

 いつもの図書館帰りの夕方、低く通る声に呼び止められて振り向く。青になった信号の下、自転車を押しながら小走りで寄ってくる一人の少年がいた。自転車籠には参考書で角ばったリュック、がっしりした大きな体格、日焼けしニキビの痕がまばらに浮かぶ頬。

「―――佐倉くん、久しぶり」

「久しぶりー。羽田さんも塾帰り?」

「ううん、図書館帰り。結構静かに勉強できるから」

「ふーん。やべえな、おれももっと勉強しないと……、って羽田さんは格が違うか」

「格ってなんの格ですか」

「頭良さの格」

「なにそれ」

 くすくす、と笑いながら隣に並ぶ。小柄な由梨と並ぶと佐倉の大柄さがいっそう際立つ。しかし、不思議に威圧感は感じないのが彼の面白いところだ。きっと滲み出る温厚な人柄のせいだろう。

「羽田さんはやっぱ北高受けんの?」

「うん」

「ふーん。南女ミナジョの特進とかいかないの?」

「先生から目指してみないかって言われたけど……あそこ家から遠いから。学寮高いし」

「なるほど」

 中学も三年になってくると異性間の羞恥は薄れ、部活のひと段落と受験諸々もあって、気安くなることが多い。それを抜きにしても、佐倉は由梨と同じ小学校出身という繋がりで、親しい顔なじみと言っていい存在だった。女友達には言いにくいことも、しがらみの無い彼相手にはこうしてさらっと言える。

「佐倉くんは東高だって聞いた。やっぱ野球?」

「うん。でも推薦じゃなくて、一般入試受ける」

「えっ、そうなんだ」

 驚きのあまり、足を止めてしまう。自転車と一緒に止まった佐倉は、肩を竦めて笑ってみせた。

「うん。悩んだけどね」

「どうして」

「おれ、正直野球で食ってける自信無いし、東高の野球部で揉まれるほど強くないなって。推薦でいってそれからどうなるって話。卒業後のことも考えてみたら、やっぱ普通科にしとこうかなって」

「あのさ……お節介かもだけど、勿体無くない? 佐倉くん、東高の推薦の誘い受けてたってすごいことじゃ……」

「うん。でも自分で決めた。推薦じゃなくて一般入試でいく。おれの成績だとギリギリだけど、レベル落として下の高校行くと後で苦労しそうだし、あと推薦だと勉強怠けそうだから。半端よりはどっちかに集中したい。野球はやれたらやる。もしかしたら部活は別のにするかも。そう考えたらワクワクしてきたから、それでいいやって」

「……。そうなんだ」

 東高校は北高校に次ぐ進学校ながら、専門体育科のある野球の強豪だ。県内ではトップクラスであり、甲子園出場暦もあり、プロ球団の視察も度々訪れるなど全国区の実績と知名度を誇っている。野球と関わらずとも学力基準は高く、有名校なので合格倍率は相当だ。佐倉のように、誘いを受けていても辞退するなどというある意味勿体無い選択をする者はそうはいない。まして、実力のあるキャッチャーなのに。

 彼も、野球を辞めてしまうのだろうか。――あの人のように。

「ねえ、佐倉くん」

「ん?」

 秋の始まり、長くなった影にぼんやりと目を落とす。日焼けした元野球部と色白の元家庭科部。男子と女子。もうこの二つからして共通点は薄い。彼氏彼女といった間柄でないし、お互いにそういう感情は抱いていない。違うクラスであるし、接点が少ないので校内ではあまり話さない。

 けれど、校外で佐倉と会うと、こうして親しげに会話が始まる。

 それはどうしてなのか。理由は―――由梨の目当ては、一つしかない。

「……その、あのね、」

「うん」

 言葉に詰まりながら、それでも由梨は訊く。訊かざるを得ない。


「かっちゃんから……白鳥くんから何か、言われてない?」


 かつての勝也の「女房役」は、苦笑した。そして首を横に振り、答える。

「何も」と。



 勝也のことを、人づてでいいから知りたい。かっちゃんに悪意を抱かない近しい人間から、少しでも確かな情報を得たい。由梨が佐倉とよく話すのは、昔からそういった打算である。尤も、佐倉はそれを解ってくれている。彼自身、由梨に勝也のことを話すことで友への複雑な気持ちを整頓しているようだった。

