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とある会議の「甲子園みたいに、東京も東西で分ければいいんじゃないか?」という発言について

作者: 方丈
掲載日:2026/05/03

「甲子園みたいに、東京も東西で分ければいいんじゃないか」


その一言で、会議室の空気が止まった。


都庁第二本庁舎二十七階、都市政策局・広域行政再編検討チーム。名前だけは立派だが、実態は各局から持て余された案件が流れ着く調整部署だった。佐伯実は、その末席に座っていた。


発言したのは財政課の古賀参事だった。五十代半ば。都庁人生の大半を予算査定に費やし、都市に対する感情をすべてExcelの罫線で処理してきた男である。


「高校野球では、東京は東西に分けている。都政でも、広域行政区分として東西二極体制を検討する余地はある。少なくとも説明はしやすい」


誰も笑わなかった。


笑うには、少しだけ筋が通っていたからだ。


二十三区と多摩の格差。湾岸再開発への偏重。老朽化する東部低地。人口が抜け始めた郊外住宅地。都庁の内部では何年も前から、東京を一枚岩として扱うことに限界が来ている、という認識だけは共有されていた。


ただし、それを誰も口にしなかった。


東京を分ける。


その言葉には、行政改革というより、禁忌に触れる響きがあった。


「佐伯君」


古賀が、何でもないことのように言った。


「来週までに、東西東京分割案のたたき台を作ってくれ。甲子園方式でいい。西は多摩を含む。東は二十三区東部を中心にする。山手線内側の扱いは、まあ、適当に」


適当に。


東京で最も適当に扱ってはいけない場所を、最も適当に扱う指示だった。


佐伯は「承知しました」と答えた。都庁では、理解できない指示に対しても、まず承知する。承知してから、あとで絶望する。


その日の夜、佐伯は庁内資料室にこもった。


東京の地域区分に関する過去の審議会資料、都市計画区域図、災害リスクマップ、鉄道路線図、旧郡区町村制の変遷、河川管理台帳。棚から引き出したファイルを机に積むと、軽く二十センチはあった。


