1 運命の人に出会いました
勤めていた音楽教室をやめた。ピアノ講師歴五年目、8月のことだった。
「なぜ秘書課出身なのに音楽講師に?」
ハローワークで黒髪ショートボブの担当女性に尋ねられ私は肩をすくめながら説明する。
「学生時代に講師のバイトを……店長の引きでそのまま正社員に抜擢です」
「抜擢? 結果的に余計なお世話だったのでは? 人生の選択を間違えましたね。新卒の五年は貴重ですよ」
ああ、デジャヴ。
母は「だから普通のОLになりなさい言うたでしょ!」と私をなじり、件の店長は「倉田先生の未来を潰してしまって」と項垂れた。
まだ25歳。一度くらいの転職で大げさな。
店長のセリフは流石にそう笑い飛ばせたけれど、これで3度目の苦言である。もしかして私、結構ヤバい?
「まあ、今後は地に足のついた正しい選択をしてください。それから……高望みはやめるように」
高望みなんてしてなくて、ただただ流されてそうなっただけで……。ていうか、それが駄目だったのかな……。
言われっぱなしで面談終了。失業手当は3ヶ月後だそう。
(…………何なのよ)
なんだか、ひどくむしゃくしゃして、自然に足が土手へと向かう。キョロキョロと周りを見て、人影チェック。誰もいない。私は大きく深呼吸をすると、川に向かって大声で叫んだ。
「モチベーションだだ下がりじゃない! それでもプロ!? この、税金ドロボーーーーーーーー!!!!!」
迷える仔羊をさらなる迷路へと引っぱりこんでどうすんの。少なくとも私は今、途方に暮れている。
「えっ? 泥棒?」
正面の木陰からカップル二人が顔を出し、ぎょっとしたような顔で私を見る。
「あっ、ごめんなさい。お邪魔しましたっ」
申し訳なさに慌てて逃げ出した。
それから無我夢中で電車に乗り、車窓の景色なんか全く目に入らぬまま、駅に到着。
いつもの数倍時間をかけて、よろよろとアパートのドア前にたどり着く。
2DKの部屋へと転がり込み、スーツ姿のままソファへとダイブ。
隅っこの電子ピアノを一瞬眺め、すぐに視線をそらした。
クッションをギュッと抱きしめて独りごちる。
人生の選択を間違えました……かあ……。
私はどこにでもいる無職の女。ついてないけど、不幸じゃない。いつだってやり直し可能なはずだ。
気力もあるし、体も元気。まだまだこれからなのに……。
何故他人が私の人生を悲観するわけ?
「はあああ、塩を振りかけられたナメクジ気分だ」
前向きと言われる私だが、流石に凹んだ。
嘘でもいいから、こんな時、誰かに大丈夫、って言って欲しい。
スマホの連絡先を眺める私。
(……いないね)
友達のほとんどは田舎だし、普通のOLになるべき、と何人かからアドバイスを受けている。
「だから言ったのに」と母と同じセリフを言われるのがオチだ。
暇つぶしにとタブレットを起動。何気なく動画サイトをひらく。
たまたま知らないチャンネルをクリックしてしまったらしく、よく通るバリトンが流れて来た。
「過去を嘆くな。君の選択は全て正しい」
(え?)
私は体を起こし、タブレットを掴んだ。
そこに映っていたのは自己啓発系動画にありがちな、白い背景にスーツ姿の男性が座り真面目な顔で語りかけてくるというものだった。しかしありきたりなのは背景のみ。
男性のビジュアルは、瞬きを忘れて見入ってしまうほど飛び抜けていた。
広い額に無造作に分けられたサラサラの黒髪。高い鼻梁。シャープな顎。
ハリウッドスターさながらの、完璧すぎるルックス。
オフィスとおぼしき無機質な空間で、圧倒的な存在感と輝くオーラを放っている。
(かっこいい……!)
私は思わず身を乗り出した。イケメン、スパダリ、いや、どんな言葉も到底足りない端正な顔。
しかし肝心なのはそこじゃない。
薄く形のいい唇から流れるよく通るバリトン。
耳がいい私は自他共に認める声フェチだ。そんな私の鼓膜を、彼の声は甘く震わせた。
はっきり言って一生聞いていられると思う。それくらい好きな声だった。
「どうせ無理? 始めたのが遅すぎる? できるわけがない。世の中はそんな言葉で溢れてる。君のやる気を奪い挑戦を阻む悪魔の言葉だ。今すぐゴミ箱に捨ててしまえ」
私は昼間の職員を思い出す。まるでモニタリングされてたかのような完璧なタイミング。
『変わろうと思った瞬間に人は変われる。過去なんて関係ない。大切なのは一歩前へ、踏み出す勇気だ』
彼……烏丸さんは、はまっすぐな瞳でそう締めくくる。
「人生の選択を間違えましたね」
グワングワンと頭の中で鳴り響いていたノイズが、超ど級の美声に上書きされて消えて行く。
ミルクのような霧に覆われていた視界が、一筋の太陽で祓われるような、思考が一気にクリアになっていく感覚。
すっぽりと空いた心のスペースに彼の言葉だけが深く刻まれた。
大切なのは過去じゃなくて未来。そう。今度こそ正しい道を選べばいい。ぐるぐるしていた胸の中の羅針盤がぐぐぐ、と一点を指すのがわかる。
「失業手当をもらいつつ、自分に合った仕事をじっくり選ぼう」
方針が決まった。最高である。
彼の名は烏丸怜。
日本を代表する総合商社、烏丸商事のCEO。2年前に先代から代替わりをしたばかりの若社長だ。御年29歳だが貫禄がありもう少し年上に見える。
私は一言一句を暗唱できるまで鬼リピした。
その時ちょうど1週間後に迫っていた会社説明会への参加を決めたのは、烏丸信者と化した私にとって、必然だった。
それは熱い、運命の日。
スポットライトをかき消すほどの輝きを放ち、カリスマは颯爽と現れた。
「今から未来の話をしましょう」
壇上から放たれたバリトンが、三千人収容のホールを一瞬で支配する。
胸を震わせるその声に、私は思わず息を呑んだ。
黒髪を無造作に分けた若きCEO、烏丸怜。
日本を代表する烏丸商事のトップにして、光り輝く私の『推し』。
その鋭い視線がふと客席に止まった瞬間、心臓が跳ねる。
(……今、私を見た?)
気のせいだってわかってる。でも、顔が熱くなる。
探し物を見つけたような目だと感じた。
──そう。この数分後、この神様の手によって、私が地獄に突き落とされるとも知らずに。