「ごめん、羽田さん。あいつ最近ますます連絡取り辛くなってさ。おれでも三日に一度電話が繋がればいいくらい。つかごめん、この前もまた言い合いになっちまって。もしかしたらそれが原因かもしんない」

「……そっか」

 言葉少なに頷いた由梨を決まり悪げに見つめ、佐倉は溜息をついた。

「――受験のことをさ、ちょっとだけ話した。でも、どこ受けるかは教えてくんなかった。あいつ成績大丈夫なのかな」

 由梨達の中学において成績上位者は廊下に貼りだされるのが伝統だが、三年生は受験意欲への影響を考慮し、順位発表は個人への交付に留まる。なので勝也の学年順位がどうなっているのかは由梨も知らない。尤も、二年生までの成績で、勝也がテストにおいて学年上位に入っているのは見たことが無い。

「てか出欠自体大丈夫なんかな。中学だから周りが卒業させてくれるんだろうけど。頭悪くないくせに自暴自棄引きずってバカ高に行くつもりなら、正直赦せないよ。もうとっくに時効だってのに、何こだわってんだか……でも、あいつの人生だもんな。確かにお節介だ」

 おれが口出すことじゃないか、と言って寂しげに笑う佐倉の横顔。かつて軟式野球クラブメイトでクラスも同じ、気も大変合っていた間柄が由梨の脳裏をよぎる。『佐倉が風邪で早退したから俺も帰る』などと嘯いていた勝也の声も。

(佐倉くんとも、あんなに仲良かったのに)

「……」

 バッテリーを組んでいた相棒で大親友だった勝也がいきなり野球を辞めたこと、「投げる」ことを勝手に諦めてしまった事実を一番赦せなかった人間は、佐倉だろう。そしてその怒りは当然の権利だ。

 一番の理不尽を被った彼は、しかしとても責任感が強く、友達思いの優しい男である。だからこそ変わってしまった勝也とも根気よく付き合えている。あの事件のあと勝也と疎遠にならなかった友達の一人であり、不良グループでもないのに今の勝也と普通に連絡を取り合える、数少ない存在なのだ。かつてのような仲には戻れないにせよ。

(佐倉くんは、私よりかっちゃんに近い)

 なら、由梨は。

 怒る権利も構う理由も見当たらない由梨は、どうしたらいいのか。……しがらみが無くとも性差という、絶対的な垣根のある由梨は。

『女のくせに』

 過去に言われた理不尽が、未だちくちくと下着に覆われた胸の内側を刺す。あのキャッチボールの時の衝撃よりは弱いのに、それよりずっとずっと長く続くこの痛み。

 つらい。

(どうして、)


 どうして、自分は未だに――




 交差点の前で立ち止まる。いつの間にか、お互いの自宅への分岐路に着いていた。

「―――羽田さん、あのさ。おれ、羽田さんがいてくれてマジ良かった」

「な、なにいきなり」

 あれから二人とも言葉少なに歩を進めていたのだが、佐倉はそこで立ち止まり、改まった口調で話し始めたのだ。

「あいつが野球やめてからさ、おれもちょっと腐ってた時期あって。でも、羽田さんが熱心にあいつのこと聞いてきて、だからおれもなんとか情報収集してみるかって気分になって、あいつのこと見放さずにいられた」

