17 特等席
何故そんな欲望まみれな夢を見てしまったのか。
(どうしちゃったんだろ。私……欲求不満かな)
だって、それ以外、あんな夢の説明がつかない。
男性との接触が極端に少なかったから、そのせいで?
いや、だとしても、発情しすぎでしょ。
男性の部屋で一晩過ごしてしまった。無防備に眠ってしまったのに、烏丸さんは紳士だった……。
それなのに、私ったら……。
夢で彼にキスされた時、気がついたことがある。
(私、全然嫌がってなかった……)
あれは夢だけど、でも、仮に現実だったとしたら。
私、きっと流されてる。
かっ、と全身の血液が頬に上がっていく。
(ああ、ダメダメだ……)
本当に、自分が自分じゃなくなったみたい。こんな軽い女じゃなかったはずなのに。
気分のアップダウンを感じながら洗面所へ。
顔を洗ってさっぱりしたはずの己を見つめ、ため息をつく。
頬が紅潮し、目が、どこか潤んでいる。
たった一日で、違う人間になってしまった。
推しだったし、あんなに素敵な人だし、実はさり気なく優しかったりするから、ときめくのは仕方ない。
わかっているけれど、まさか、一足飛びにキスなんて。
妄想だとしても、なんだか自分が、本当に浅ましく思えてがっかりする。
と、こんがりと焼けたトーストの香りが鼻腔に届く。
(ん?)
ひくひく、とまるで兎になった気分で鼻をならしフラフラとリビングへ。
近づくに連れて、香りとともに、人の動く音が聞こえてきて、心臓が激しく高鳴っていく。
烏丸さんだ。彼の家なんだから当たり前だけど、ドアの向こうに彼がいる。
「……」
そっとドアをあけると、エプロン姿の烏丸さんが目に入った。
朝陽を浴びた彼は王子様さながらで、本気で眩しく自然に目がぱちぱちになる。
彼は私に気づいて微笑んだ。
「お、起きたのか」
キラキラをまとった優しい笑み。
「おはよう……ございます」
はにかみながら、挨拶を。
「おはよう」
私の大好きなバリトンボイス。
(冷静だわ……全然昨日と変わらない……)
つまり、やっぱりあれは夢だったのだ。燃えるように熱くなる唇に戸惑いながらも、私は改めてそう思う。
発情決定。女だなあ私。自覚できたのはいい事だ。無自覚に深層心理をばらまくのが1番怖い。
「すみません。私ったら。寝ちゃうなんて」
そのうえ、淫らな幻覚まで見てしまいました、と心の中で頭を下げる。
「いや。むしろ助かった。最近よく眠れなかったんだ。君のピアノのおかげで久しぶりにぐっすりだ」
役に立った、とさり気なく伝えられ、罪悪感が払拭される。それなら良かった。
(音楽を好きになりましたか? なんて聞いてみたいけれど)
やっぱりやめよう。
君の音楽なら、ってまた言われたら、舞い上がってしまいそうだから。
テーブルの上には白いお皿に盛り付けられた、トーストと目玉焼きに色鮮やかなサラダ、そしてとっても良い香りがするかぼちゃのスープがあった。
香りの正体はこれだったか。
「烏丸さん、お料理上手ですね……! なんでも出来るんだ……」
「弊社のプロモーションに貢献してくれたご褒美だ。どうぞ」
レストランみたいに椅子をひかれて、私はボーっとしながら腰をかける。
(プロモーション?)
舞台でピアノを弾いたから?
確かに盛り上がったけれど、路上の天使、なんて言われてて、烏丸商事とは無関係だったのに。
(それでも……ご褒美は嬉しいな)
朝陽が眩しい。烏丸さんの体に後光がさして見えるほど。
美貌にたっぷり見とれた後、カトラリーに映った己の顔にぎょっとした。
「あっ。私ったらすっぴんで……!」
思わず顔に両手をあてる。
「今更」
烏丸さんは隣に座りながら、くすりと笑う。
「メイクを……!」
「素顔でも可愛い。俺は好きだぞ」
さらっと言われて、口ごもる。
好き……。
そのフレーズは、ちょっと禁句だ。
嬉しいだけじゃなく、ときめいているのを、いつかこの人に気づかれてしまう。
距離がちょっと近いだけで、もう心臓が爆発しそうだ。
「じゃ、このままで」
「うん」
彼の作ってくれた朝食はどれもとても美味しくて、心と胃袋が満たされていく。
さっきまでひたすら、反省と後悔を繰り返していたのに、今は……意味もなく、とても楽しい。
頭の中に、昨日からのあれこれが浮かび上がる。
洋服を選んでくれて、最高の舞台を用意してくれて、そして、美味しい朝食を作ってくれて。
命より大事、という彼の時間を、どれほど捧げてくれただろう。
込み上げてくるものがあり、私は彼に向き合った。
「烏丸さん。私、決めました。あなたのために生きていきます」
コーヒーを優雅に飲んでいた烏丸さんが一瞬、噴き出しそうになった。
「はあ???」
「あっ。大丈夫ですか?? すみません。急に変な事を言いまして」
「自覚はあるのか……」
「ええ」
烏丸さんは、眉根を寄せて私を凝視している。
「……なんかこう、言いたいことは沢山あるが、まあいい。続けて」
「はい」
私は神妙に頷いた。
こんな事、わざわざ言うべきじゃないのかも。でも、自分に起きた大きな変化の、そのきっかけは、あなただという、私にとっては大事な事を、今この瞬間に伝えたくなったのだ。
