幻痛
今日は日曜日だ。替え刃を新しいものにする日だ。
私はいつもの日曜日の習慣通り、愛用している大きめのカッターと、その替え刃の小さなプラスチックケースを机の引き出しから取り出した。
丁寧に古い刃を外して新しいものに付け替えていると、何かこう、神聖な儀式を行っているような気がする。いや、正にその通り、これは私にとって一種の神聖な儀式と言えるかもしれない。そしてこの儀式は、毎週同じ日の同じ時刻に、規則的に繰り返される。
私は刃をカッターにしっかりと固定した。新品の刃が、部屋の明かりを受けてキラリと光る。
よし。これでまた一週間、大丈夫。
正しいリストカットのやり方は、意外に知られていない。
映画やマンガで、腕に対して横に切るという間違ったイメージが氾濫しているように思える。しかし本来は、縦に切るのが正式なやり方だ。つまり腕に走る血管にそって切るのだ。血管に対して垂直に切り込みを入れるのではなく、魚を捌く要領で、血管の細い管を縦に切り開く。
とは言っても、最初はなかなか思い切りがつかないものだ。そんな初心者のあなたには、切るのではなく、まずは刺すというやり方をオススメしたい。刺すというのは必然的に勢いをつけるので、刃物を握った手をいったん動かし始めてしまえば、後はためらう間もなく一瞬だ。
私の場合は、どちらにするかはいつもその時の気分で決める。どちらのやり方もそれぞれの良さがあるものだ。今日は何となく、刺す方の気分だ。
1、2、3、えいっ。
あくまでも無造作に、腕に刃を突き立てる。刃が肉に入った後ごく僅かのタイムラグがあり、私の脳が肉体に傷が付いた事を認識する。そして頭の中に火花が散る。こめかみの辺りに、温かく優しい感覚がじんわりと広がるのだ。それはとても気持ちが良い。私は目を閉じてその余韻を味わう。
新しい替え刃はすんなりと私の肉に食い込んでいた。柔らかい。
よくマンガで人を刺す時に、「グサッ」とかいう擬音が使われるが、あれはおかしい。肉に刃物が刺さる時の音は、どう聞いても濁音では表現されない。それはむしろ柔らかな静寂だ。
私は傷口をチェックした。良し。
ここで一旦刃物を机に置く。そう慌てて何度もするものではない。これは神聖な儀式なのだから、優雅に味わわねばならないのだ。
私は刺した箇所を心臓の下くらいに持ってきて、よく眺める。もちろんあまり高く上げ過ぎないよう注意する。出血に勢いが無くなってしまっては、元も子もない。
出血は、火花に続くもう一つの楽しみだ。この時腕は必ず垂直にする。血液が腕を伝って流れる感触を、より長く楽しむためだ。腕を横にするとすぐポタポタと床にこぼれ落ちてしまうから、もったいない。
温かい、私の血。それが腕を伝わり這って行く感触は、愛撫のようだ。私は私の内部の何かが、私を愛していることを知る。
出血をしばらく楽しんだら、再び刺す。私は何度かそれを繰り返していた。その時、私の携帯電話が鳴った。
無視しているにも関わらず、それは鳴り止まない。一旦終わったと思ったら再び鳴り始める。私は舌打ちをした。この時間にかけてくるのは、誰か分かっている。自称、私の「親友」だ。
私は電話を取った。電話の向こうから響く、媚びるような彼女の声。
彼氏の話に始まり、友人の噂、職場の上司の愚痴、芸能人の話題。いかに自分が大変か、可哀想か、それでも健気に頑張っているか。いかに自分以外の人間が、「おかしい」か。そんな生産性の低い話題が次から次へと出てくる。
私はただ適当に相槌を打つ。そうしながらも私は軽く刺す。そしてなんだか可笑しくなり、心の中で笑った。彼女には、まさか私がおいしいスイーツの店の話を聞きながら、こんなことをしているとは想像つくまい。
私は空想した。こういう類の人間を、数年に渡り監禁して拷問を加え続けるという空想だ。無神経で無感覚の、彼女のような人間たち。
私は彼らを傷めつけ、その後に希望を与えよう。そしてそれを砕くのだ。それを何度も繰り返そう。私は彼らの心を強姦し続ける。彼らの瞳が、濁り、光を失うまで。その瞳に映るものが、彼らの心に届かなくなるまで。
塩水を飲ませよう。さらに乾くよう。
「XXX、死んじゃったんだって」
彼女の緊張感のない声が、私を空想から引き戻した。誰が死んだって?
