2
時が経つのは早い。あっという間に年月は流れ、由梨は小学校を卒業し、中学生になっていた。
二年と半年もの間で背が伸び、身体もどんどん変化し、月経も始まった。自分が子供の身体から女性らしい体型になっていくこと、もどかしいこともあったけど納得する部分もあって、由梨は淡々と毎日を過ごしていた。最初は物慣れず窮屈だと思っていたブラジャー装着にもいつの間にか慣れ、今ではそれが無いと胸元が落ち着かない。ノーブラでは人目が気になるほどに胸が育ってしまった事実もある。
年頃の女子というものは多感なもので、価値観も変動する。学校で行う性教育より少し前、小学校高学年に上がる頃合いから女子達が抱く「大人の女性への階段」「そういう身体つき」への意識は高かった。由梨は発育が良い方だったので、皆の羨望と嫉妬の対象にもなったのだ。そんな視線の中でガサツに振る舞うことは気が引けて、皆と同じようにヘアスタイルを気にしたり可愛い下着を選ぶようにもなった。そうしたらそれがいつの間にか板につき、由梨のスタイルとなっていった。
もう、小学校四年生の時のボールが投げられないことに悩み他と埋没することを厭っていたスポーツ女子はいない。
あのキャッチボール練習の翌日から、目標だった達人とは縁遠くなってしまったし。
● ● ●
「うわ、白鳥だ。久々に見た」
「こわーい……でも顔はやっぱかっこいいよね」
そんな会話がなされる校舎の廊下を、由梨のかつての幼馴染は鬱蒼とした瞳で歩いている。真っ白に近いほど脱色した長めの髪からは、かつてのいがぐり頭なんて想像もつかない。両耳にはピアス、潰した上履きの踵。開け放した学ランの下には派手な色のシャツ。校則に真正面から歯向かうような、そんないかにもな格好を正そうともしない。
「顔面偏差値張り合えるのって他校の桐原くんぐらいじゃない? あの秀才イケメン」
「でもあれは全然違うタイプでしょ。シラトリはかっこいいけどやっぱこわいよ」
「並んだとこ見てみたいけどね」
中学に入って更に背が伸び、声変わりをして身体つきも逞しくなった勝也は皆の噂に違わない。悪クールな雰囲気とくっきり整っている顔立ちから、一部にファンすらいる。でも由梨に言わせるなら、表情に漂う暗い雰囲気ですべて台無しだ。歯を見せる笑顔はここ最近見たことがない。
(……かっちゃんは笑顔がすてきなのに)
白鳥勝也は、小学校の頃の素朴で快活な野球少年が嘘のように変貌を遂げていた。
「ねえ、この前も他校の変なのとつるんでたって言うよ」
「もしかして地元の暴走族の手下みたいな?」
「こわ、近づかないほうがいい」
そんな噂は校内中に広まっているし、勝也自身も否定しないと聞く。比較的荒れていないのどかな公立中学だが、それだけに一度貼られたレッテルは中々取り外せないのだ。
いつから、こういう風になってしまったのだろう。あの頃の勝也はどこに行ってしまったのだろう。
かっちゃんは。
「……」
「由梨ちゃん、どうしたの」
「……なんでもない」
共に中学生となった勝也の姿を遠くから見つけるたび、由梨は無言になる。かつてのように気軽に話しかけられないし、理由も見つけられないからだ。
でも、何度だって思う。心の中で、何度もかっちゃんに問う。
(ねえ、どうして。どうして、かっちゃん、)
どうして「投げること」を辞めてしまったの?と。
● ● ●
始まりは「もうお前とキャッチボールはしない」と一方的に勝也に宣言されてからしばらく経った、ある時の出来事だ。
所属している軟式野球クラブにて、勝也はレギュラー投手から一時的に外された。地区大会当日に大失点、チームは予選でボロ負けしてしまったのだ。決して勝也だけの責任ではなかったが、当日の先発だったのに関わらず注意力散漫で悪い流れを引き寄せてしまったこと、それまでの練習試合においても出席率が悪く多方面に迷惑をかけていたことなどが憂慮された。高まっていたチーム内での不満を晴らし本人の反省を促す意味でも、しばらく投げることを禁じられたのだ。
軟式は硬式よりも試合数が多く、小学生は未発達の身体の負担を減らすため投手の数も多い。レギュラーといっても先発優先順位程度のもので、処断も降格という意味ではなかった。実際に一番手を降ろされた期間は短く、それだけならなんの問題も無い。誰もが思っていた、才能ある負けず嫌いなあのかっちゃんが、これで終わるわけがない。少々プライドを傷つけられはするだろうが、きっと再起すると。