「もうバレちゃってると思うんですけど……私、やりたいことが特にないんです……好きなものは沢山あるけれど、それを仕事にしたいとか、そもそもどんな仕事をしたいとか全然考えたこともなくて。就職も御縁のある場所で頑張ろうと思っていました。色々ラッキーが重なって、ピアノの講師になれたのに、ちょっと意地悪された程度で辞めてしまいましたし」
「ちょっと意地悪されただけ……あれがか?」
烏丸さんは考え込んでいる。
昨日、棘山さんの最悪すぎるパフォーマンスを見たから、当然だ。
「でも、本当にやりたい仕事なら、そんな事で引いたりしない。そもそも、本気でピアノ講師になりたかったら、音楽関係の大学に行っていたと思います。私はあくまでも、普通のOLになりたかったわけで」
「大手企業の誘いも断わったしな」
「はい。私にそんな資格はないと思ったから」
そう。私はちょっとしたきっかけで、座っている椅子を誰かに平気で譲ってしまう。
情けない人間だ。
「でも、今、そう。たった今思ったんです。あなたの隣だけは譲りたくない……って」
照れくさくなって、目を伏せるが、烏丸さんの眉が、くっと上がるのはしっかり見た。
そうなのだ。正面じゃなくて、彼が隣に座った。
そんな些細な出来事が、私のスイッチをカチリと押した。
あ、この位置が好き、と。
そう思えたのだ。
邪まな気持ちが全くないとは言えない。そもそも私はこの人の声を聞くだけで意味もなく元気になれるから。
特等席をいただいて、本物のラッキーガールにしてくれたお礼に、出来るだけ、彼のお役に立とう。
私はそう決意する。
「だから、改めてよろしくお願いします!」
全部言えた。ホッとすると同時に、ふにゃりと顔が緩んでしまう。
「何だか、ミーハーすぎますかね。でも、自分では、凄く嬉しくて。深い霧が晴れたようなそんな気分なんです」
そう。どこに向かうか、ただ闇雲に進むだけじゃなく、方角だけは、灯台みたいに、薄ぼんやりとだけれど見えている。
それだけで、どれほど心強いか。
生まれ変わったような気持ちにさせてくれたのは、烏丸さんの、強引な肯定のおかげだ。
この人にダイヤモンドなんて言われたのだもの。
たとえ石ころだったとしても、輝くように生きてみよう。
烏丸さんは苦笑する。
「確かに俺の隣は特等席だ。うかうかしてたら、すぐに埋まるだろうな」
「ええ。だから、そうならないよう、頑張ります」
烏丸さんは、ニッと笑った。
何だか含みのある笑みに見えて、私は一瞬ドキッとする。
「いい心がけだ。君を採用してよかった。というわけで、じゃあ、いっそのこと、結婚するか」
さらり、と言われて、私は顔を赤くした。
「あっ。いえ、そういうつもりじゃ! ごめんなさい。勘違いさせてしまいましたか。そこまで厚かましくはないです。ごめんなさい」
「今以上の特等席を用意しようと言ってるんだが」
「烏丸さんっ! 早まっちゃ駄目ですっ! それは駄目!」
私は烏丸魔王のファンであり忠犬になりつつあるが、それでも、いや、だからこそ、超えてはならないラインがあった。
「私、ちゃんとわきまえてますから。適切な距離を保ちます……! なので、気を遣わないでください」
私は、テーブルに手で見えない線を引いてみせた。
(うん。これくらいがちょうどいい)
ただでさえ、暑苦しい私なのだ。
怖がられないように気をつけなきゃ。
「もしかして、俺との結婚がいやなのか?」
「はい」
ごく自然に聞かれたから、ごく自然に答えてしまった。
彼を安心させたかったのに、どこか傷ついたような顔をするから……。意味もなく罪悪感に駆られてしまう。私なんかに拒否されて、彼がショックを受けるわけなんてないのに。
「理由は? 誰もが羨む男だぞ。俺は。君が思っているより、いいところも沢山ある。見た目や肩書以上に」
「勿論です! だからですよ。そんな完璧な人と結婚だなんて。私なんかより、もっと相応しい人がいるはずですから」
口にした瞬間、胸が激しく痛むから本当はそんな未来、望んではいないけれど。
今の私ができる最大限の気遣いだ。
「わかった」
彼は私の背中に片手を回して引き寄せた。
「君との距離は俺が決める」
指が私の顎をそっとつまんだ。
ドキン、と心臓が跳ね上がる。
彼の目が眩しそうに細められた。目が合った瞬間から恥ずかしいくらいに胸がざわめく。
烏丸さんは私の髪の毛に右手を差し入れると、唇を重ねてきた。
噛みつくようなそのキスを、私は両目を見開いたまま受け止める。
「んっ……んんっ……」
烏丸さんも目をあけているから、長いまつ毛が眉のあたりに当たっている。
(この感じ、知ってる!!)
最初に思ったのは、それだった。
すぐに唇は離れていった。
「あのな、キスする時は目を閉じて」
「えっ!!」
私は真っ赤になって立ち上がる。
逃げ出したい気持ちと、このまま流されたい気持ちがごちゃ混ぜになって、もうどうしていいかわからない。
恋がこの瞬間動き出したと気づくのは、それからしばらくしてからのことだった。




