誰かにとってのヒーロー
由梨達が高校に進学し、ほぼ一年。最初の春休みが過ぎた初夏。
パンっ!という小気味よい音がコートに響き渡る。ガットが、真芯を捉えた音だ。
浮き上がった一瞬を見逃さず叩き込まれたスマッシュは、ネットをすれすれで飛び越えて相手のコートへ。相手も咄嗟に反応したものの、追い付かずに羽球はライン上に吸い込まれるように落ちた。
笛の音、ゲームマッチのコール。由梨はふうと息をつき、手の平の汗を拭ってから相手と握手した。周囲はまだ何人かが試合をしていて、主に一番盛り上がるダブルスのコートに注目が集まっている。それでも何人かは声をかけてくれた。
「由梨、おつかれ」
「せんぱいかっこよかったです!」
「羽田先輩! お疲れさまです~」
近くに居た後輩が、タオルとスポーツドリンクを手渡してくれる。お礼を言って受け取って、副審が手渡してくるボードにチェックを入れた。
由梨が北高校のバドミントン部に入部してから、一年目でもある。
シングルでプレイしていた横合い、わあっとまた歓声が上がる。見ると、相手校がマッチポイントになっていた。主将と副主将のエースコンビ相手に、北高側も食い下がっていて、中々いい試合をしている。
「おおすごい。本居さん達なのに、まりちゃんたち頑張ってる」
「ていうかやっぱりミナジョの人達強いなあ」
「南高はテニスからこういうのに伝統あるからねえ」
「文武両道ってずるくないですかー」
「いちおう北高もそうだからね」
「あ、そうだった」
球が動いてからは展開が早いバドミントン、やはりというかあっという間に取られてしまったが、強豪相手に健闘した方だろう。応援もそこそこに、後輩を伴って自校の休憩場所に戻る。体育館四方のかしこから、熱気のある声援が聴こえてくる。
「東高の人達も気合入ってますね。さっき都築先輩が負けちゃった時はびっくりしました」
「くじ引きでほぼ主将各同士が当たっちゃったからねえ」
「応援もハンパ無かったですしねえ。はあ……」
「どうしたの?」
休日に東高の広い体育館を貸し切り、行われた一、二年生のみの交流戦。由梨達北高生は遠征し、同じく遠征してきた南高校と三校で練習試合を行っている。正式な試合ではないが、一部はそうでないようだ。
「……その試合で副審やった時についハンドサイン間違ったら、応援席から凄まれちゃったんですよ。『はあ~?』って。……すみません、恥かいちゃって……」
「大丈夫、一年生だってこと周りはわかってるから。審判への暴言とか威嚇の方がルール違反。ブーイングした子達も、きっと向こうの先輩方に怒られてるよ」
東高は北高の元分校である。その事実が加味しているのかそうでないのか、東高校の生徒は北高校の生徒に対して妙な対抗意識を持っている。というのがここ一年で由梨達が受けてきた印象だ。敵意というより、限定的なライバル意識のようなものだろうか。今日のような交流試合でも、まるで本試合のような気迫で挑んでくるのだ。
「東高の人達、一部はまだちょっとそういう雰囲気あるから。でも攻撃してくるわけじゃないし、そういうもんだと思って、気にしないほうがいいよ」
もちろん、由梨達も本気で挑む。だが東高のそれは、特にスポーツ関連は、体育科があるということも加えてやたらと気合が入っているのだ。ホスト側ということもあるだろうが応援もがっちりと本格的、慣れていない一年生は全体的に気圧されている。
(そういえば東高に入った佐倉くんもラインで前に愚痴ってたな。『スポーツやってる連中が意識高い系で引く、野球部入らなくて心底良かった』って)
三年生の引退後、近くおこなわれる大会に向けて新選手応援団共に肩慣らしとも言える舞台だが、そういう雰囲気に圧されることや物慣れないゆえの失敗は仕方ない。そう言ってしょんぼりした後輩を慰めていたら、近くに別の子も寄ってきた。
「さっきの自分も見ましたよ。すごく感じ悪かった。その後でミナジョに負けたのスカッとしましたけどね。ふん、もっとボコられたら良かったのに」
「声大きいよ」
「はーい、すみませーん。でも今度副審になったら、東高のだけライン誤魔化してジャッジしてやろっと」
「篠崎さん」
由梨は汗を拭っていたタオルを肩にかけ、真面目な顔で後輩に向き直った。北高のバド部は他校のと比べると上下関係は緩い部だが、そういう発言はさすがに見逃せない。
「そういうことを冗談でも言ってはだめ。そういう意識でいたら態度に出ちゃうし、北高が逆に侮られる。見返すなら正々堂々、コートの中で見返した方がいい。東高だってそうしてるんだから」
「……あ、すみません」
真面目な声で言うと、後輩が気まずい顔で肩をすくめる。こういう空気を長くもたせるのも性に合わないので、次いで笑顔で言った。
「その方がスカッとするよ。篠崎さん、かっこいいサーブもってんだから。次、一年生同士でしょ? 驚かせちゃえ」
「――はい!」