「え」

 見放す、などと物騒な言葉に、由梨は目を見張る。

「卒業間際の今だから言えるけど、てか羽田さんだから言えるけど。おれ、本当ならとっくにあいつのこと――かっちゃんを見限ってた」

 ひゅ、と由梨は変な息を飲み込んだ。聞き間違いだろうか。だって、佐倉くんは由梨よりもかっちゃんに近い、白鳥勝也の理解者の一人だったはず。

「あの事件で、周りに散々言われてさ。やっぱおれも、相当キツかった」

 信号は青になったが、由梨は動けなかった。行き交う人や車に取り残されるよう、無言で彼の言葉を聞く。

「かっちゃんが人殴った理由とか、そん時どうでもよかった。てか恨んでた。なんてことしてくれたんだよって。もうあいつなんか友達ダチじゃねえ、絶交だって本気で思ってた」

「――」

 今までの感慨をひっくり返されるようなことを言われ、由梨は言葉を失う。彼は結構前から、親身になって勝也との繋ぎ役を果たしてくれていたのに。あの頃、評判が地に落ちていた勝也を擁護する同世代筆頭だったはずなのに。

「でも、羽田さんが居たから。羽田さんがさ、あんまり一生懸命あいつのこと知りたがるもんだからさあ……、えっと、変な意味に取らないでね!? あの、おれもなんかあの時は本当どうかしてたんだよ。野球自体もさ、かっちゃんがいなくなっただけでやる気が半分くらい失せてたから。野球は好きだったけど、ガキだったっていうか……好きなものに変なケチがついたから、ちょっと離れてみたくなったというか」

 心底きまり悪げに、佐倉はニキビ痕の残る顔を撫でる。

「もう当時は野球のこと考えるだけでストレスフルで……うん、正直に言うとさ、そういうこと諸々ひっくるめて、おれは野球で食ってくこと出来ないと思ったんだよね」

「……」

 言葉の順序はバラバラで内容はやや自虐的だが、彼は吹っ切れたようにすらすらと喋る。なので由梨は何も言えなくなった。衝撃的なのに、不思議と納得感がある。それはひとえに、彼が真実を話しているからだろう。

「だから高校は普通に入試して、努力して大学行って、就職しようと思った。高校では野球以外でやりたいこと見つけたいって……。うん、それがおれなんだ。おれの『野球やりたい気持ち』はその程度。プロ目指してる奴みたく人生賭けるくらいの情熱は無い。下手だし。あ、今は腐ってるわけじゃないよ? 凡人の分際を弁えたってやつ」

 どこかで聞いたような話だ。由梨は開きかけた唇をまたも閉じる。彼は自虐しているようでいて、とても冷静だ。冷静に、大事なことを話している。由梨にとっても、勝也にとっても。

「中学に入って野球は全国大会間近までいったけど、もうそれで全部出し切った感。予選で負けた時、おれの夏はここで終わったんだなって。甲子園に憧れはあるけど、憧れ程度だよ。だから惰性で半端に続けるより、思い切って受験を区切りにしようかなって思った。やっぱおれにとって野球の楽しさって、小学校の時がピークだったんだよな」

 未来を諦めたというより現状をありのまま受け入れている佐倉の表情は、ほんの少しの寂しさを残しつつどこまでも穏やかだった。まるで、背後の夕陽のように。

 由梨はなんとなく確信する。彼は、野球自体を辞めたいわけではない。その逆だ。きっと色々なことがあって、由梨が想像もつかないほどの挫折を味わって、沢山悩んだのだろう。そして野球を「好きなもの」の範囲で続けたいと結論づけたのだ。続けたいからこそ、これからも野球を好きでいたいからこそ、野球以外の道を選択した。明確なヴィジョンの無い一本道で自滅しないように、展望を広げようとしている。今の由梨と同じく、漠然とした自分への不安を解消したいと願って。

 未来は、決して一つでないはずだと。

「だから、羽田さんがいてくれて本当に良かった。そういやかっちゃんは俺の友達だって、羽田さん見て思い出したんだ。で、実際にあいつと話してみて、やっぱりかっちゃんはかっちゃんだって当たり前のことが突き刺さった。おれ、つまんないことで腐ってたの心底反省したよ。かっちゃんを真っ直ぐ見てる羽田さんを見習わなきゃって」