ただ、その決定が為された直後。
―――勝也が、暴力事件を起こしたのである。
自分の代わりに次の試合で投げるはずだった上級生のクラブメイトにいきなり殴りかかり、顔に怪我をさせた。勝也自身も殴り返され唇を切った。お互いに深刻な事態にはならなかったが、それでも両者の関係的にスクープであり、クラブでの緘口も意味を為さず話は洩れ、小学校全域に広まった。当然ながら周囲は大騒ぎ。大人達は不自然な沈黙を守ったが、それでも口さがない者はどこにでもいるもので、多くが好き勝手に憶測して結論づけた。あの我儘小僧は、最悪の形で憂さ晴らしをしたのだと。そして勝也をよく知らない者の多くはそれを信じた。勝也のちょっと我が強い性格が誇張された形で広まり、悪口となってあちらこちらで吹聴され始めたのだ。
……でも、勝也とバッテリーを組んでいた佐倉はじめ、親しい友達や家族、そして由梨はちゃんと知っていた。わかっていた。かっちゃんはそんなことでキレない。レギュラーの座を奪われたからといって、それしきのことで相手を殴るような子じゃない。悔しさを暴力に訴えることなく、ピッチングで正々堂々見返す負けず嫌いだ。まして、口より手が先に出るタイプではない。
なのに、実際殴ったのは勝也が先。きっと何か、まったく別のことが原因なのだ。
何人かはそのことを確信して、勝也に何度も訊いた。このままじゃお前の評判が悪くなる、正直に喧嘩の理由を言え、と。だが、本人は頑として口を割らない。
由梨もお見舞いに行った時に訊いた。けれど、かっちゃんは何も言わなかった。そればかりか、由梨に対してはこんなひどいことを言ったのだ。
『お前がいると色々気が散る。女のくせに。もう話しかけんな』
ショックで、泣きながら家に帰ったことを覚えている。
それからかっちゃんは、由梨を徹底的に避けた。今まで仲良くしていた友達の何人かとも疎遠になったようで、徐々に味方が減り、素行の評判もますます悪くなった。その頃の学年内での噂は正直ひどいもので。同クラスの皆は皆、勝也を腫れ物扱いしていたそうだ。
勝也が軟式野球クラブから退団し、誘いを受けていた中学硬式野球クラブのそれも全部蹴ったのは、それからほどなくのこと。それを人づてに聞き初めて知った由梨は、これまたショックで呆然としてしまう。野球を辞めた理由を正面切って問い質しにいけるほど、当時の由梨と勝也は親しくなかった。親しくさせてもらえてなかった。
『女のくせに』『もう話しかけんな』
キャッチボールの練習をしていた数か月前まで、あんなに仲良くしてたのに。
……やがて彼は、坂道を転げるように変貌していった。
● ● ●
「国語教師の影村のウワサ知ってる? あいつ、女子中からサセンされてきたんだって」
「しってるー。なんかね、女子生徒ストーカーして問題になったっぽいよ」
「うわ、きもー。なんかあいつ目がやらしいと思ってたー」
クラスの女子連中のどうでもいい会話を聞き流しながら、由梨はぼんやりと校舎の外を眺める。そこから見える隣の棟への渡り廊下、そこに目立つ金髪の男子生徒が見えたからだ。教師に呼び止められ、話をしている。
「ユリー、何見てんの? ……ああ、シラトリじゃん」
「げ、影村もいる。あいつ色々うるさいからなー。髪とか言われてるんじゃない」
「あるある。まあ、あんなキモ教師の言うことなんて誰も聞かないけどね」
「あのシラトリだしー?」
げらげら、と笑い声をあげる彼女らにおざなりに相槌を打ちつつ、由梨は閉じた唇の裏で歯を噛みしめた。……派手な金髪の勝也の横に、これまた派手な髪の派手な女子が立っていたから。
やがて教師との会話が終わったららしく、勝也は歩き始める。傍に居た女子生徒もふわりと隣に寄り添うよう、一緒に歩いていく。
「……前に見たのと違うじゃん。もう別れたんだ」
「うわ。色んな意味ですごいよねー白鳥くん。男子連中の誰も真似できないわ」
「顔いい奴って得だよね」
