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起-4-

 その姿を咎めもせずただ困ったように笑って眺めているのは、高見家総勢千二百八十四名の頂点に座す当主だ。充分な陽光の入る南側に設けられた部屋は朝でも暖かい。品の良い印象を与える細い一重は微睡んでいるようで、その奥の眼光は鋼を孕んでいる事を誰もが知っていた。

「随分とご機嫌だな、悠絃(ゆうげん)

「そりゃあ、な。正師範が見習い風情に足蹴にされる光景など、この先も見る事なんてまずない珍事だ。実に愉快、愉快」

 翳りなく綺麗に笑う悠絃とは対照的に、高見家当主はその瞼を伏せる。規律を乱し、暗闇の空間で独り静かに座しているだろう見習いを思うと、少し心配になる。

「まるでお転婆娘を見守る父親の心境だな、聡耶」

 快活な笑声は消え、不意に投げられた言葉。

「一年前。雪を血に染め、門前に倒れていた娘。森の向こう側から来たという、異端の者」

 深く落ち着いた声音が紡ぎ出す記憶の欠片を聞きながら、聡耶の脳裏に蘇る光景がある。

 冬になると一面の銀世界に覆われる都でも、特に寒い日だった。高見家の門前で倒れ伏す血塗れの姿は、息をしているだけでも奇跡なくらいの深い傷を負っていた。白いベッドの上で荒い呼吸を繰り返し、懸命に死と抗う姿が庇護欲を掻き立てたのも、否定しようのない事実だ。

「その瞳が宿す碧は、何故か見る者の心を捕えて離さない。なのに当の本人は、こちら側にまるで興味がないとでも言いたげな態度を取り続けている」

 まるで叶わない恋をしているようだな、と。

 悠絃のおどけた様な口調の中には、確かな哀しみが潜んでいた。

「或いは、報われなかった初恋を後生大事に仕舞い込み、その疼くような痛みを懐かしんでいる――そんな感覚、なのだろうな」

「……随分と戯曲的な物言いを」

「俺の戯れに付き合ってくれるのはお前くらいだろう、聡耶」

 片目を瞑って見せる悠絃に、聡耶は軽く肩を竦めるだけで返答に替える。訪室早々、俺が淹れてやろう、と目の前の彼が恩着せがましく用意してくれた緑茶に視線を落とした。備え付けの簡易台所で薬缶の湯を沸かし、慣れた手付きで急須で茶を淹れる姿を見る度に、果たしてこの部屋の主はどちらなのだろうと思ってしまう。

 湯呑みに口をつける。啜った緑茶の暖かさは、初冬の冷気に触れた体に優しく染みた。

「――それで」

 湯呑みをそっと文机の上に置いた聡耶の、その声音が変わる。

「何をしに来た、悠絃」

 穏やかな物腰は変わらない、ただ、その細い瞳の奥の輝きだけが鋭さを増す。正面から高見家当主に射抜かれ、今度は悠絃が肩を竦める番だった。

「そういえば、お前に隠し事は出来なかったな」

 今更気付いたかのように、戯れていたのはここまでだ。

「聡耶」

 高見家当主を呼ぶその顔は、千を超す修羅場を潜り抜け、命を懸けて誰かを守り続けてきた正師範のそれだった。

「仁は、雨は凶兆の徴と警告してきた。それを、久賢の様に戯言だと切って捨てるのもいいだろう」

 冠誕の儀は、伝統ある高見家の儀式。都の者ではなく、森の向こう側から来た得体のしれない娘の言葉に、その森に住まう妖から都を守護する役割を担ってきた高見家が従うなど、誰が納得するだろう。

「だが――……、あいつの言葉は、重い」

 神の座す森――都を囲むように広がる深い森を、そう最初に称したのが誰だったのか。誰にしろ、都の者達は皆、闇を内包する深い森を〝神座の森”と呼び、恐れ、忌み嫌い、そして、僅かな好奇を覗かせる。

 都の外周に巡らされた、魔除けの赤を纏った高い壁は境界線だ。そこから一歩出れば、そこは狭間の世界。更にその先の、鬱蒼と茂る森にぽっかりと空いた空洞は、人ならざる者が住む世界への入口。そこへ足を踏み入れれば、二度と生きては戻れないかもしれない。何があっても理不尽ではない、そういう世界だ。


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