人狼と魔王の喫茶店
銀色のヤカンから湯気が立ち上ったのを確認し白いカップに湯を注ぐ。カップが程よく温まるのを待ち、熱湯をシンクに捨てる。
余熱でほんのりと温まったカップの上に、薄茶色のペーパーを敷いた容器を置き、手入れの行き届いたミルで細かく轢いた薫り高い珈琲豆の粉を適量に容れ、少しずつ沸かした湯を三回に分けて回し入れ抽出していく。
白い外壁と薄い木の床の上に厚い木材で出来たカウンターと数席の机が置かれ、狭いながらも落ち着いた雰囲気を醸しだし、窓から差し込む日の光以外に光源の無い部屋の中に香り高い珈琲の匂いが充満し始める。
それを入れている人物、いや人と呼んでよいものか分からないものの、緩やかな動きで珈琲を入れているその存在は、珈琲特有の香ばしい香りに頬を緩める。
「うん、やっぱアレッサス地区の珈琲豆は最高だな」
若くは無い。しかし年老いたというわけでもない中性的な男性の声は、牙が生え揃う長い口から流れ出している。カップを押さえる左手からヤカンを持ち上げている右手まで全身に黒い毛が覆いつくし、その黒毛の生え揃う上半身にはよれた白いシャツを着込み、下半身は藍色のジーンズを履いている。そしてその風格には似合わぬ黄色いエプロンで身を飾り、尻部のジーンズの穴から抜き出ている黒い尾が、珈琲の香りを嗅ぐ度に少しばかり振れていた。
その異様な容姿の存在は、誰が見てもこう思うだろう。
人狼。それこそがエプロンを着た男性主人の姿であった。
「最近は魔物の発生が酷かったから心配だったけど、あっちはそうでもないのかね?」
「知らぬよそのような些事なことは。それよりも主様よ、はよぅそれを寄越してくれぬかの」
「……お前曲がりになりにも従業員なんだからさ、もうちょっとくらいこの店のマスターである俺に愛想良くしてもよくね? それにこれはお前に飲ませるためじゃなくて俺が飲むために入れたんだけど」
「じゃから様をつけておるじゃろ? わしにこう呼ばわれるというのは最上級の愛想とは思わぬか? つまりその珈琲を飲む権利があるということじゃ」
「全く思いませんし逆に馬鹿にされている気がしますが」
「何故敬語で否定するのじゃ! 泣くぞ! わし泣くぞ!」
「へいへい悪ぅございました。ほら、熱いから気をつけろよ」
香ばしい香りと共に湯気の立ち上る珈琲をカウンターを挟んだ席に座っている独特な喋りの女性へと送る。それに満足したようにカップの持ち手を摘み口へと運び、苦味と共に口に残る旨みの余韻に浸りながら息を吐く。
「うむうむ、やはり主様の入れる珈琲は最高じゃなぁ。というわけで、今度はミルクとシュガーを五杯ほど入れてもらえぬかの?」
「何がというわけでだよこの甘党が。最初からカフェオレを頼みやがれよお前はよ」
「何を申すか我が主様よ。珈琲というものは最初の一杯はブラックで飲み、その後はその者の好きなように飲むのが正しい飲み方じゃと申したのはお主様じゃぞ?」
「言ったよ? 確かに言ったよ? だけど誰がミルクと砂糖を五杯も入れた糖尿病待ったなし極甘党専用珈琲を飲むと思うよ」
「実際に居るのじゃから仕方ないのぉ。ほれほれ、早くせぬか」
カウンター席でとても従業員とは思えぬ態度で座り、人狼の主人とは対照的に黒く折り目のついた身奇麗なシャツに淡い薄茶色のズボンを履き、同じエプロンに身を包んだ女性は後ろで結んだ赤い長髪を揺らしながら、ため息を吐きながらも注文通りにミルクと砂糖を並々と珈琲に注いでいく。
美しいほどの黒く輝きさえ幻視できた色は最早無く、白くざらついた珈琲であったものを女性へと返すと、赤髪の女性は最高峰の宝石とも渡り合えるほどの美麗なその顔立ちを、とても嬉しそうな笑みへと変えて白い珈琲に口をつける。
