起-1-
高見家の朝は早い。陽が昇りきらぬうちに敷地内に配置された灯篭には火が入れられ、闇の気配に満ちていた屋敷が俄かに騒がしくなる。朝日が顔を覗かせる頃には、広大な敷地内に点在する鍛練場に覇気の籠もった掛け声が響き渡ることになる。長く続いた雨が上がればまた一つ季節が進んだようで、冷え込んだ空気は初冬のそれだ。吐いた息は白くなり、早朝の寒さにも負けず鍛錬に励む門下生の中に案の上、その姿はなかった。
「…………」
腰に片手を当て、深い溜め息をつく。充分に睡眠はとったはずなのに疲労感を覚えて一度閉じられた瞳は、活気に満ち溢れた鍛練場を滑る。片隅で一心不乱に木刀を振り続けるその姿を、紫水晶の双眸が捉えた。
「玻綾」
凛とした声に応じ、素振りを中断した女性は回廊に立つ己の姿を認めると駆け足で近付いてきた。
「お呼びですか、南華師範」
胸の前で両手を合わせ一礼する玻綾は問うような視線を投げかけながらも、その理由を彼女も半ば予想しているだろうことは、上げられた紺色の双眸が宿す輝きで知れた。
それでも敢えて、南華は問う。
「仁は?」
案の上、玻綾の紺色の瞳が揺れる。一応その姿を捜すように鍛練場に視線を彷徨わせ、当然の事ながら見つかるはずもなく、結局師匠の元へ戻って来たその表情は、彼女の実年齢よりも幼く映った。
「ご覧の通りです」
二十歳を疾うに過ぎたはずの玻綾が小さく舌を出す姿に、南華は眩暈を覚えて目元を揉んだ。
「……昨夜、あれ程言っておいたのに」
その反応の悪さから半ば予期していた事とはいえ、実際にこうして姿を見せないとなると溜め息を禁じ得ない。今までとは明らかに状況が異なるのだ。だからこそ、個人指導という名目で昨晩この場所で、南華は重ね重ね言い聞かせたと言うのに。
既に早朝の鍛練も終わろうという時刻になっても未だに、彼女は姿を現さない。
「仕方ない。私が直接……」
「師範、それが」
数いる弟子の中でとにかく朝が弱い彼女は一度としてこの早朝鍛練に出てきた例がない。どうせまだ布団の中にいるのだろうと踵を返しかけた南華の背を、戸惑いを含んだ玻綾の声が追ってきた。
「部屋にいないんです」
前代未聞、師範直々に起こしに行こうとしていた南華は、精悍な目元に険を宿して玻綾を見遣る。
「出掛けたのか?」
「と、いうよりも……寝床を使った形跡がありませんでした」
僅かな逡巡を滲ませながらも事実を伝えた玻綾の報告に、弟子の私生活での保護者も兼ねている師範は、細めた紫水晶の瞳に凍えた光を宿した。
つまり、自分が話をした後、その足で行方をくらましたということか。鍛練と称した説教を一見神妙に聞いているようで、その実、不本意を隠しもしなかったその姿をよく覚えている。だが、ここまで明らかな行動に出ると、誰が予期しただろう。
しかし、それよりも何よりも、南華の眉間の皴を深くした原因は。
「無断外泊とは……流石の私も庇いきれないぞ」
都の守護を担う高見家は、秩序と礼儀を重んじる。それは千を優に超す大集団を纏め上げる為の手段であり、だからこそ、それを乱す者を組織は決して許さない。
その頂に座す当主の温和な性格に敢えて反するかのように、高見家の罰則は特に厳しい事で有名だ。
「師範……」
恐らく同じ結末を思い描いているのだろう。不安げな弟子の呼びかけに、南華はその銀髪を優しく撫でた。
「とにかく、捜させよう。妖に襲われているとも限らない」
南華のその一言で、不安定に揺れていた玻綾の紺色の瞳が鋭くなる。
