何度確認しても異世界のようです
しばらく進んでいっても、全く道が見える気配はない。一時間も歩いただろうか。
腹は減るし喉も乾く。僕らは苛立ちを募らせていた。
「ねえ、まだなの?」
清水が苛立ったように尋ねる。すでに数回尋ねられた質問で、僕と山下は無視している。ジャングルは湿度が高く、不快指数が高い。ついでに清水の不快さも高い。イライラが伝播してきているのか、僕も山下も苛立ちを隠そうとする素振りすら見せない。
無言でずんずんと進んでいくわけだが、かといってアテがあるわけでもない。ステータスを信じるなら、盲目的に山下の直感+1に頼るしかないのだ。誰がどう考えても、あんなジャングルのど真ん中で助けが来るなんて楽観的な考え方はできないだろう。
だが、考え方によっては、あそこに留まってサバイバルに備えた方がよかったのかもしれない。十分な装備を整えてから出発しても問題はない。
「ねえってばー、まだなのー?」
腰の剣に手が伸びそうになるのを心で抑えながら、僕はずんずんと進んでいく山下の後を追う。今更後悔しても遅い。もう歩き出したのだから、何らかの成果が上がらないと、立ち止まるのは難しい。
さらにしばらく進んでいると、急に山下が立ち止まって、周囲をキョロキョロと見回し始めた。
「……どうした?」
「なんか、嫌な予感がする……」
直感スキルがそう告げているのだろうか。山下は弓を構えて、矢をつがえる準備をした。僕も剣を抜いて四周を警戒する。清水も、さすがに空気を読んで盾を構える。
……なんで盾なんだろう。
「ぐるるる……」
茂みの中から、唸り声が聞こえた。と思った瞬間には、茂みの影から犬が襲いかかってきた。
僕はその犬に飛びかかられて、組み倒される。剣を構えていたので、首筋を狙って噛み付いてきた犬は、剣の刀身に噛み付こうともがく形になった。荒い息が、僕の顔にかかった。臭い。生臭い死の匂いだ。
犬は、刃で口が傷ついたのか、組み伏せた僕から素早く離れ、また違う獲物に飛びかかる。
「こ、来ないで!」
狙いを付けられた清水は盾を構えた。構えたと言っても、目を閉じて犬の方なんて完全に見ていない。そんな清水は犬から見ればいい獲物に見えたことだろう。犬は清水に飛びかかった。
その飛びかかった瞬間に、山下が射た。放たれた矢は、綺麗に犬の脇腹に吸い込まれて刺さった。それでも犬が吹き飛ばされたり、光の粒子になったりするわけでもない。
「きゃあああ!」
そのままの物理法則で、犬は矢を受けながらも清水の腕に噛み付いた。
「清水!」
僕は大慌てで起き上がって、駆け寄る。そして剣を振りかざして振り下ろす。清水に覆い被さって、彼女の盾の装備された右腕に噛み付いた馬鹿な犬に向かって、僕は全力で剣を振った。
漫画みたいに、ずばっ!と軽快な音は出なかった。ごりっ、という骨を砕く嫌な感触があって、その次に大きなブロック肉に引っかかるような感覚。背中から刃が入って、そのまま脇腹で止まった太刀筋は、そこから大量の血と臓物を引きずりだしながら、犬を遠くへ放り投げるような結果となった。
生き物の70%だかは水で出来ているとかなんとか、生物の授業でやったけども、僕はそれを強烈に思い出していた。漫画みたいにもっと「ぶしゃー!」と血が出るかと思ったのだが、まるで餃子の肉汁がどろっと出てくるみたいに臓物がでろんと出てきて、それに伴った血液がバケツをひっくり返したように撒き散らされた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
勝利のファンファーレが鳴るわけでもない。明確に戦闘と移動が分けられるわけでもない。かっこ良く勝利のポーズをとるわけでもない。僕は荒い息をつきながら、神経をピリピリさせて周囲を警戒していた。
