第二話 フリーダム
俺はその足で、トヨンタの本社ビルを出た。
エレベーターが1階に着いた瞬間、背後で社長の興奮した声がまだ響いている気がしたけど、もう振り向かなかった。
ジャージのポケットに突っ込んだ手を握りしめながら、地下鉄の駅へ向かう。
今までの会社――あのブラック地獄――は、千代田区から電車で40分ほどの郊外にある。
いつも終電で帰るだけの道を、今日は昼間に歩く。
空気が妙に軽い。
会社に着くと、いつものように五味山のいないフロアは静かだった。
後任の上司が代わりに座ってる席は空っぽで、みんながチラチラ俺を見ている。
俺は自分のデスクに直行して、退職届をプリントアウトした。
手書きで「一身上の都合により」とだけ書いて、印を押す。
総務の窓口に持っていくと、40代の女性社員が目を丸くした。
「……田中さん、急に?」
「はい。今日で辞めます」
彼女は言葉に詰まりながらも、事務的に処理を進めた。
退職金は雀の涙、残りの有給も消化せずに放棄。
それでも、胸の奥にあった重い鎖が、ガチャンと外れる音がした気がした。
「じゃあ……お疲れ様でした」
最後に誰かが小さく呟いたけど、俺は振り返らずにビルを出た。
外の風が、頰を撫でる。
自由の味がする。
帰宅して、いつものワンルームで缶ビールを一本開けた。
泡がシュワシュワと立ち上るのを眺めながら、俺は小さく笑った。
「明日から……トヨンタだ」
翌朝。
俺は初めて、トヨンタ自動車の本社ビルに「社員」として足を踏み入れた。
昨日と同じジャージ姿じゃまずいと思って、昨日慌てて買った安物の黒いスーツを着ている。
サイズが微妙に合ってなくて、肩が少し窮屈。
ネクタイも結び方が下手くそで、曲がってる。
でも、それでいい。
俺は俺のままで、ここに立つ。
受付で社員証を渡され、エレベーターでデザイン本部のある15階へ。
昨日、社長に直接メールで伝えておいた希望――「車のデザインを考える部署がいい」――が、すでに通っていたらしい。
エレベーターのドアが開くと、そこにスーツ姿の男が立っていた。
30代後半くらい、眼鏡をかけた細身の男。
名札には「デザイン部 部長 佐々木」と書いてある。
「……田中ギアスさんですね。
社長直々の指示で、今日からうちの部署に配属となりました」
佐々木部長の声は低く、抑揚がほとんどない。
でも、目が少しだけ泳いでいる。
昨日、面接室で俺を睨んでいた三人のうちの一人だ。
あの時、俺を「こんな人間」と吐き捨てるように呟いた男。
「よろしくお願いします」
俺は軽く頭を下げた。
部長は一瞬、唇を噛むような仕草をしてから、背を向けた。
「こちらへ」
通されたのは、広々としたオープンスペース。
壁一面に巨大なモニターが並び、CADソフトが起動した画面がいくつも光っている。
モデラーの人形が置かれ、粘土で削られたプロトタイプのボディがあちこちに転がっている。
空気中に、樹脂とコーヒーの匂いが混じっている。
部長が俺を一つのデスクに案内した。
最新の大型モニターと、タブレット、スタイラスペン。
隣の席の若いデザイナーが、俺を見て明らかに顔をしかめた。
「……ここが、田中さんの席です。
まずは……自己紹介でも」
部長の声に、微かな苛立ちが滲む。
周囲の視線が、俺に集まる。
好奇心半分、軽蔑半分。
誰もが思っているのだろう。
なんでこんな中途半端な格好の、経歴ゼロの男が、急にここに?