「ふぅ~。やはり珈琲というものは、脆弱な人類が作り出した奇跡の産物じゃなぁ」
「それを俺は珈琲とは断じて認めんぞ」
「何を狭いことをのたまっておるか我が主様よ。嗜好というものは千差万別。それに難癖つけるというのはあまり宜しくないのではないかの?」
「正論ほざいてる気になってるかもしれないけどよ、きっとそれを見たら十人中九人が同じことを思うぞ」
「ではその一人がわしに同意するということじゃろう? なれば良いではないか」
長足の椅子に腰を落ち着け、足を揺らして楽しげに話す赤髪従業員の言葉に、黒毛人狼の主人は再度ため息を吐き出す。
平和という言葉が実に似合うその空気の部屋に目を移し、嘆息をつきながら人狼の主人は首を傾げる。
「しっかし、客こねぇなあ……」
今は昼の真っ只中。本来であればランチタイムで忙しくなり、昼食をとるために客も引っ切り無しに来ようというものだが、ガラスが取り付けられた扉の先を見ても誰も歩いてはおらず、壁に取り付けられた人の顔のようにも見える電話機も鳴り響く気配は無い。
要するに、暇であった。
「いつもならこの時間くらいには筋肉男爵とかパンツ伯爵とか来るのになぁ」
「そのようなあだ名で呼ぶから来なくなったのではないのかの?」
「筋肉男爵は直接言わないからばれてない筈だし、パンツ伯爵はそれを誇って自ら名乗ってやがるからどうしようもない」
「どうしようもないと言っておるが、それを最初に口にしたのはお主様じゃからな?」
酷い物言いをまるで当然だと言わんばかりの態度で話す人狼に、やれやれと赤髪の女性は頭を振るい白く染まった珈琲を飲み干し、余韻の一息を吐いてカップを優雅にソーサーに置き口を開く。
「まぁ、客が来ぬのはわしが人避けの魔術を使っておるからなのじゃがな」
「何してくれてんだお前?!」
まさかの衝撃的事実に手入れの行き届いた黒い獣毛の生え揃う両腕をカウンターに乗せて声を荒げる人狼に、赤髪の女性はまぁまぁと言わんばかりに手を振って落ち着かせる。
「いやなに、最近はわしも忙しくてな? 今日くらいはゆったりと過ごすのも良いじゃろうと思ったまでのことじゃ」
「休日は与えてんだからその日にゆっくりしろよ?! なんで営業してるその日にゆっくりしようとしてんだお前は!」
「休日ではお主様の珈琲を横取り、もとい入れてもらう事が出来ぬじゃろう?」
「横取りっつったかてめぇ。もしかしてさっきカフェオレを頼まずに俺の珈琲を飲んだのは嫌がらせのためか?」
「勿論それもあるわけじゃが」
「認めやがったよこの悪徳従業員……」
「悪徳なのは当然じゃろう? なにせわしは」
長足の椅子から勢いをつけて立ち上がり、胸に手を当てて腕を伸ばして赤髪の女性は妖艶に笑みを浮かべて人狼の主人に述べる。
「魔王じゃからな」
魔王。世界の敵として君臨し、魔の頂点に立つ忌み嫌われし存在。絶対的な力を持ち、圧倒的な魔力を要し、世界を混沌に導き人を絶望に堕とす悪者。
魔王を名乗る赤髪の女性は優艶に、妖艶に、美麗に指先を動かして自らを名乗る。絶対的な破壊者であると。完全で不秩序な存在であると。言葉は無くとも、身に纏う空気だけでそうと信じさせられる。
そんな不穏な空気が渦巻く中、人狼の主人は飲み干されたカップをシンクの水で洗いつつ、慣れたような声色で事実を告げる。
「……まぁ今は喫茶店のただの従業員なんだけどな」
「お主様! 今のわしの完璧なふりつけをただの等という三文字の簡素な言葉で砕くでないわ!」
「事実じゃん」
「事実でも! 言葉の選び方というものがあるじゃろうが!」
「そんなくだらないことより」
