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第一話 覚醒

俺は田中ギアス、30歳。今日が誕生日だ。

薄暗いワンルームマンションの隅で、スーパーの半額シールが貼られた弁当を膝の上で開ける。

唐揚げは冷えきって固くなり、彩り野菜なんて名ばかりの漬物がわずかに酸っぱい匂いを放っている。

箸を動かす手が、なんだか重い。


「はぁ……」

ため息が自然と漏れる。

今日も残業で終電。

上司の五味山が「俺の世代は根性でやってきたんだよ!」と喚きながら、俺の肩をバンバン叩いてきた感触がまだ残っている。

叩くたびに「てめぇみたいな中卒が文句言うんじゃねぇ!」と唾を飛ばしてくる。

そのたびに俺は「すみません」としか言えなかった。


給料明細を見れば、基本給は雀の涙。

残業代? 出るわけがない。

有給? 申請したら「そんな暇あるなら仕事しろ」と一蹴される。

週休二日どころか、休みは日曜だけ。

それでも「辞めたら次がない」と怯えて、今日まで粘ってきた。


もう限界だ。

身体は鉛みたいに重いし、夜中に目が覚めて天井を見つめる時間が長くなっている。

鏡に映る自分の顔は、30歳というより40代後半に見える。

「いい加減に! 人生逆転イベント来いよォ!」

弁当の蓋を投げ捨て、俺は天井に向かって叫んだ。

半分冗談、半分本気。

こんな自分が嫌で嫌で仕方ない。


その瞬間だった。

頭の奥で、何かが弾けた。

――カチリ。

まるで錠が外れるような、乾いた音。

視界の端が一瞬だけ白く光って、すぐに収まった。

「……何だ、今の」

首を振る。

気のせいかと思ったが、胸の奥に熱い塊が残っている。

なんだろう、この感覚。

まるで体の中に新しい器官が生まれたみたいだ。

ふと、俺の脳裏に一つの言葉が浮かんだ。


命令オーダー


意味なんてわからない。

でも、それが「能力」の名前だと、直感的に理解できた。

「顔を思い浮かべて、念じれば……その人間に何でもさせられる……?」

笑ってしまう。

そんな漫画みたいな話、あるわけないだろ。

でも、試してみたくてたまらなかった。


俺はスマホを取り出し、会社のグループチャットを開く。

一番上に、五味山太郎のアイコン。

あのハゲ散った頭と、常に上目遣いで睨んでくる目つき。

「……五味山」

俺は目を閉じて、その顔を鮮明に思い浮かべた。

そして、心の中で強く念じた。


『スマホの画像を全部、ネットで公開しろ』


一瞬、頭がズキンと痛んだ。

まるで脳に針を刺されたような感覚。

でもすぐに引いて、代わりに奇妙な達成感が広がった。

「……ははっ。バカらしい」

俺はベッドに倒れ込み、電気を消した。

どうせ何も起こらない。

そんな都合のいい力なんて、このクソみたいな世界に存在するはずがない。

そう思って眠りについた。




翌朝。

いつも通り、ぎりぎりで出社した俺を迎えたのは、社内の異様な空気だった。

「五味山さん、クビだってよ……」

「マジで? 何したんだっけ」

「いや、ニュースになってるぞ。スマホの中の盗撮画像、全部ネットに流したらしい」

「え、盗撮って……女子トイレとか?」

「それだけじゃねぇよ。取引先の機密っぽいのもあったみたいで、警察動いてるってさ」


俺は凍りついた。

デスクに座ったまま、スマホで検索をかける。

トレンド一位。

『ブラック企業中堅社員、大量盗撮データを一斉公開 自社女性社員含む2000枚超』

記事の見出しの下に、五味山の顔写真。

あの、いつも俺を怒鳴り散らしていた顔が、青ざめて俯いている。

「……マジかよ」


俺は席を立った。

誰にも気づかれないよう、そっとトイレに駆け込む。

個室のドアを閉め、鍵をかける。

そして、拳を握りしめた。

「うおおおおおおっ!!」

小さく、でも全力でガッツポーズ。

膝がガクガク震える。

心臓がバクバクと暴れまわる。

「本物だ……本物なんだ……!」

笑いが止まらない。

涙まで出てきた。

俺は壁に額を押しつけ、声を絞り出すように呟いた。

「決めた……。俺は……この世界の神になる……!」