彼女からもたらされたのは、ある有名な映画俳優の話だった。昨日、自殺したそうだ。私はニュースを見ないので知らなかった。
私は失望した。良い俳優で、好きだった。次回作を楽しみにしていたのに。
彼女はベタついた声でその俳優について何か言っていた。それにしても驚かされる。彼女にとっては、人の死も、彼女のネイルの瓶が割れた事件も、彼氏の自分勝手な振る舞いも、肌荒れも、お気に入ブランドの新作バッグも、全て同じ重さのようだ。驚異。彼女は驚異だ。彼女はまるで、私の前に立ちはだかる「世界」そのものだ。
俳優はなぜ自殺したのだろう。「世界」とうまくいかなかったのだろうか。彼も、腕を切ったら良かったのに。私は彼にそれを教えてあげたかったが、今となってはもう遅い。彼は死んだ。
勘違いしている人が多いと思うが、リストカットなどの自傷行為と自殺とは、対局にあるものだ。
失恋を苦にした女性が手首を切る。よくある陳腐な映画のワンシーン。だが私のリサーチによれば、ほとんどの場合、手首を切ったくらいで人は死なない。
手首ごと切り落とせば、あるいは。そもそも出血多量で死ぬには静脈を切断しなければいけないが、手首の静脈のすぐ近くには、神経が走っているらしい。神経を避けて静脈だけを切るのは外科医でもない限り不可能だから、神経ごと静脈を切断することになる。しかし、それこそ死ぬほど痛いだろうと容易に想像がつく。よほどの意志がない限り、途中で挫折してしまうだろう。
昔の切腹には首を落とす役割の介添人がいたそうだが、腹を切っても死なないのだから、手首くらいでそう簡単に死ねるわけがない。もしどうしても刃物を使ってやりたいのなら、頸動脈を一気に切断か、心臓を完璧に刺す、などの方法がある。しかしこれは自分でやるには難易度が高い。死ぬためにわざわざそんな失敗の確立が高い方法を取るくらいなら、初めから、最も成功率が高いと言われている首吊りや飛び降りを選ぶだろう。死のうという人間には、失敗することが一番の恐怖なのだから。
現代の社会において、自殺にしろ何にしろ人が何かの計画を立てる時、まず最初にする事はググる事だ。そして「自殺 方法」でちょっとググれば、これくらいの情報はすぐ手に入る。それすらせずに焦って手首を切るような人間は、死ぬ気なんかないのだ。人の本心は言葉でなく行動に現れる。リストカットする人間、本気で自殺を考えるような人間は、リストカットなんかで死ねないという事を良く知っている。自傷行為の事をよく知らない人がそれを誤解するのは、きっとその人は「自殺 方法」でググった事などない幸福な人だからだろう。おめでとうございます。
彼女は延々と喋り続ける。よくもまあ、これだけ話す事があるものだ。それに顎が疲れないのだろうか。日頃から男のアレを咥えて顎を鍛えている成果だろうか。
彼女にとって会話とは(これが「会話」と呼べるものなら。むしろ「演説」に近い気がするが)例えば音楽家が楽器を演奏するのに似ている。目的は、「聞いてもらうこと」だ。彼女の場合も同じで、彼女の話は単なる音声だ。話の中身は何でも構わない。重要なのは、音を出して人の関心を集める事だ。
自傷行為をする人間は、関心を引きたいのだと言う人もいる。しかしそういう説を述べる人は、もう少し頭を使っていただきたいものだと思う。
キチガイはキチガイであって、馬鹿とは違うのだ。
自分で自分の身体を傷つけるようなキチガイを、わざわざ構うような人間はそうそういない。それくらいキチガイでも分かる。
キチガイに構う暇人やキチガイを放っておけない優しい人がやたらとその辺に転がっていると考えている、「自傷行為構ってちゃん説」の持ち主は、失礼だが随分おめでたいと言うか、人間を信頼している心の素直な人なのだなあと思う。私はなんだか気恥ずかしくなる。
誰でも、キチガイなんかと関わりたくないに決まっている。もし本当に構ってもらいたいのだったら、少なくともキチガイでないふりをするはずだ。そういう人なら、きっとあなたの周りにもいる。
ようやく、彼女は満足したらしい。
膨らんでは弾け消えてゆくシャボン玉のような会話を終わらせ、私は電話を切った。
ひどく疲労した。私はやれやれと溜息をつくとベッドに寝転び、待ち構えていたように私の楽しみへ、私の世界へと戻る。
今日は刺すのはもう飽きたし、彼女のおかげで気分も削がれたし、今度は切ろう。