次の試合に呼ばれて立ち去って行った後輩を見送り、由梨は飲み干したドリンク容器を洗おうと立ち上がる。と、傍にもう一人来ていた。
小柄な由梨からすると背が高く、黒く長い髪を一つに結わえたすらりとした立ち姿。何やらきらきらした瞳で、由梨を見つめてきている。
「河上さん。どうしたの?」
「羽田せんぱい、さすが。素敵ですっ」
「何が?」
きょとんと首を傾げた由梨に対し、黒髪の後輩は――今年入ったばかりの新部員の新一年生、河上美恵子はいっそう目をきらきらさせている。バドは初心者ながら覚えが良く、素直でとっても可愛い後輩だ。ワンコ系だなあと由梨はひっそり思っている。
「今の対応が、です。諫めるだけじゃなくて、ちゃんとフォローも入れて励ますのが素敵だなって。先輩のそういうとこ、見習いたいなあ」
「え、ええ?」
その後輩に、何やらとても持ち上げられている。元から人懐っこい子なのだが、たまに崇拝めいた視線で見つめてくるのはたじたじとなるしなんとも面映ゆい。
「大袈裟だよ。先輩として普通のことを言ってるだけで」
「そこ、そこなんです。羽田先輩のいいところって、自然体で皆の支えになれるところだなって」
わあっという声援をバックに、後輩は目をきらきらさせて言った。
「羽田先輩は、私のヒーローなんです」、と。
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「―――でね、その子が言ったの。『羽田先輩は、私のヒーローなんです』って」
数日後。由梨は、白鳥家のリビングにて座っていた。
「ヒーロー?」
「うん。ヒーロー」
からん。透き通ったグラスに透き通った氷が当たって澄んだ音が鳴る。光を透かすのはメロンソーダの緑色。開けられたばかりの炭酸がしゅわしゅわと小粒の気泡を立ち上らせている。
「『入部の案内をしてくれた時からずっと、羽田先輩の居るような部活に入りたいなって思ってました。バド部に入ったのも、実際に羽田先輩が部の雰囲気を良くしてくれていたから入ろうと思ったんです』」
緑色の海に浮かぶのは白いアイスクリーム。氷との境がしゃりしゃりと気持ちいい。
「『私も羽田先輩みたくなりたいなって思ってて、だから羽田先輩は私のヒーローなんです』……だって」
その部分をスプーンで掬って食べながら、たまにしゅわしゅわのメロンソーダを口に含みながら。
「私ね……照れくさかったけど、すっごく嬉しかった。だって、小さい頃の夢だったんだもん」
「ヒーローになるのが?」
「うん」
「ふ~ん?」
見上げた由梨の視線の先で、同じくメロンソーダを突きながら由梨の彼氏は微笑む。最近短く刈り込んだ髪が新鮮で、日に焼けた肌と白い歯の対比が目に鮮やかだった。
小さい頃はいがぐり頭だなあという印象しかなかったのに、成長した今では違った印象を受けるのはどうしてだろう。頭の形が良いことと、最近いっそう男性らしく逞しい体格になってきたせいだろうか。新しい髪型をそう言って褒めたら、照れくさそうに笑いつつ「由梨に言われるとなあ。近頃マジでほんとに……いやなんでもない」ともごもご言っていた。そして慌てたようにこちらのファッションも褒めてくれた。
なんにせよ、入学前からの由梨の彼氏であるかっちゃんは、今日も大変かっこいい。
からん、とまた氷の音。
「かっちゃん、私ね……小さい頃、ボールがどうしても遠くに投げられなかった時、一番悔しかったのが『自分は男の子と肩を並べられないんだ、ヒーローになれないんだ』ってことだったの。でもそのせいかな、自分は女なんだって突きつけられた時、ある意味ホッとした。ああ、だから自分はヒーローになれないんだなって」
「……」
涼し気なグラスを見つめながら思いを重ねる。
あの頃の由梨は、「投げられない」ことに悩みながら同時に逃げ道を探していた。自分が至らない理由を、どうしても取っ掛かりを得られず目指すものに到達出来ない言い訳を無意識に追い求めていたのだ。だから、それが「性差」という形で顕れた時、内心で「助かった」と思った。「投げられない」ことを瞬時に認められ、すぐに諦めがついたのだ。ついてしまったのだ。
「今の時代は男だからヒーローとか、女だからヒロインとか、そういう考えは古くなりつつあることも知ってる。でも、スポーツにおいて根本的な男女差ってのは今のところ埋められる気がしなくて。男バドの試合見てても凄いスピードだしついてけないし。もし男の人に負けない女の人がいるとしたら、相当な身体能力の上に相当な努力を重ねないと無理なんだろうなって」
そして自分は、そこまでする気力も継続の才能も持っていなかった。
「そう考えるとヒーローってのは、私にはつくづく遠い世界だったんだよね。憧れても、なれる素質は無かった。女だからって簡単に諦めちゃったその瞬間から、私はヒーローになれる資格も失った。……でもね、やっぱり憧れは消えてなかった。私ずっと、誰かが素敵だな、かっこいいなって思うようなヒーローになりたかった」