その言葉が、狭い個室の中で反響した。

まるで、これから始まる長い物語の、最初の呪文のように。




その日の夜。

俺はベッドに寝転がったまま、天井の薄汚れたシミを眺めながら、昼間の高揚が徐々に引いていくのを感じていた。

「神になる……か」

自分で言ってて、ちょっと寒気がした。

ライトみたいに大それた理想を抱いて、最後は自分が潰れるパターンなんて御免だ。

俺はそんなカッコつけた生き方はしたくない。

ただ、俺の欲望に正直に生きる。

それでいい。


中卒であることへの劣等感は、今でも胸の奥でくすぶってる。

SNSで流れてくる、大手企業のエリートたちの写真を見るたび、胃がキリキリする。

高級スーツに身を包み、ピカピカの外車をバックに笑ってる姿。

俺には一生縁がないと思っていた世界。

でも、俺だって一度でいいから、ああいう場所に立ってみたかった。


「……そうだな」

スマホを手に取る。

指先が微かに震えながら、検索窓に打ち込んだ。

『トヨンタ自動車 社長』

画像がずらりと並ぶ。

一番上に表示されたのは、50代半ばくらいの男。

銀縁のメガネ越しに鋭い視線を投げかけつつ、口元には余裕のある微笑。

スーツの仕立てがいいのが一目でわかる。

俺はその写真を拡大して、じっと見つめた。

「これだ」


深く息を吸い込み、目を閉じる。

その顔の輪郭、眉の形、髪の生え際、すべてを脳裏に刻み込む。

そして、心の底から強く念じた。

『俺を採用しろ』

ズキン、と頭の奥が一瞬だけ締めつけられた。

でもすぐに、遠くで何かが「繋がった」ような、手応えのある感覚が広がる。

「……よし」

スマホを放り投げ、電気を消した。

胸の鼓動がなかなか収まらなくて、なかなか眠れなかったが、

それでも、確信はあった。

明日、俺の人生が変わる。




翌朝。

目覚ましより先に目が覚めた。

心臓がドクドクと暴れている。

スマホでトヨンタ自動車の本社代表番号を検索。

東京・千代田区にある本社の連絡先。

指が震えながらも、なんとかタップする。


呼び出し音が二回鳴ったところで、落ち着いた女性の声。

「はい、トヨンタ自動車でございます」

俺は喉の奥で唾を飲み込み、声を出す。

「……人事部の方にお繋ぎいただけますか。

採用の件で……田中ギアスと申します」

短い沈黙。

掌にじっとりと汗が浮かぶ。

「……少々お待ちくださいませ」

保留音が流れる。

20秒ほどで、男性の声に切り替わった。

低く、落ち着いた響き。

「人事部の高橋です。田中様ですね。

……本日、至急でお越しいただけますでしょうか。

面接をさせていただきたいのですが」

俺は息を止めた。

「……今から、ですか?」

「はい。可能な限り早くにお願いいたします。

本社にてお待ちしております」

電話が切れた瞬間、俺はベッドから跳ね起きた。

「マジかよ……マジで……!」


慌てて服を着替える。

シャツのボタンを二つ掛け違えて、鏡の前で慌てて直す。

映った自分の目は、昨日までのどんよりした色じゃなかった。

ギラギラと、獰猛な光を宿している。

玄関のドアを開け、外の空気を吸い込む。

「行くぞ……トヨンタの本社へ」

心の中で、静かに、でも力強く呟いた。

これが、俺の新しい人生の、最初の階段──。

「いや、待て」

俺はいったん帰宅し、わざとくたびれたグレーのジャージ姿に着替えた。能力が本物なら、こんな格好でだってどうにでもなるはずだ。


家を出て、今度こそトヨンタ自動車の本社ビルに乗り込む。

ポリエステル素材が擦れてシャリシャリ音を立てる。膝の部分は白く毛羽立ち、袖口のゴムは伸びきってだらしなく垂れ下がっている。

足元のスニーカーは踵がすり減って、歩くたびにペタン、ペタンと情けない音が響く。

髪は寝癖のまま、髭は二日剃っていない。

鏡に映った自分の姿を見て、俺は小さく笑った。

これで大手企業の面接に来る奴なんて、普通なら警備員に追い返される。

でも、俺には関係ない。


エントランスの受付で女性が一瞬固まった。

視線が俺のジャージを上から下まで舐め回すように動く。

でもプロの笑顔を貼り付けて、すぐに名刺トレイを差し出してきた。