清水は自失呆然としているようで、何もかも信じられない!というように目を見開いて、組み伏せられて寝転がったまま、どこかそのへんの空間を見つめていた。
山下は、矢をつがえてしばらく目視で周囲を警戒していたが、直感スキルが安全だと告げたのか、わりとすぐに警戒を解いた。
「大丈夫?」
とにかく、僕は寝転がったままの清水を助け起こすことにした。顔を守るように、下手なファイティングポーズみたいになった両手をとって、引っ張って彼女の上体を起こしてやる。彼女の制服は血まみれで、最高に生臭かった。僕が犬を斬ったときに、臓物がかかっていたのだ。
「ふ、ふええええん」
とうとう清水は泣き出してしまった。そりゃそうだ。僕だって泣きたい。犬は完全に僕を殺して食おうと喉笛を狙ってきたし、必死の形相は目が血走っていて、牙はどろどろのヨダレまみれで、……うう、思い出したくはない……。
一番ラッキーだったのは山下だろう。襲い掛かられはしなかったわけだし。でも山下は弓道か何かをやっていたのだろうか。簡単に弓を扱ったように見えた。
「わかんない。ただ、なんとなくこうすればいいのかなーってのを感じて、それで構えたの」
なるほどわからん。でも僕も剣道をやっていたわけでもないのに、剣を振るうことができたのも、不思議なことである。一体何がどうなっているのか、わけがわからない。
「おうち帰りたいよー!お母さーん!」
ビービー泣く清水を見て、僕も山下も少し悲しくなった。僕にだって帰る家があるし、家族がいるのだ。誰だって例外はない。異世界に飛ばされたと仮定するなら、こんなに絶望的な状況はない。始まりの街あたりに召喚されれば別だったのかもしれないが。
しばらく、休憩の意味合いを含んで、僕らは清水が泣き止むまで彼女の背をさすってあげることにした。
「大丈夫。きっと大丈夫」
「終わらないゲームはないよ。きっと何かクリア条件があるはずだよ」
「たぶん他の学校の人たちもこっちに飛ばされてるはずだよ」
「仲間を探しに行かなくちゃ。ね?」
とか、自分に言い聞かせる意味でも、僕と山下は清水に優しい言葉をかけ続けた。
とりあえず血塗れになった制服はもう着てられない。血の匂いを撒き散らしながら、敵のいるジャングルを進むわけにもいかない。
幸い、全員とも体育ジャージを持っていたので、清水にはそっちに着替えてもらう。血塗れの制服は魔法のリュックに入れられた。
目を赤くして鼻水垂らしている彼女は、次第に落ち着いてきたようで、まだ涙はポロポロ零れるものの、しゃくりあげることはなくなった。
「立てる?大丈夫?」
「うん……。ありがと……」
なんとか立ち上がった清水は、犬の死骸を見て止まった。またトラウマスイッチが入ったかと半ば面倒臭く思いながら、僕は「どうした?」と聞いた。
「これ、狼だよね」
そう言われて見ると、確かに狼のようにも見える。というか犬と狼の違いなんてわかりゃしないというのが本音だ。
「あの、生物の先生が雑談で言ってたんだけど、狼は狼爪ってのがあるんだって。ほら、ここ」
そう言って清水が指差したのは犬の足だった。肉球のある部分とは離れた場所に、指が1本あった。まるで親指のように見える。
だからどうした、という目線を向けると、清水は憤慨したように口調を荒らげた。
「だから、これは狼で、普通狼はジャングルにいないの!」
「……あー、つまり?」
「おかしいのよ!自然に則してないの!」
「そりゃあ、異世界だからってことで理由付けできるんじゃないのか?」
その僕の何気ない一言で、清水は息を呑んだ。
「やっぱり異世界なんだ……」
これが全部ドッキリだった、という一縷の望みが絶たれたのだろうか。そんな希望はあんな不思議体験をしたのなら捨てておくべきだと思っていたのだが、清水はそうではなかったらしい。
がっくりと項垂れる清水を急がせながら、僕らはさらにジャングルを進んでいった。