「くだらない?! 今わしの高尚な言葉をくだらないと申したか主様?!」
「人避けの魔術早く解けよ。客来ないと潰れちゃうんだよ」
「ぐぬぬぬぬ!」
「何がぐぬぬだ。いいから早く解けって」
「ツーンだ! そのようなことをのたまう主様の命令なんぞ聞かぬわい!」
「解かないなら珈琲代払ってもらうぞ? 銅貨五枚な」
その言葉に、魔王を名乗る女性は主人である人狼から顔を反らして額から汗を流し、ズボンから巾着袋を取り出して中身を確認する。しかし巾着袋を逆さまにしても埃だけが古ぼけた板床に落ち、カウンターへと泣きたくなるほどに軽すぎる巾着袋を勢いよく叩きつける。
「おのれ! 魔王が金に屈するなどと!!」
「魔王のくせに払えないんかい。いいからとっとと解けよ。客が入るまではカフェオレでも入れてやるから」
「わーい!」
喜怒哀楽を激しく揺り動かし、先ほどまでの優雅で妖艶な雰囲気が完全に吹き飛んだ魔王の女性は指を鳴らして魔術を解き、外見に見合わぬ子供のような言葉遣いで簡素な作りの足長の椅子へと座り直す。
「つか忙しいって言ってたけどよ、何してたんだよ」
騒がしい魔王が落ち着いたのを確認し、人狼の主人は先ほどの残り湯を再度温め、その間に少しばかり気になった部分を追求する。
「いやなに、ちょっとばかり魔物共の尻を叩いて人間の農場を襲わせたまでのことじゃ」
「ほんと何してんのお前ッ?! つか最近の妙な魔物の活性化はお前の仕業か!」
「まぁまぁ落ち着くのじゃ我が主様よ。これにはきちんとした理由があるんじゃよ」
まさかの爆弾発言に声を荒げる人狼の主人を魔王の女性は緩やかな動作で落ち着かせるように宥める。妙に落ち着いた態度に人狼の主人も疑問を抱き、荒くなった息を落ち着けて話を聞いていく。
「人間のみならず生命体にとって一番の害は平穏じゃ。何事も無い日々は人の進化を妨げる。しかし平穏無くして人は生きていくことは出来ぬもの。いわば病気を克服して体を強くするのと同じことじゃ」
「なんとなく違うような気もしないでもないが、まぁそれで?」
「つまり、わしが行うのはその平穏をほんの少しだけ脅かすことで、生ぬるくなってしもうた人の根性を叩き直す役目を担っておるわけじゃ。勿論それによる被害も出てはおるものの、国が傾くほどの莫大な被害ではないはずじゃ。もしそうであったなら主様も珈琲の調達なぞ出来なかったであろう?」
「つまり、刺激を与えることで人々に渇を入れてると?」
「まさにその通り。つまりわしがやったことは世のため人のためというわけじゃ。ほれほれ褒めてくれても良いのじゃよ?」
「……本音は?」
「人々の退屈な日常なぞわしがつまらん」
「珈琲代は給料から引いておくな」
「何でじゃあぁぁ!!」
魔王の悲しみに満ちた怒号が店の中で反響し、無情にも人狼の主人は伝票に珈琲代を記入してボードに貼り付ける。そして丁度良く湧き上がったお湯を先ほどと同じように白いカップへと注ぎ、同じだけの分量のミルクを入れたカフェオレを魔王の女性へと差し出した。
「うぅ、お主様はあまりにも心が狭いのではないのかのぉ……」
「むしろこれで済むだけありがたく思えや」
恨みがましくボードに貼り付けられた伝票を睨みつつ、出されたカフェオレを両手で包むようにして救い上げて口につけ文句を述べる魔王の女性の言葉を無視しつつ、人狼の主人はやはり現れぬ客に嘆息を吐き出す。
「……客、こねぇなぁ」
「じゃなぁ」
互いにため息を吐きながら、入れなおした珈琲とカフェオレを口に含む。
青い空の下、三日連続で客が訪れぬその喫茶店は、今日も今日とて、珈琲の香ばしい香りだけを街路へと流し続けていた。