中学生というものは個人差はあるが、異性に関して全般的に興味が強まる時期だ。ただし、微妙な年齢もあって、男女間にはなんとなく垣根が作られる時期でもある。少なくとも、勝也のように公で堂々と「そういう」雰囲気を見せ付ける中学生男子は早々いない。彼氏彼女となった者同士でも、学校内での触れ合いは控えめだ。
「この前見たよ、他校のともつるんでた」
「うわー」
しかし、実際そういった目撃談が当たり前のように出回っているのが、今の白鳥勝也である。
「わたしはシラトリ勘弁だけど」
「同じく。寄ってくのもチャラいのばっかだし。苗字と顔は王子っぽいのにね」
「やだーヤリチン王子」
「まじカンベン。ところでヤリチンってなに?」
「しらない。そうだって聞いた」
げらげら、と中身の無い会話の肴にされる勝也。……かっちゃんは、いつの間にかそうなってしまった。
由梨とは世界が違う人間に。
「あれ、ユリ、どこいくの」
「……ちょっとトイレ」
「いそげー。もうすぐ予鈴だよ」
頷く代わりにひらひらと手を振り、由梨は急いでその場をあとにする。クラスメイトに今の顔を見られたくなかったし、窓の外の光景も見たくなかった。
・
・
・
放課後。
バットの音と共に白球が宙に上がる。いつか鉄橋の下で見たものと似ているようで、違うボール。
空に舞い上がっていくように遠ざかり、どこかへと落ちていったそれを見送る。かつて投げられるようになりたいと思っていた、遠くへ投げられることを羨ましいと心底感じていた。
いつから無くなってしまったのか。
いつから失くしてしまったのか。
小さなボールの行方をすぐ見失うように、見えないほど遠くへいってしまったのだろうか。
(……いや、違う。私のは、そこまでの気持ちだったんだ)
懸命だった、そう思っていたことすらその時だけ。本当に欲していたのなら、もっともっと努力していたはず。その場の挫折感に囚われず、捉われてなお足掻き、それなりの結果を残していたはず。そうしていたら今だって、あの白球を必死になって追いかけ、受け止め、そして投げ返していたはず。
なのに、今の由梨は何も出来ていない。それが答えだった。所詮、由梨の「投げたい」気持ちはそこまでのものだったのだ。痛みを伴う性差を前に、簡単に諦めてしまえる程度の。それこそ、手前で力なくバウンドしてすぐ奪われてしまう、情けない投球のように。
そして形ある目標で――初恋の人だったかっちゃんが、「投げる」ことを辞めてしまったから。もう追い付けないほどに、近寄ることを許さないほどに、あまりに速く遠くに由梨自身が「投げられて」しまったものだから。
由梨も、「投げたい」気持ちを投げてしまった。
(……最低。自分が投げられないことを、人のせいにしてる)
わかっている。だから、由梨は勝也を責めることが出来ない。理不尽なことを言われ距離を置かれた過去、それを詰る権利など無いのだ。由梨自身、勝也に大きく依存していた事実を突きつけられるから。純粋な向上心でおこなうべきスポーツに不純な恋心が混ざっていたこと、それを改めて確認させられるから。
(かっちゃん、ごめんね。ユリ、うざかったよね。でも、)
でも。
これだけは、どうしても訊きたい。どうしても、知りたいんだ。
「どうして、投げるのをやめちゃったの。あんなに、投げるの上手だったのに」
口の中で呟かれた問いは、受け取られることが無い。それもわかっているから、由梨は今日ももどかしい思いを抱えつつ、遠くから見つめることしか出来ない。
・
・
・
……また、青空の下でバットの音が響く。浮かぶ雲よりは低い位置で放物線を描くそれを見送り、金髪の少年は無言で踵を返した。
「ねえカツヤ、いっしょに帰ろ」
横で何か高い声でさえずっている彼女気取りの女、それに何も返すことなく勝也はちらりと後ろを振り返った。グラウンドの向こう、校舎から丁度一人の小柄な女子生徒が出てくるところだった。肩までの黒髪、遠目からでも姿勢の良い立ち姿。近寄るといっそうその魅力がわかるだろう。野暮ったい制服の上からでも、わかるものがあるのだから。
もうすぐ衣替えだ。夏季は男子も女子も、上はシャツである。そうしたら、いっそう――
「カツヤってば、無視しないでよっ」
きゃんきゃんとやかましい声を断じるよう、今の自分の気持ちを押し殺すよう。勝也は足音荒くその場を去った。