クジラが浮かぶ猫の町
ある町の幹部の猫が、空腹に耐えきれず恥を忍んでボス猫に給料の魚を前借りに行きました。
ボス猫は大変厳格な猫でした。ですが同時に部下思いの猫でした。
「これを持っていけ」
魚屋の飼猫であるボス猫は百匹の魚の山をポンと出しました。
幹部猫は平伏して、
「ありがとうございます。色をつけてお返ししますので……」
「いらん。期限までに同じ数を返せばいい。いいな」
「は、はい」
ボス猫は炬燵の中へ消えます。面会は終わりです。
魚の山を抱え幹部猫はボス猫の家を後にしました。
感謝はしたものの、幹部猫は少し不機嫌でした。
これで当分は食うに困りません。でも無くなればそれでお終いなのです。
今度は自分が食べる分に加えて、ボスに返すための魚も獲らなければいけません。
誤解されては困りますが、幹部になるくらいですから魚獲りは上手です。
街には大きな川も海もあります。その気になればすぐに百匹くらい集められるでしょう。
しかし魚獲りは疲れます。自分の儲けにならない苦労をするのは誰だって厭なのです。
そこへ現れたのは眼鏡をかけた猫でした。
いつもニヤニヤ笑いを浮かべた狡賢い猫です。
「お悩みですね。いい方法がありますよ」
「言ってみろ」
「あなたの手下の猫のうち、魚獲りが上手な者を二十五人呼び出し、魚を四匹ずつ渡して期限までに二十匹にして返すように命じるのです。手下達は魚獲りが上手ですから二十匹程度なら簡単に集められるでしょう。全員が魚を返せば合計は元の五倍。ボスに百匹返してもあなたの手元には四百匹もの魚の山が残りますよ」
「なるほどそれはいい。……だが待て。もし手下共が魚を獲って来れなかったらどうするんだ」
厳格なボス猫のことです。前借りした魚を返さなかったうえにそんなことをしていたと知られたら幹部猫は八つ裂きにされてしまうでしょう。
しかし眼鏡猫は自信たっぷりと、
「大丈夫。その時は足りない数を私が補ってあげます」
「お前が?」
「はい。ただそのかわり手下達が返してきた魚のうち百匹を私に下さい」
眼鏡猫は言いました。「将来の百匹を諦めてリスクを無くすか、それとももしもの時に八方塞がりになるか。……悪い話ではないと思いますが」
幹部猫は考えました。百匹というのは多い気がします。しかし今のままではボス猫に八つ裂きにされてしまうかもしれません。
百匹渡す約束をすればそのリスクを回避できるのです。手下達が集めてくる五百匹のうちボス猫と眼鏡猫に百匹ずつ渡すのだから手元に残る魚は三百匹。減るとは言っても十分な数です。
「いいだろう。乗ろうじゃないか。――ただしお前が背負うのはボスに返す百匹だけじゃない。部下共が集める五百匹全部だ。もし用意できなければどうなるか、わかっているな?」
「ええ、もちろんですとも」
眼鏡猫は自分の胸を叩いてみせました。
間もなく、幹部猫は特に腹を減らした手下の猫達を選んで集めました。
幹部猫の横に眼鏡猫がいます。手下猫達は不思議に思いましたが、幹部猫の前なので口には出しません。
手下猫達が全員揃うと幹部猫は言いました。
「話というのはな、腹を空かしたお前らに俺様が魚を分けてやろうと思ったんだ」
「本当ですか」
歓声が上がります。
「ただし、だ。俺が渡すのは四匹ずつだ。それを受け取ったらお前らはそれを二十匹にして返すんだ」
手下猫達は顔を見合わせました。
「無茶苦茶じゃないですか」
「なに、お前らの腕なら二十匹くらい余裕だろう。まあ嫌ならこの話をなかった事にするだけだがな」
その言葉に手下の猫達はぐっと詰まりました。腹を空かしていて、目の前に魚があるのです。断れるはずがありません。
結局、その場にいた全員がその条件を飲んだのでした。
眼鏡猫は、幹部猫と手下猫達との契約を見届けたあと、黄色い街へ出掛けました。