東西で分けるなら、どこに線を引くべきか。


隅田川か。山手線か。環七か。新宿を境にするのか。多摩川をどう扱うのか。湾岸は東なのか南なのか。練馬は西なのか北なのか。赤羽は東京なのか、埼玉の前線基地なのか。


考えるほど、線は引けなかった。


午前零時を過ぎたころ、佐伯は一冊の古い資料を見つけた。背表紙に手書きで「寺社配置及び都市防災史」とある。昭和四十八年の調査報告書だった。


ページをめくると、東京の地図に朱色の線が引かれていた。


東、南、西、北。


四つの方角に、寺院と神社と古い街道が結ばれている。注記には、奇妙な文字が並んでいた。


東方持国天。

南方増長天。

西方広目天。

北方多聞天。


佐伯は思わず笑った。


「四天王かよ」


その瞬間、資料室の蛍光灯が一本だけ消えた。


古い建物だから、そういうこともある。佐伯は自分に言い聞かせた。だが、ページを閉じようとしたとき、報告書の末尾に挟まれた一枚の紙が落ちた。


そこには、鉛筆でこう書かれていた。


――東京は東西に割ってはならない。

――二つに割れば、北と南が黙っていない。


翌朝、庁内チャットが炎上していた。


発端は、誰かが匿名掲示板に投稿した一枚の画像だった。都庁内部資料らしき表紙に、こう書かれている。


「東西東京分割構想 素案」


もちろん、佐伯はまだ一枚も資料を作っていない。


にもかかわらず、SNSではすでにハッシュタグが乱立していた。


#東京東西戦争

#多摩独立

#下町正統政府

#山手線内側を許すな

#練馬の帰属を問う


午前十時、知事会見で記者が質問した。


「知事、東京都を東西に分割する構想があるとの情報が出ていますが、事実でしょうか」


知事はいつもの微笑を崩さずに言った。


「現時点で、そのような決定をした事実はございません」


都庁で「そのような決定をした事実はない」と言うとき、多くの場合、「検討していない」とは言っていない。


昼には、都庁前に最初の団体が現れた。


「東京の本体は東にある」


そう書かれた幟を掲げたのは、浅草、墨田、葛飾、江戸川の商店街連合だった。先頭に立つ初老の男は、濃紺の半纏を着ていた。背中には白抜きで「東方」と染められている。


「江戸を名乗るなら、まず川を見ろ!」


男は拡声器で叫んだ。


「隅田川も荒川も中川も知らねえ連中が、東京を語るんじゃねえ!」


その二時間後、新宿駅西口には別の集団が現れた。


「多摩なくして東京なし」


こちらは大学教員、NPO職員、地元議員、住宅地の自治会長たちだった。プラカードの文面は妙に理性的だった。


「税源配分の是正を」

「多摩地域の医療・交通・教育基盤を都心並みに」

「二十三区中心主義の終焉」


だが、最後尾に掲げられた横断幕だけは異様だった。


「西方広目天、見ているぞ」


佐伯は、昼食を食べる時間を失った。


午後三時、湾岸から声明が出た。豊洲、有明、台場、晴海、勝どきの再開発協議会が連名で発表したものである。


「東京の未来は東西ではなく、海に開かれた南北軸にある」


添付された構想図には、東京湾上に浮かぶ人工島、国際金融特区、ドローン物流港、海底データセンターが描かれていた。


南が来た。


佐伯は資料室の紙片を思い出した。


二つに割れば、北と南が黙っていない。


夕方五時半、北も来た。


場所は赤羽駅東口だった。誰が呼びかけたのか分からない。だが、駅前広場には数百人が集まり、缶チューハイを片手に演説を聞いていた。


壇上に立っていたのは、区議会議員の経験すらない、居酒屋チェーンの元エリアマネージャーだった。名を亦羽譲という。赤羽の「赤」を、なぜか「亦」と書く男だった。


「東京の北を、ただの端っこだと思うなよ」


亦羽は言った。


「ここは境界だ。埼玉でもない。山手でもない。下町でもない。多摩でもない。だからこそ、全部が分かる。東京でいちばん東京を外から見ているのは、北だ」


拍手と歓声が起きた。


誰かが叫んだ。


「北方多聞天!」


別の誰かが叫んだ。


「亦羽知事!」


その瞬間、群衆が一斉に唱和した。


「亦羽知事! 亦羽知事! 亦羽知事!」


知事ではない。候補ですらない。だが、呼ばれた瞬間、そういうものになってしまうことがある。東京では、特に。


翌日、都庁内に「東京四天王」という言葉が広がった。


東方・隅田。

西方・多摩。

南方・豊洲。

北方・亦羽。


誰が名付けたのかは分からない。だが、あまりにも収まりがよかった。


佐伯の上司である古賀は、朝から頭を抱えていた。


「どうしてこうなった」


「東西で分けると言ったからでは」


佐伯が答えると、古賀は睨んだ。


「正論を言うな。都庁では、正論は責任の所在を曖昧にしてから言え」


その日の午後、緊急の庁内会議が開かれた。


出席者は、政策企画局、都市整備局、総務局、財務局、交通局、水道局、危機管理監、それに広報担当。会議室の大型モニターには、SNSトレンドの一覧が映し出されていた。


#四天王見参

#東方隅田知事

#西方多摩知事

#南方豊洲知事

#北方亦羽知事

#東京四分割案


広報課長が青ざめた顔で言った。


「まずいです。完全に物語化しています」


物語化。


行政が最も恐れる現象である。


制度は説明できる。予算も説明できる。用地買収でさえ、時間をかければ説明できる。


だが、物語になった都市は、説明では止まらない。


人は、合理性ではなく、自分がどの陣営に属しているかで動き始める。


「佐伯君」


古賀が言った。


「君の資料はどうなっている」


佐伯は、まだ白紙に近いファイルを開いた。


表紙には、昨日までこう書いていた。


「東西東京分割構想 検討メモ」


しかし、もうそれでは足りない。


佐伯は深く息を吸い、会議室を見回した。


「東西分割案は、現実に適合しません」


室内が静まった。


「東京の対立軸は、東西だけではありません。東部低地と西部丘陵、多摩と都心、湾岸と内陸、北部境界圏と山手中心部。複数の地理的、歴史的、交通的、経済的な軸が重なっています。東西で処理すれば、南北が政治化します。南北を無視すれば、周縁部が結束します」


「つまり?」


財務局の部長が言った。


佐伯は、資料室で見つけた古い地図をモニターに映した。


寺社、河川、街道、鉄道、環状道路。東京を横切る無数の線が、四方に広がっていた。


「東京は、一つの中心に向かってできた都市ではありません。複数の方角が、互いに引っ張り合って成立している都市です」


古賀が眉をひそめた。


「君は何を提案しているんだ」


佐伯は、自分でも馬鹿げていると思いながら言った。


「分割ではなく、四方自治協定です」


会議室の誰かが、小さく吹き出した。


だが、佐伯は続けた。


「東方は河川、防災、歴史的市街地再生。西方は教育、研究、自然共生、広域住宅政策。南方は国際物流、臨海産業、海上防災。北方は生活圏連携、広域避難、都県境政策。それぞれに重点権限を置く。ただし東京そのものは分けない。四方の競争を、分裂ではなく統治機能に変換するんです」


沈黙が落ちた。


古賀が腕を組んだ。


「……名前は」


「はい?」


「その案の名前だ。名前が悪いと、また燃える」


佐伯は一瞬迷った。


行政文書として妥当な名称なら、「東京都広域機能再編に関する方角別重点施策パッケージ」あたりだろう。だが、それでは負ける。すでに物語化した都市には、物語で返すしかない。


佐伯は、モニターのタイトル欄を書き換えた。


「東京四方自治構想」


その下に、副題を入れた。


「四天王見参」


会議室の空気が、再び止まった。


今度は、悪くない止まり方だった。


その夜、都庁を出ると、新宿の空は妙に明るかった。


東には隅田川の湿った風がある。

西には多摩の丘陵が沈黙している。

南には埋立地の灯りが海へ伸びている。

北には赤羽の駅前で、誰かがまだ何かを叫んでいる。


東京は一つではない。


だが、四つに割れば済むほど単純でもない。


佐伯のスマートフォンが震えた。古賀からだった。


「明日八時、知事レク。君も来い」


続いて、もう一通。


「あと、亦羽知事と名乗る人物から面会依頼が来ている。君宛てだ」


佐伯は空を見上げた。


都庁の上に、雲が四方へ裂けていた。


そしてなぜか、どの方角からも、こちらを見ている気がした。

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