5 忘れられない、あの日。
「この間までカルチャースクールでピアノ講師をしてました……諸事情ありまして退職し、現在ニート歴約一ヶ月です」
即席プロフィールは、不器用で口下手な私にはそこそこ上出来なものだった。
いらないことは省き端的に状況を伝えられている。
推しの前で死ぬほど緊張している事を考えたら上出来では?
よし。
時間の搾取を最小限に食い止めた!
なんて自画自賛していたのもつかの間だった。
「ピアノか!」
彼の目が、微かに光を帯びる。
(ちょっと待って。まだ会話を広げるの?)
私は愕然とするが、彼には全く伝わっていないらしく。
「幼い頃、1週間だけピアノ教室に通ったことがある。右手と左手がバラバラで意味がわからない。俺にとって唯一の挫折だ。あれを極めるとは、君は真面目で根気強いんだな」
まるで世間話のようにそう続ける。
「いえいえいえいえいえ、とんでもございません!」
いきなり意味もなく持ち上げられ、私は何の罠なのかと震えあがる。やらかしの後なので余計に不安だ。
「ただ好きだから続いただけです。音大も出ていないのに、学生時代のバイトからそのまんま……就職活動もしていない甘ちゃんです」
過度な自分下げには理由がある。烏丸さんだけではない。会場に来ている3000人ほどの時間を私なんぞのために消費させるのが忍びないのだ。
頭にあるのは「私のことはほっといてください」。それだけだ。だってほら、時間は命なわけだから。
しかし気遣いはカリスマに伝わらない。
「バイトの拾い上げか」
また無駄に興味津々な口調である。本気でやめてほしい。
そして何気なく、こう呟いたのだ。
「音大を出てないのに採用されるとは。珍しいな」
あ……。
つきん、と心臓に痛みが走る。
音大をでてない講師は邪魔だ、と同僚に責め立てられ、店長には止められたが退職を決めた。 そのトラウマが蘇ってしまった。
どんより気分になってしまった私に、烏丸さんはさらに踏み込んできた。
「もしうちに来たら、どんな変革を起こす? プレゼンしてみろ」
私は恨めしげな目で烏丸さんを見てしまう。
そんなシミュレーションしても仕方ない……。
だって私は……。