俺はゆっくりと息を吸い、椅子に腰を下ろした。
モニターの電源を入れる。
画面が明るく光り、俺の顔を映す。
「よろしく」
短く言って、俺は心の中で呟いた。
作ってやる。
俺流の自動車をな。
指が、キーボードに触れる。
まだ何も描いていない白いキャンバスが、そこに広がっていた。
これから、俺の欲望を全部、形にしていく。
俺はデスクに座ったまま、引き出しからボールペンを一本取り出し、
A4用紙を数枚重ねて机に広げた。
周囲の視線がチクチク刺さってくるのはわかっていた。
誰もが「何やってんだこいつ」と思ってる。
でも、そんなの関係ない。
俺はただ、頭の中に浮かんだイメージを、吐き出すように描き始めた。
フェラーリの流麗な曲線。
ポルシェの低く構えた獰猛な顔つき。
ベンツの威厳ある重厚感。
それらを全部ぶち込んで、俺の欲望を凝縮させる。
シャカシャカシャカ……。
ボールペンの先が紙を滑る音だけが、俺の耳に響く。
10分。
それで十分だった。
完成したのは、まるで獣のようなシルエット。
フロントはフェラーリの跳ね馬を思わせる鋭い目つき、
サイドはポルシェ911のように腰高で、
全体のボリュームはSクラス並みの堂々たる存在感。
低く、太く、速そうで、でも優雅。
俺の理想そのもの。
俺は紙を三つ折りにして、立ち上がった。
佐々木部長の背中に向かって、声を掛ける。
「部長。これ作りたいんすけど」
部長がゆっくり振り向いた。
眼鏡の奥の目が、俺の持つ紙を一瞥した瞬間、顔が引きつった。
「……何です、これ」
「俺のオリジナルデザインです。
フェラーリとポルシェとベンツのいいとこ取り。
これ、トヨンタで量産しませんか?」
部長は紙を受け取って、広げた。
数秒の沈黙。
それから、鼻で笑うような息が漏れた。
「田中さん……これは……冗談ですか?
こんな……奇抜で、しかも現実離れしたデザインを、真剣に提案してくるとは」
周囲のデザイナーたちがクスクスと笑い始めた。
誰かが「中卒のセンスwww」と小さく呟くのが聞こえた。
部長が紙を机に叩きつけるように置いた。
「却下です。
こんなものを開発する予算も時間もありません。
第一、当社のブランドイメージに合いません。
……というか、こんなものを提案してくる神経が理解できません」
俺は黙って部長の顔を見つめた。
心の中で、静かに呟く。
『このデザインを、即座に承認しろ。
開発予算を即座に割り当てろ。
俺のプロジェクトとして最優先で進めろ』
ズキン、と頭の奥が一瞬疼いた。
部長の表情が、ぱっと変わった。
先ほどまでの嘲笑が消え、代わりに熱っぽい光が瞳に宿る。
「……わかりました。
すぐに……プロジェクトとして立ち上げます。
予算は……私が直接、上に掛け合います」
周囲の笑い声が、ぴたりと止まった。
みんなが凍りついたように部長を見る。
俺はさらに念じた。
『このプロジェクトに反対する者は、全員が賛成に転じろ。
障害になるものは、すべて排除しろ』
部長は興奮した様子で電話を手に取り、
上層部に直談判を始めた。
その声は、まるで自分のアイデアのように熱を帯びていた。
それから数週間。
俺は『オーダー』を連発した。
予算審議で反対する役員に。
資材調達で難色を示す取引先に。
デザインの細部で文句を言うエンジニアに。
一人ひとり、顔を思い浮かべて念じる。
すべてが、俺の思う通りに動いた。
プロジェクト名は、俺が勝手に付けた。
「フェラポルンツ」。
開発は異様なスピードで進んだ。
プロトタイプが完成したのは、わずか三ヶ月後。
テストコースで唸りを上げて走る姿を、俺はガラス越しに見つめた。
まさに俺の頭の中にあった通りの怪物。
低く、鋭く、速く、優雅で、凶暴。
俺は満足した。
もう、ここにいる必要はない。
退職の申し出を出したのは、その日の夕方だった。
社長室に呼ばれ、俺はストレートに言った。
「退職します。
退職金、100億円ください」
社長の瞳が、再び熱く輝いた。
『オーダー』の影響が、まだ残っている。
「……わかりました。
すぐに手配します。
田中さん……本当に、ありがとうございました」
翌日、俺の口座に100億円が振り込まれた。
