起-3-
「由緒正しき冠誕の儀を前に、何を騒いでおる」
「久賢正師範」
「南華、問いに答えを」
高見家師範の肩書を持つ南華でさえ、彼にしてみれば生まれたての嬰児に等しい。齢六十を数えながらも未だ第一線で刀を握る久賢と正対出来るのは、当主と、同じ階位を持つ者くらいだろう。
着物の袖口に両手を入れたまま腕を組んだ久賢の、陽族特有の宝石を嵌め込んだような双眸は逃げる事を許さない。
「……冠誕の儀を」
玻綾を傍らにゆるりと上体を起こす姿を一瞥し、南華は言葉を継ぐ。
「ハレの雨は凶兆の徴。それ故、神座の森に近付くべきではない、と」
「……ほう」
鋭い一重の瞳をより細めた久賢は、南華の視線を追って自然と鍛練場に座す姿を見下ろす。
「年に一度の階位習得の機会。この日の為に血の滲むような努力をしてきた」
冠誕の儀を迎えること、それは、退魔師養成機関で日々鍛練に励む門下生全員の目標だ。そこで認められて初めて、見習いから半人前になることが出来る。
初めて、誰かを守る為の刀を握ることが出来るのだ。
「その想いを踏みにじる程の理由が、お前にあるのか、仁よ」
名を呼ばれ、仁は顔を上げる。大抵の者はその眼光だけで震え上がる久賢を、碧の双眸が正面から見据えた。
「ハレの雨は闇からの警告。それ以外の理由はありません」
「――下らぬ」
久賢は一言で切って捨てる。その宝石の瞳に、初めて浮かんだ色は、明らかな軽蔑だった。
「迷信などと、退魔師を志す者が口にするとは愚の骨頂。それを恥もなく、況して命を賭す覚悟を持つ若者の未来を奪う理由として語る……、嘆かわしい」
零された溜め息は重く、その場にいる者の肩に圧し掛かる。この場にいる誰よりも命を懸けてきた久賢は、だからこそ、その言葉には門下生を想う深い心があった。
「実に嘆かわしい。所詮、穢れた血か」
その一言に目の前が真っ赤に染まる。膨れ上がった激情のまま口を開きかけた玻綾の視界を、遮るその手は光の恩恵を受ける身にしてはあまりにも白かった。
感情の波を一瞬で凪いでいった手の持ち主は、身に纏う気配は静寂のまま。刀の鞘で殴られた左脇の下を押さえながら立ち上がるその背を、玻綾は半ば茫然と見上げた。
「警告はした」
ぶつけられる言葉も、そこに籠められる想いも、彼女にとっては無意味。
向けられる心から逸らされた碧の双眸は、事態をただ見守っていることしか出来なかった南華を捉える。すっと、細い指先が彼を示した。
「私の保護者は君で、判断を下すのは当主」
それ以外の者の言葉には従わないと、言外に仁は告げる。彼女の言葉は常に簡潔で、無駄がないからこそ容赦もない。それは相手にどう思われても興味がないと、そう言われているような気がした。判断を師に任せ、久賢には既に一瞥すらくれないその姿に、言いようのない不安に襲われる。
不意に、風のように髪を撫でていった手がある。呆気に取られていたのは数秒なのに、我に返って玻綾が見遣った先には、回廊を歩いていく背中があった。
嵐が去った後の鍛練場には、互いの次の行動を窺うような、緊張とは些か外れた呆けた空気が流れる。いつの間にか雨が止んでいた空は、目に沁みる程の蒼さだ。
***
「――……という騒動が、あったんだがな」
朝食を摂ろうと腰を上げかけたところへ突然の訪いをした彼は、実年齢よりも遥かに若く見える容姿で豪快に笑った。
「小娘に負の感情一つ向けられず、存在することさえ興味がないと、言外にそう告げられた時の久賢の呆けた顔。聡耶、お前にも見せたかったぞ」
その時を思い出したのだろう、心底可笑しくて堪らないと、高見家に二名しか在籍していない正師範の片割れは、腹を抱えて笑い、その目尻に浮かんだ涙まで拭って見せた。