最初は、刃の先端部分を当て慎重に位置を決める。切る時は仕上がりの美しさにもこだわりたい。だいたいの形がイメージできたら、開始位置に軽く刃を差し込む。ゆっくり、切っていく。新しい刃は気持ち良く切れる。切り口が鋭ければ鋭いほど傷の塞がるのが早く、傷跡も残りにくい。
真新しい赤い筋が、すうっと、私の腕の真ん中に現れた。私は思わず姿勢を正した。
美しい切り口だ。まるで天の川のようだ。最近のものの中では、一番良い。これは私の数ある傷跡の中でも、お気に入りの一つになるだろう。私はすっかり嬉しくなった。
切った部分は、痛いというより熱い。熱だ。熱だ。私は生きている。私は燃焼している!私は幸福になり、微笑む。
なぜ切るのか。
私にとってリストカットは、痛みから逃れるためのとても合理的な方法だ。
私の中に、痛みを伴った悲しみが住んでいる。
ある時、私は私の私の一部が欠けていることに気付いた。どこか欠けているのか分からない。ただ、欠けている事だけは分かった。
欠けた部分は次第に痛み始めた。そしてその痛みは耐え難いものになっていった。しかし、私には為す術がなかった。「欠けている」部分が痛むのだから、手当の仕様がないのだ。私は心の奥底から、その欠けた部分を乞うた。神に祈った。しかし祈りは届かなかった。私は祈るのをやめた。その代わりに私の手は刃物を握り、自らの肉体を傷つけた。何故か分からない。ただ本能的に、自然にそれを行った。
その後偶然、何かの本で、病による苦痛に苦しむ人がその痛みから一時でも逃れるため、自らの肉体を傷つけているという記事を読んだ。その時私は、私が正しかったのだと知って胸が震えた。
真の痛みから逃れる術は、他の痛みを受けることだ。一時の軽い痛みは思いのほか効果があり、例え一時とはいえ、本物の痛みを忘れさせる力がある。
その事を私は本能で知っていたのだ。だから何も考えずに手近な刃物を取ったのだ。人の、生きる力、生きようとする本能の逞しさを、私の身体は証明してみせたのだ。
切った時、しばらくしてから腕の痛みが少しづつ増してくる。しかしそれと反比例して、「欠けた部分の痛み」が、軽くなってゆくのが分かる。これは特異な感覚だ。他にこれを味わう機会はあるだろうか。一つの痛みに従って、別の、違う種類の痛みがすうっと消えてゆく。開放される快楽と、痛みという苦痛を同時に味わうのだ。とてもとても、エロティックでもある。
そして流れ出る血は、時間が経つと自然に止まる。私は私の内部で、システムが、私を活かそうとするシステムが、機能しているのを目撃する。私が私をどれほど疎ましく思おうと、そのシステムは私を生かそうという大いなる意志を持っているのだ。そして、私の中にささやかな誇りが生まれる。
私は生きたい。世界中の全てが否定しても、私には、私の中に存在する大いなる意志という味方がいるのだ。リストカットは、その大いなる意志が今日もまだ私の中で燃焼しているかを確認する作業でもある。
そして確認が終わると、私は心安らぐ。
私は欠けている。しかし、私は欠けたまま混沌の中を歩く。目的地は無い。歩く理由もない。しかし歩く。意味などない。必要であれば、腕でも何でも切る。それでも歩く。
なぜかは分からない。ただ私の生きる力が、内部から、私を立ち上がらせ、歩ませるのだ!
私は無いものを探している。答えを探している。紀元前の遠い日から、全ての人間がその生涯のうちに一度は問うたであろう問いの答えを、私も探す。私だけの答えを探す。
しかし、私は私の欠けた部分を探さない。私は欠けた部分を抱えたまま、行くのだ。それともあるいは、その痛みは、ただの幻痛だろうか?
目覚まし時計が鳴った。朝だ。起きるべき時間だ。私が人間に戻るべき時間だ。
何故か。生きている事は正しいのだから。私はそう決めた。そのために目覚まし時計は鳴る。今朝も、決まった時間に。
私は身を起こし、シャワーを浴び、顔に水を浴びてギラギラした瞳の光を覚まして無色にし、乾いてこびりついた血を洗い流し、腕の傷には包帯を巻き、夏だというのに長袖の服を着る。
化粧をし、少しだけ踵の高い靴を履き、ありふれた通勤用のバッグとゴミの袋を持ち玄関の戸を開ける。マンションの廊下で同じ階の住人とすれ違うので、過度でない親しみやすさで軽く会釈をする。
エレベーターで一階に下り、ゴミを出し、バッグを抱え直し、腕時計をチラリと見る。
踵を鳴らし、駅までの道を早足で歩く。