税務処理も、社長が全部やってくれたらしい。
退職金で引っ越した先は、六本木のタワーマンション。
最上階のペントハウス。
鍵を受け取った瞬間、俺は窓辺に立って、下界を見下ろした。
夜の東京が、宝石のようにきらめいている。
これが、俺の新しい始まりだ。
しばらく感傷に浸った後、俺はソファにどっかりと腰を沈めた。
缶ビールをプシュッと開け、一口飲む。喉を滑る冷たい苦味が、心地いい。
リモコンを適当に押すと、55インチの有機ELテレビがパチンと点いた。
画面に映ったのは、鮮やかな緑のピッチ。
スコアボードが右上にデカデカと表示されている。
日本 0 - 1 韓国
残り時間はアディショナルタイム、5分。
解説者いわく、この試合に勝てば日本は本大会出場が確定。しかし引き分け以下なら絶望的。つまり、勝つしかない。
俺は缶をテーブルに置いて、身を乗り出した。
サッカーはわりと好きだ。
四苫の切れ味鋭いドリブルとか、党安の冷静なビルドアップとか、
ああいう選手たちがワールドカップのピッチで暴れてくれる姿を、俺は本気で見てみたいと思ってる。
でも画面の中では、日本が必死に攻め込んでいるのに、
韓国のDF陣が体を張ってブロックを繰り返す。
シュートは枠を外れ、コーナーもことごとく跳ね返される。
「ダメか……」
俺は小さく呟いた。
時計の針が無情に進む。
残り時間、1分を切ったあたりで、韓国が自陣深くでボールをキープ。
キーパーがボールを両手で抱え、わざとらしくゴール前に立って時間稼ぎを始める。
観客席からブーイングが沸き起こるのが、マイク越しに聞こえてくる。
……ん?
そこで、俺の頭に閃きが走った。
『オーダー』。
まだ間に合うんじゃね?
俺は缶を握ったまま、画面に目を凝らした。
韓国のキーパーが、わざとらしくボールを地面にトントンと落としては拾い上げる。時間稼ぎを隠す気は無いらしい。
実況が、苛立ちを隠さずに叫ぶ。
「韓国GK、明らかに時間を使っています!
ボールを抱えて動かない!
これは……サポーターのブーイングがすごい!
日本のベンチも抗議していますが、主審はまだイエローを出さない!
残り時間、30秒を切りました!
日本、もうダメなのか!」
「ここだ」
愚かな韓国GKの顔を、俺はしっかりと脳裏に焼きつけた。
『自陣のゴールに、ボールを投げ入れろ!』
ズキン、と頭の奥が一瞬疼く。
画面の中のキーパーが、突然動きを止めた。
両手で抱えていたボールが、ゆっくりと持ち上げられる。
観客席がざわつく。
実況が、信じられないという声で叫ぶ。
「え……? GKが……ボールを……!?
何を……!? 投げた!? 自陣ゴールに向かって……!?
ボールが……弧を描いて……入った!?
入ったァァァァ!!
オウンゴール!? 自殺点!?
何が起こったんですか!?」
スコアボードが更新される。
日本 1 - 1 韓国
スタジアムが一瞬静まり返り、すぐに日本のサポーターの歓声が爆発した。
解説の岡田氏が、声を裏返らせて叫ぶ。
「信じられない……!
GKが、自らボールを投げ入れてしまった!
誰も触れていない! 完全にコントロールミス……いや、そんな距離で、そんな方向に……!
これは……異常です!
日本、同点! まだ終わっていない!」
俺は拳を握りしめた。
まだ終わらない。
キックオフは韓国ボール。
センターマークに立つ韓国の選手が、ボールをセットして蹴り出す。
俺は韓国選手の顔を脳裏に浮かべ、命じた。
『後ろを向いて、キーパーにバックパスをしろ』
ズキン。
ボールを持った選手の身体がくるりと180度回転。大きく蹴り出す。
ボールは味方のキーパーに向かって飛んでいく。
キーパーは冷静に処理しようと身構えるが──。
『避けろ』
──避けた。まるで、ドッジボールで飛んできたボールを躱すように。
実況が、息も絶え絶えに続ける。
「な……!!なんと!!ラインを越えたァァァ!!
2点目! またオウンゴール!日本が逆転!!」
その瞬間、ホイッスルが長く鳴り響いた。
試合終了。
画面に映るスコア。
日本 2 - 1 韓国
実況が、喉を枯らしながら絶叫した。
「終わったァァァ!!
