起-2-
沈黙を守り続ける師範も思いは同じだろう。何せ、十ある鍛練場の一つを任せられる師範の肩書を持ちながら、弟子一人ひとりに心を砕く程の優しさを持ち合わせた人だから。
だからこそ、南華は決して口を挟まない。全てに平等であるべき師範がただ一人に肩入れするような発言をすれば、その者の立場がより不利になる事を理解しているからだ。
この状況を何とか出来るのは、自分しかいない。
そう言い聞かせた玻綾が、更に厳しい言葉を掛けようと口を開きかけた、その刹那。
「――雨」
重苦しい静寂を破った声に、玻綾だけでなく南華も弾かれたように振り返った。母屋と鍛練場を繋ぐ回廊の入口に、これから捜しに行こうとしていた者の姿がある。その身に纏う首元を隠す装束には、見覚えがあった。昨日、彼女が着ていたそれと寸分の違いもない。
雨だ、と。
釣られる様に外を見遣った門下生が、雲一つない澄み切った青空から降り注ぐ雫を認めて、半ば茫然と呟くのを、酷く遠いもののように聞いていた。
「仁……」
玻綾の呼びかけに、そこで初めて彼女の視線が動く。その気怠げな瞳が宿す碧は、この都では決して見ない異端の色だ。
「ハレの雨は凶兆の徴。神座の森には近付かない方がいい」
無感動に告げられたその言葉の意味を、最も敏感に読み取ったのは果たして誰だったのだろう。個々のそれは微力だが、同一の感情はぶつかり合い、清浄な雫に洗われた空気を荒々しく染め上げる。
「――……巫山戯るな!」
斬り付けるような怒声。それに被さる様に響いた重い打音は、仁の胸倉を掴んでその華奢な体を回廊の柱に叩き付けた音だ。
「木刀すら握れぬ半端者が、痴れ言を吐かすな!」
激昂する宵の殺気じみたその表情を、至近距離で見遣る深い湖底の瞳に宿る感情は、無い。
「…………ッ!」
それがまた、相手の感情を逆撫ですることを、彼女は理解しているだろうに。
恥辱と屈辱に、宵の顔が歪む。
「俺達が、どんな覚悟でこの日を迎えたか……お前如きに解ってたまるか!」
吐き捨て、乱暴に突き放す。その反動で倒れ込んだ仁に駆け寄る者は、誰もいなかった。
緩慢な動作で上げられた碧の双眸が捉えたのは、蔑みや嫌悪の表情を浮かべる門下生達でもなければ、況して、肩で大きく息をして己を睨み付けている宵でもない。
「――南華」
体面だけでも取り繕えと何度も注意を受けながら、一度として正される事の無かったその態度は、この場に満ちる陰性感情を増幅させる要因にしかならない。
敬愛する師を辱められて、殺気が膨れ上がる。
空気が唸る。容赦なく放たれた一撃は、たとえそれが鞘に納められたままとはいえ、起き上がりかけた華奢な体を再び地に沈めるには充分だった。
「南華師範!」
悲鳴にも似た批難の声は玻綾のものだ。伏した仁に駆け寄る弟子の姿を、南華は冷酷な光を宿した瞳で見下ろした。その姿は、怒りで我を忘れていた門下生達を一瞬で硬直させるには、充分な気魄だった。
「師範、何もここまで――……ッ」
「――何の騒ぎだ」
張り詰めた空気を切り裂いた重厚な声に、その場にいた門下生だけでなく、師範である南華の背も緊張に伸びる。一斉に向けられた幾対もの視線をものともせず受け止め、皴が目立ち始めた顔の中で尚も鋭利な光を失わない紫水晶の瞳が見る者を威圧する。