黄色い街には普通の猫が住んでいます。魚を獲る腕前も普通です。
眼鏡猫は街の猫達を五十人集めてこう言いました。
「タダで魚が手に入る儲け話があるんだ」
「なんだって?」
猫達は話に喰いついてきます。
なにしろ何の苦労もなくタダで手に入るというのですから。
眼鏡猫はこう言いました。
「実はある事情で手下の猫達が幹部さんへ渡す魚を集められなかったら僕が肩代わりすることになっているんだが――もし僕の代わりに魚を肩代わりするリスクを負ってくれるなら、幹部さんから貰う予定の魚を君達に一匹ずつ分けてあげようと思うんだけど、どうかな。僕だけじゃ手下猫達全員分の魚なんてとても用意できないけれど、君達は手下猫達の倍くらいいる。君達全員で分担したら一人当たりが獲る魚の数はせいぜい十匹。無理な数じゃないだろ?」
「確かに」
「それに、そもそも魚を用意しないといけなくなるのは手下猫達が失敗した時だけ。あの魚獲りの上手い連中が失敗するなんてまず考えられない。違うかい?」
「なるほど。その通りだ」
黄色い街の猫達は眼鏡猫の話に頷き、約束を交わしました。
眼鏡猫はスキップしながらその場を後にしました。
なにしろ、これで何の苦労もなく五十匹もの魚が手に入るのです。
楽をして手に入る魚ほどおいしいものはありません。
さて、眼鏡猫が立ち去った後、黄色い街の猫達の元へ手下猫達がやってきました。
眼鏡猫のことが気になって後をつけていたのです。
話を聞き、猫達は眼鏡猫のずる賢さに驚き、また同時に歯軋りしました。
自分達は苦労するのに他の猫が楽をするのです。面白いはずがありません。
と、その時、一人がこんなことを言いました。
「俺達も同じようにやれば楽ができるんじゃないか?」
確かにそうです。その考えにみんなが賛同しました。
手下猫達と黄色い町の猫達は手持ちの魚を全て捌いてお刺身にし、青い街の猫達を訪ねました。
青い街の猫達は楽天家で快楽主義者。遊んでばかりなので魚獲りは上手ではありません。
手下猫達と黄色い町の猫達は青い街の猫達にこう言います。
「お前にこの魚の切り身を三切れやるよ。そのかわり、期限の日までに三十切れにして返してくれ。大丈夫さ。丸ごと一匹ならともかく、その程度ならお前でもどうにかなるだろ? それにな、もしも自分で集められそうにないんなら……」
青い街の猫達はこの話に飛びつきます。
なにしろ何の苦労もなくタダで手に入るというのですから。
そして青い街の猫達は、刺身をさらに細切れにして、赤い街の猫達の元へ。
赤い街の猫はいつも日向でうっとりのんびり、ごろ寝ばかりの怠け者。もちろん魚獲りは下手糞です。
「魚の切り身が一切れタダで手に入る儲け話があるんだけど乗らない? 実はね……」
赤い街の猫達もこの話に飛びつきます。
なにしろ何の苦労もなくタダで手に入るというのですから。
そして青い街の猫達は、刺身をさらにさらに細切れにして、別の街の猫達の元へ。
猫達はそんなバトンリレーのようなことを延々と繰り返しました。
バトンリレーと違うのは、渡すバトンがどんどん増えていったこと。
途中で魚がもう切れないくらい小さくなりましたが、代わりに爪で紙に魚の量を書き、それを誓約書にすることで解決しました。
こうなると、もはや元が何であったのか誰にもわからなくなってきます。巡り巡って幹部猫や眼鏡猫までが気づかず引き受けてしまったくらいです。
持っているだけでタダで魚が手に入る魔法の紙切れ。そのままではリスクがあるが、そんな危険は細かく分けて他の誰かに押し付ければ問題ない――。
最初はたった百匹しかいなかった魚が今では巨大なクジラ程に膨れ上がり、猫達の上を泳いでいます。
しかし猫達には見えません。猫達の眼に映るのは自分がタダで手にできる僅かな魚のことばかり。
もうじきみんなまとめて一飲みにされてしまうなど、誰も考えてはいなかったのです。