意識する心臓
病院です。
*アミ*
ノッコが分娩室に入ってすぐに、アレックスが息を切らせてやって来た。
額には汗がにじんでいる。相当急いで駆けつけたようだ。
雨模様で蒸し暑い日に熱中症にならないだろうか。
「滝宮様、到着してそうそうご面倒をかけてしまってすみません。」
アレックスが滝宮様に挨拶している間に、亜美は控室の側の売店で人数分のジュースを買ってきた。
「亜美さん! 宮様から聞きました。いろいろお世話になったそうで…ありがとうございます。」
「いいえ、そのために私は来たんですから。間に合って良かったです。それよりアルさん、ノッコが待ってますからこれを一口飲んで、行ってあげてください。」
そう言って飲み物を差し出すと、缶に入ったジュースをごくごくとあらかた飲み干して、アレックスは分娩室に入っていった。
「気が利くね。ありがとう。」
滝宮様はジュースを受け取りながら、にっこり笑ってお礼を言ってくれた。
イケメンの笑顔は破壊力があるね。眼福眼福。
ケネスさんにも渡すと、「えっ、わしにも?」と驚かれた。
あれ? 護衛中の人に飲み物を渡すのはいけないのかしら?
でも受け取って飲んでくれたのだから良かったのだろう。
30分程待っただろうか、アレックスが満面の笑みで分娩室から出て来た。
「無事に生まれました! 女の子で4000グラムを超えていたそうです。」
「そうか、おめでとう!」
「良かったぁ。」
女の子なのに4000グラム超えとは…さすがノッコの赤ちゃんだ。
しばらくすると、アレックスがもうそろそろ会えると思いますと言って、皆を新生児室のガラスのところに連れて行ってくれた。
すぐに奥のドアが開いて、看護士さんがベビーラックを押して出てきた。
アレックスと滝宮様と亜美の3人は、ガラスに顔をくっつけるようにして産まれたての赤ちゃんを見た。
大きい。
思っていたよりも大きい赤ちゃんだった。
新生児なのにもう高校生のような顔をしている。
「これはジャスティンよりしっかりした顔だな。」
アレックスはとろけそうな笑顔で娘の顔を覗き込んでいる。
「美人ですね。大人になった時が楽しみだ。」
滝宮様の評に、アレックスが早くも将来のことを心配したのか、顔を微妙に歪めたのが面白かった。
でも本当に美人だ。
目はまだあいていないのでわからないが、鼻筋が通っていて口元が愛らしい。髪は黒髪で、くせ毛なのか湿った髪が所々巻き毛になっている。
フリフリのレースのドレスを着せたいかも…。
亜美は赤ちゃんを見ながら、頭の中で出産祝いの服を検討していた。
◇◇◇
*ヒデ*
アレックスの息子のジャスティンがお手伝いさんに連れられて病院にやってきたので、私達は帰ることにした。
ここは家族だけにしてやるべきだろう。
亜美さんと並んで車に座りながら、時差ボケからのこの騒動で疲れてぼんやりしてきた頭で、とりとめのないことを考える。
アレックスは本当に羨ましい男だ。
綺麗な奥さんをもらって、それに子どもにも恵まれて、私より年下だというのにしっかりと家庭の主人として堅実な人生を歩んでいる。
私はこの何年間、いったい何をして来たんだろうなぁ。
そんなことをぼんやりと考えていると「ゴンッ。」という鈍い音がした。
亜美さんが車の揺れで、窓に頭を打ち付けたらしい。
「んっ…?」と言いながら亜美さんは薄目を開けかけたが、睡魔の方が強かったのかまた寝てしまった。
秀次の口元に優しい笑いが漏れる。
どうやら気づかないうちに、彼女は隣で舟をこいでいたようだ。
顔をよく見ると、ツルンとした素顔だった。
車の窓から射し込む日差しを受けて、柔らかそうなうぶ毛が金色に光っている。
屋敷にいる時に、寝ようと思って化粧を落としたのだろう。
難しい顔をして眉間にしわを寄せて眠っている。
じっと見ていると面白い。
何の夢を見ているのだろうか? 眠っているのに時折表情が変わる。
亜美さんにはこういう無防備な顔を見せる男の人がいるのだろうか?
もしいるとしたら…その男はバカだな。
1か月もイギリスに野放しにして、誰かに攫われても…知らないぞ。
田舎道に入って道が悪くなった時、亜美さんがまた頭を窓にぶつけそうだったので、秀次は手を出して自分の肩にもたれかけさせた。
亜美さんの頭の重みが肩に心地いい。
ふうわりと花のような香りが鼻孔をくすぐる。
その香りに安心して、秀次はいつの間にか亜美さんの頭にもたれかかって眠っていた。
◇◇◇
*アミ*
んー、何だか頭が重たい。
何かに押さえつけられているようだ。
でも時差ボケのせいか頭の中におがくずを詰め込まれたみたいで、何も考えることができない。
それでもしばらくするうちに重力で首筋がピキピキしてきたので、亜美は思い切って重たい瞼を開けた。
車? …揺れてる。
ああ、サマー領に帰ってるのか。
ぼんやりと下を見ると、自分の足が男の人の足と密着している。
えっ、どういうこと?
もしかして私の頭を押さえつけているのって……まさか?!
「お二人とも、もうすぐ着きますよ。」
運転席からミスター・ケネスが遠慮がちに声を掛けてくる。
「ん? ああ。すまない、寝てしまっていた。」
滝宮様の声が上の方から聞こえてきたと思った途端に、亜美の頭の重みもすっと軽くなった。
頭や首筋に負担はなくなったが、代わりに心臓がどきどきと動機を打ち始めた。
亜美も慌てて体を起こして、滝宮様から離れた。
信じられない! 私ったら宮様にもたれかかって寝ていたなんて…なんて、なんて恐れ多い。
「…すみません。なんかご迷惑をっ…。」
「ん? いや貴方が窓に頭をぶつけてたので、私がこっちに抱き寄せたんです。私の方こそ…重かったでしょう。」
「いえ、とんでもない! すみません…。」
なんか…なんだか恥ずかしくて、宮様と目を合わせられない。
車がノッコの家に着くと、玄関前に守屋さんが出迎えてくれていた。
「お疲れ様ですっ。お先に失礼します。」
亜美は滝宮様に続いて車を降りると、守屋さんの側をそそくさと通り抜け、階段を駆け上がって二階の客室のドアをバタンと閉めた。
…キャー! 恥ずかしい。
大失態だわ。
勢いのまま、ベッドに倒れ込むと頭の上まで布団をかぶった。
キャー! 信じられない。
***
亜美が2階でキャーキャー悶えている時に、秀次は「逃げられた。」と呟いていた。
「は? なにか仰いましたか?」
「いや、無事に生まれたよ。元気な可愛い女の子だ。さぁ、私達も暫く休ませてもらおう。守屋、アレックスが帰ったら起こしてくれ。」
「はい、わかりました。」
亜美の部屋の前を通る時に、秀次は一瞬足を止めたが、すぐに思い直して自分の部屋へ入っていった。
こんなに胸が高鳴ったのはいつ以来だろう…。
高揚した身体をベッドに横たえて、2部屋先にいる亜美のことを考える。
「空気のような存在か……。」
車で見た彼女の寝顔を思い浮かべながら、秀次はいつしか微睡の中に沈んでいた。
どうなるんでしょう。・・でも今はおやすみなさい。