「……」

 頬が熱くなる。

「こんな薄情な奴がかっちゃんの友達気取りで……がっかりしたよな。本当にごめん。でもおれは羽田さんに感謝してる。ほっとけば、野球よりもっと大事なものを失うところだったから」

「佐倉くん……」

 カタコトン、遠くで電車が通り過ぎていった。小学校の時は下校中に聴きなれた、夕方の音。

信号がまた赤に戻る。ちりりん、と一度ベルを鳴らし、佐倉は大きな身体を深々と曲げる。それは野球帽こそ無いが、確かに野球少年らしいぴしっとした礼だった。


「羽田さん、三年間本当にありがとうございました」

おかげで親友を失くさずに済んだ、と。


「そ、んな」

 恐縮さと一緒にじわっと、何かが由梨の心に広がる。

 ふと、思い出した情景があった。今と似たような夕陽の下、きれいなフォームで投げられた白球を。あの鉄橋の下で由梨相手にしていた一方的な投球でなく、同じくらいの実力を持った二人が放課後のグラウンドでしていた、ちゃんとしたキャッチボール。かっちゃんも佐倉くんもお互いにとてもいい表情で、楽しそうだった。

(佐倉くんも寂しいんだ)

 昔に戻りたいけど戻れない、そんな気持ちでいたのは由梨だけじゃないのだ。

 視界が滲んできて下を向く。あの頃と違って今は日焼け止めを塗っているから、顔を擦れない。なので涙を瞬きで追い出した。ぽたぽた、とアスファルトに落ちた水滴に気づき、頭を上げたらしき佐倉の声が慌てた風になる。

「あ、ごめ、」

「ううん、そうじゃなくて。こ、ちらこそありがとう、佐倉くん。正直びっくりしたけど、そう言ってくれて、なんか、い、今までが報われた気分」

 首を振り、顔を上げて見つめ返す。由梨にとって同志であり、「女房役キャッチャー」の尊い目標を。

「がっかりなんて、してないよ。佐倉くんがかっちゃんの友達でいてくれて、本当に嬉しい」

目が合った佐倉は、人の好さそうな丸顔をへにゃりと歪めた。

「そ、か。良かった……。おれも今、言って良かったと思ってる」

「うん。正直に言ってくれてありがとう」

「……。あのさ、クサいとか言うなよ、今更だけど。自分で照れてるんだから」

「ふふっ」

 目の前の笑顔と同じくほんの少しだけ暖かく、由梨は笑うことが出来た。

(佐倉くんとまた、キャッチボール出来るようになるといいね、かっちゃん)









「――」

 言葉を失う。

 夕陽をバックに、見つめ合っている男女がいた。大柄な男子と、小柄な女子。声が聴こえない位置だったが、遠くからでもわかる。どちらも馴染み深い、見覚えがあり過ぎる姿だった。

 きらり、と少女の瞳に何かが光る。彼女は泣いていた。それを視認した瞬間喉が詰まり息が出来なくなり、胸を押さえる。痛い、痛い。

 夕陽の最後のまたたき。彼女は泣きながらにっこり笑い、目の前の男を見つめていた。自分でない男を。

 光に縁どられたシルエット、夏の名残である薄いシャツ越しに形の良い大きな胸がわかる。露出が無いのに、無いからこそ妄想をかきたてられる罪深い影。ジーンズは女らしい曲線にフィットするもので、あの頃履いていたものと違う。ずっと変わらない姿勢の良さ、下ろした髪がふわりと揺れる。合間で泣きながら微笑む横顔。

 どれもこれも、胸が潰れそうになるくらい綺麗だ。

 声などかけられなかった。何を話しているのか、確認することもなく背を向ける。胸が痛くて、痛すぎて。それ以上見ていられなかった。


――臆病者、


 何度も繰り返してきた自分への罵倒。繰り返して擦り切れて、もう無くなってしまっていたと思っていたのに。


――自業自得だろう。




 あの頃投げていたボールのように、気持ちを自然に伝えることが出来たのなら、どんなに幸せだろうか。

 もう不可能と知れていても。




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