「田中ギアス様ですね。人事部の高橋がお迎えに上がりますので、こちらでお待ちください」

エレベーターで20階へ。

鏡に映る俺の姿が、周囲のスーツ軍団の中で異様に浮いている。

誰も口には出さないが、背中に刺すような視線が何本も突き刺さる。


会議室のドアを開けた瞬間、空気が凍りついた。

長テーブルの向こうに四人。

中央に座る社長――銀縁メガネの50代半ばの男――が、俺を見た瞬間、明らかに瞳を輝かせた。

まるで、喉の渇きに耐えかねていた者がようやく水を見つけたような、貪るような視線。

その両脇に人事部長と役員二人。

三人の顔は、明らかに強張っている。

眉間に深い皺が刻まれ、唇が引き結ばれ、目が冷たく細められている。

「田中ギアスさん!」

社長が立ち上がり、両手を広げて俺を迎え入れた。

声が弾んでいる。

抑えきれない喜びが、顔全体に溢れ出している。

「ようこそ! 本当に……本当に来てくれてありがとうございます!」


人事部長が慌てて立ち上がり、社長の腕を軽く押さえた。

「社長……落ち着いてください」

だが社長はそれを振り払い、俺の方へ一歩、二歩と近づいてくる。

「落ち着けない!

今朝から頭の中があなたでいっぱいなんです。

田中さんを、絶対にうちの会社に入れなければならない。

今すぐ、今日からでも、明日からでもいい。

あなたさえいてくれれば……それだけでいいんです!」

部屋の空気が、重く淀む。


役員の一人――眼鏡をかけた女性――が、思わず声を上げた。

「……社長、これは……」

もう一人の役員が、テーブルを叩きそうになるのを必死に抑えている。

額に青筋が浮かび、拳が震えている。

人事部長が、震える声でフォローしようとした。

「履歴書を確認しましたが……学歴は中学卒業、職歴も一社のみで……しかもこの服装……」

社長が振り向いて、鋭く睨みつけた。

「そんなことはどうでもいい!

田中さんが来てくれるなら、何だって構わない。

中卒だろうが、無職だろうが、ジャージだろうが関係ない!

彼が必要だ。

今、この瞬間に、彼をうちの人間にしたいんだ!」


三人の視線が、俺に突き刺さる。

そこには、怒り、嫌悪、拒絶が渦巻いていた。

女性役員の唇が震え、目尻に涙が滲んでいる。

もう一人の役員は、歯を食いしばって俺を睨みつけている。

人事部長はファイルを握りしめ、指の関節が白くなるほど力を込めている。

「……こんな人間を……」

女性役員が、ついに小さな声で呟いた。

「こんな……みすぼらしい格好で、経歴も終わってる人間を……採用するなんて……」

社長はそれを無視して、俺に向き直った。

メガネの奥の瞳が、熱く燃えている。

「田中さん。

どうか、うちに来てください。

給与は……もちろん最高ランクで。

役職も、あなたの希望を最優先に。

何だってします。

あなたさえいてくれれば……」

俺はゆっくりと席に腰を下ろした。

ジャージの裾が椅子に擦れて、シャリッという音が響く。

三人の視線が、さらに鋭くなる。


「……わかりました。

採用していただけるなら、喜んで」

その言葉を聞いた瞬間、社長の顔がパッと輝いた。

まるで、人生で一番の喜びを味わったような、無邪気な笑顔。

「本当ですか! 素晴らしい!

では、今日からあなたはトヨンタ自動車の社員です!

配属は……私が直接決めます。

いや、あなたが望むなら、どこだって!」


人事部長が、震える手で書類を差し出した。

「……こちらに……サインを……」

俺はペンを握り、さらさらと署名した。

三人の視線が、俺の手に突き刺さる。

そこには、純粋な嫌悪と、抑えきれない怒りが渦巻いていた。

社長だけが、嬉しそうに息を弾ませている。

ドアを出る瞬間、社長が後ろから追いかけてきて、俺の肩に手を置いた。

その手は、興奮で熱く、微かに震えていた。

「田中さん……本当に、ありがとう。

これで……やっと、心が満たされます」

背後で、三人の重い溜息が聞こえた。


ドアが閉まる音が、カチリと響いて、静寂が訪れた。

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