だから、一人に初めてそうはっきり言ってもらって、すごくうれしかった。求めているヒーロー像でなかったかもしれない、けれど、その子は由梨に対しちゃんと言ってくれたのだ。「自分もそうなりたい、だからあなたはヒーローだ」と。
「――でもま、由梨は昔からヒーローじゃん」
「え、えええ?」
思いに浸っていたら、いきなりの不意打ちがきた。顔を上げると、由梨の告白をすぱーんと打ち返すような言葉を放った彼氏が、涼しい顔でアイスの山を崩している。
「だって由梨は、俺にとっちゃ昔から普通にヒーローだし」
「?」
どういうこと。と目を丸くすると、勝也はまた笑って続けた。
「初めて逢った時から、由梨は俺の中で憧れだった」
――前に言っただろ?保育園の頃から、俺はずっとずっと由梨をかっこいいと思ってた。あこがれてた。
追い付きたいと思ってた。隣に並びたいと思った。今も、そうするために必死で走ってる。運動も勉強も出来る、努力家な由梨の彼氏で居たいって。
由梨は、昔からずっと俺のヒーローだよ。この先もずっと。
「………な、にいってるの、もう」
「あれ、羽田先輩? お顔赤いですよ?」
もうっと頬を膨らませ、由梨はそっぽを向く。かっちゃんはたまにこう。外見についての褒め言葉はいつも遅れるくせに、能力や内面については由梨が呆気にとられるような、何も言葉が出てこなくなるような照れくさい台詞をさらっと言うのだ。
悔しくなって、お返しに言ってやった。
「私だってかっちゃんをヒーローだと思ってたから。そういう風になりたいって、昔……今も、そう思ってるから。バド始めて、ラケットで遠くに飛ばすコツは覚えたけど、やっぱり素手でボール投げるの苦手だし。いつかはかっちゃんみたいに投げるの上手になりたいって考えてる。北高の野球部次期主将で、二年生ながらエースピッチャーの白鳥勝也くんに凄く憧れてる。おこがましいけど」
浅黒い肌が、嬉しそうにほんのりと赤くなる。あんまり動揺してる風に見えないな、と思って、嫌なことを重ねてしまった。
「………でさ、かっちゃん、」
「ん?」
「ちょっと嫌なこと言うよ」
「言ってみ」
「………私、その、かっちゃんのそんな期待に応えるような人間じゃないから。勉強も運動も、簡単に嫌になって出来なくなる可能性がある。私がかっちゃんのヒーローじゃなくなったら、どうするの?」
かっちゃんはほんの一瞬真顔になって、それからまた笑った。
「なんだ、そんなこと。願ったりだよ」
「願ったり!?」
「俺の羽田由梨さんファン歴をなめんなよ。何年ストーカーしてたと思ってんだよ。むしろ教えて欲しいよ、どうやったら由梨が普通の女に見えるのか。この先、由梨が勉強出来なくなったとして、たぶん俺は逆にホッとする」
――だって俺の由梨への気持ちは、ヒーローなんていう一つの言葉で纏められるようなもんじゃないから。
「由梨は? この先、俺が投げられなくなったとして、俺を尊敬しなくなる?」
「………。あれ、逆に嬉しいとか思っちゃった」
「だろ」
例え外見が様変わりしたって、表面的な能力が見えなくなったとしても、この気持ちはその程度では変わらないことを由梨はもうとっくに学んでいる。見つめると感じるものが、変わらない限り。自分の中の「投げたい気持ち」が他へと移りゆかない限りは。
「かっちゃんが投げなくなっても、私、かっちゃんが好きなことに変わりないから」
「……だろ」
――それが、他人と恋人の違いなんだ。
勝也がテーブル越しに腕を伸ばして、誘われるように自然に顔が近付いた。おでこから始まって、頬、鼻、そして唇を合わせる。自然で優しい、ふたりだけの触れ合い。
目が合うと、笑みと暖かな気持ちがこぼれる。もう一度くちびるを合わせて、メロンソーダの温度を分け合った。馴染ませるみたいに、温め合うように。
――ヒーローがヒーローじゃなくなるってことは、より近くなるってこと。
「由梨、部屋に行こ」
「…………これ飲み終わってからね」
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勝也達が高校に進学し、一年と数か月。二度目の夏休みが巡ってくる。
初夏を過ぎた太陽が焼け付くような熱さを以て、グラウンドに降り注ぐ。その中で、野球部員は一列に並び、被っていた帽子を脱いだ。
響くサイレン。
灯るスコアボード。
吹き鳴らされる金管楽器。
散らばる白いユニフォームと、スパイクで蹴散らされる黒い土。
春を越え夏を迎えた球児たちは、今日も白球を追い続ける。その胸には、彼らだけのヒーローがいるのかもしれない。
余裕に見えてる誰かさんが実際どうなのか、うっすら察してやってください(笑)
美恵子ちゃんは別作「とんだ逆転劇(仮)」の主人公です。だいぶ古い作品ですが、読んでくださった方々に心から感謝を込めて。