明確な境界線の向こう側、いつ頃から存在しているのかさえ不透明な、されど確かに息づくモノ。闇を総べる隣人を、光の恩恵を受ける人間はその総称として妖と呼んだ。彼等はただそこに存在しているだけ。人間と同じように生きている、だからこそ、不可侵の秩序が自然と築かれた。
しかし、堅牢であるはずの摂理にも時として穴が開く。それがどのような理由で生じたものであれ、厄災の火の粉は大火になる前に払わなければならない。
人に仇名す妖を狩る者、魔を退ける者の育成機関の一つが、高見家だった。だが、退魔師であろうとも無敵ではない。況してや見習いの身であるなら、より無力。
「仁と同じ班の者達で行きます。指揮は?」
「……任せよう」
僅かに生じた逡巡を、優秀な弟子は見逃してくれなかった。
「毎度毎度迷子の迎えに出ていては、身が持ちませんよ」
そこが師範の好い所でもありますけどね、と。
嬉しそうに笑って、玻綾は背後を振り返る。それ故に、弟子に甘い自覚がある南華が浮かべた自嘲気味な笑みを見ることはない。
「宵、紫溂、臣、智晴!」
日課の早朝鍛練を終え、本日の朝食の内容を楽しみに待つ、そんな緩やかな空気が流れ始めた空間に鋭い呼名が響く。名を呼ばれた四名は即座に緊張を纏い、二人が待つ回廊に綺麗に横一列に並んだ。
「おはようございます、南華師範、玻綾準師」
最年長である臣の、真面目な性格を如実に表す綺麗な拝礼に他の三名もそれに倣う。
そんな彼等に、胸中の不安を悟られない様に殊更おどけた仕草で玻綾は応えて見せる。
「早朝からごめんなさい。空腹を抱えているところ申し訳ないけれど、私と一緒に捜索に出てくれないかしら?」
「捜索、ですか? 一体、誰の……」
困惑気味の四対の双眸が鍛練場を彷徨う。先輩門下生とその師範が二人揃う、その光景に少なからず異変を感じ取っている彼等の中に、足りない顔はないはずだ。
言外に伝わってくる戸惑いに、玻綾は苦笑を禁じ得ない。
そう、確かに、彼等の見ている世界に変わりはない。
「仁よ」
玻綾は努めて平坦な声音で、欠けた者の名を伝える。
それは寧ろ欠けていて当然の存在であり、名を聞いた瞬間のその変わり様は顕著だった。
「……まだ寝ているだけでは?」
嫌悪感を隠そうともしない後輩達に、玻綾は溜め息を呑み込んだ。
「部屋にいないから貴方達を呼んだのよ。外に出たまま戻っていないわ」
いつからなのかを敢えて伏せて、玻綾は不服そうな面々を眺め遣る。
「今日が貴方達にとってどれだけ大切な日なのか、解っているつもりよ。でもね、これは命が懸っていることなの」
それがどんなに規律を破り、高見家が最も重んじる和を乱す存在であろうとも、それは決して、命を蔑ろにする理由には成り得ない。感情を理屈で無理矢理納得させる遣り方は好きではないが、今は一分一秒が惜しい。
だからこそ玻綾は、敢えて冷淡に、命を下す。
「…………」
厳しい戒律の存在するこの世界では、上位者の言葉は絶対だ。その鉄の掟を身に沁みて理解している彼等は、それでも尚、嫌悪を滲ませて互いに顔を見合わせた。
「――承服しかねます」
その中でただ一人、一度として玻綾から視線を揺らす事の無かった青年が、静かに口を開く。
いつの間にか、周囲の騒音は消えていた。
「宵……」
「今日は冠誕の儀。余所者に割いている時間はありません」
僅かな躊躇いも覗かせないその物言いに、玻綾は思わず頭を抱えたくなるのを何とか堪えた。
ここにいない相手に大声で怒鳴ってやりたい。だから、日頃の行いを改めろといつも言っているのだ、と。
理解してもらおうとせず、一線を画そうとするから、本当に助けが必要になった時でも誰も手を差し出さないのだ。