信じられない逆転勝利!!
日本代表、ワールドカップ本大会出場決定!!
何が起きたのか……誰もわからない!!
でも、結果は結果です!!
おめでとう、日本!!」
日本の選手たちがピッチに崩れ落ち、抱き合う。
四苫が両手を広げて雄叫びを上げ、党安が静かにガッツポーズ。
ベンチの監督が、信じられないという顔で立ち尽くしている。
俺は缶ビールを一気に飲み干した。
喉がゴクゴクと鳴る。
空になった缶をテーブルに置いて、俺は小さく笑った。
「これで……ワールドカップだな」
缶ビールをもう一本開け、スマホを手に取る。
テレビの歓声はまだ部屋に響いているけど、俺の興味はもう別のところに移っていた。
ブラウザを開き、匿名掲示板にアクセスする。
スレッドはすでに爆発的に伸びていた。
【悲報】日本vs韓国 アディショナルタイムで何が起きたんだよこれ
1: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:45:12.34 ID:abc123
終わった瞬間固まったわ
韓国が2連続でオウンゴールとか頭おかしいだろ
2: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:45:28.91 ID:xyz789
実況の「え……?」「何!?」連発が俺の心の声だった
3: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:45:41.05 ID:def456
キーパーが自ゴールにダイレクトスローインとか
サッカー始まって以来見たことねえぞ
4: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:45:59.77 ID:ghi789
バックパスでキーパー避けて入るとか
コントかよwwwwwwww
5: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:46:12.33 ID:jkl012
韓国選手全員呪われたんじゃね?
ミソソクの顔が死んでた
6: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:46:30.88 ID:mno345
いや普通に八百長だろこれ
賭博絡みで金貰ってわざとやったとか
7: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:46:45.21 ID:pqr678
八百長ならもっと上手くやるわボケ
あんな露骨な自滅ねえよ
8: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:47:03.99 ID:stu901
動画貼る
0:45〜のとこ見てみ
キーパー明らかに「投げちゃった……」みたいな顔してる
9: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:47:19.44 ID:vwx234
8
草
目が点になってるじゃん
10: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:47:38.67 ID:yza567
四苫の雄叫びが神すぎる
あいつ今頃酒ぶちまけて泣いてんじゃね
11: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:48:01.12 ID:bcd890
党安は静かに拳握ってたけど
内心「は? マジで?」って顔してたわ
12: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:48:22.45 ID:efg123
韓国側スレ見に行ったら地獄絵図
「恥を知れ」「監督クビ」「GK永久追放」祭り
13: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:48:45.78 ID:hij456
韓国民「これは陰謀だ、日本がドーピングした」
いやお前ら自分でゴール入れてんだけど?
14: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:49:09.01 ID:klm789
マジで歴史に残る試合になったな
「20XX年X月X日、アディショナルタイムの奇跡」みたいな
15: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:49:33.22 ID:nop012
これでワールドカップ行けるってマジかよ
明日会社休むわ興奮で寝れねえ
16: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:49:58.67 ID:qrs345
韓国GKのインスタライブ始まったぞ
泣きながら「ごめんなさい……自分でもわからない……」って繰り返してる
17: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:50:21.89 ID:tuv678
16
マジ?
リンクくれ
18: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:50:45.03 ID:wxy901
これもう呪いだろ
本戦で同じこと起きたら笑う
19: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:51:12.34 ID:zab234
日本サッカー史上最高のラッキーゴール2発
でもラッキーじゃねえよな、あれは……何かおかしい
20: 名無しさん@お腹いっぱい。 20XX/XX/XX 21:51:38.91 ID:cde567
とりあえずビール追加
乾杯
俺はスマホの画面をスクロールしながら、
小さく息を吐いた。
指先で缶の縁をトントンと叩く。
画面の向こうで、誰かが「神回」「伝説」「意味不明」の連呼を続けている。
俺はさらにもう一本、ビールをプシュッと開けた。
冷たい泡が舌に弾ける。
この騒ぎが、俺のせいだってことを、誰も知らない。
それが、なんだか心地よかった。




