「私」という人間がいる場所で贈られた言葉
一階が、もうすごく騒がしい……。
枕元で充電していたスマホを掴んで時間を確認すると朝8時。
ふたりが同じ部屋で寝たという興奮を加味したら、まあ寝た方なのでは……と思って、ふたりが寝ていた布団の方をみたら、私の本が積み木のように積み上がっていた。
たぶん早く起きたどちらかが、暇を持て余して本を積み木にして遊んでいたのだろう。
そして一階でおばあちゃんが起きてる……と気がついて降りて行った……と。
「……起きなきゃ……」
と思うけど、立ち上がりたくない。
育児で一番つらいのは土曜日も日曜日も朝が早いことだと思う。
もっと寝たい、ダラダラしたい。正直誰かが見てくれるなら甘えたいけど、うちの両親は忙しい居酒屋を経営していて、おばあちゃんはその居酒屋の台所を使って高齢者用のお弁当を作って販売している。
土日も休まず営業、定休日は無い。
正直私より働いているので、仁菜を任せるのは気が引ける。
「よいしょー」
私は声を出して立ち上がった。
そして私の布団を半分に折る。そして仁菜の布団を畳もうと思って止める。
今日は土曜日で、朝からフルテンションで遊ぶふたりは、昼過ぎに絶対お昼寝をする。
今のうちに仁菜の布団を一階に持っていって、縁側近くに置いておこう……と私は布団を持って一階に下りた。
階段を下りながら、私は昨日の夜、眠そうに目をこする広瀬さんのことを思い出していた。
コンタクトを外して眼鏡状態で部屋着。その状態でプリンを食べて、ぼんやりと「眠い」って、そんなのリュウくんと同じすぎる。
目をこすっている動きも動作もリュウくんにそっくりで、私は心の中で笑っていた。
でも正直、私が広瀬さんの状態に突然なったら、かなり大変だと思う。
広瀬さんの立場だと、そんな簡単に「実家が大変で」と仕事内容を変更できないだろう。
私の大変さは仁菜がリュウくんといると倍うるさいということだけ。
仁菜が楽しいならそれで良いし、月曜日には彩音さんが帰ってくるから少し落ち着くだろう。
「おはようー」
布団を縁側近くにおいてリビングに行くと、部屋中に紙が散らばり、色鉛筆が落ちている。
私はそれを拾いながら仁菜の横に座った。
仁菜はぐりぐりとお絵かきしながら、
「菜穂ちゃんおはよう。仁菜はもう朝ご飯たべて歯磨きもしたよ。さ、遊ぼっか」
「まだ8時だから、せめて9時かな。じゃあ今日はリュウくんがいるから、でかブロックで銃作ったら?」
「するする!」
そう言って仁菜とリュウくんは、我が家通称『でかブロック』……学研のニューブロックという、形が色々あって銃でも棒でもなんでも作れる有能なブロック……をひっくり返して何か作り始めた。
こども園で知ったんだけど、レゴブロックみたいに小さくなくて自由度が高いので、うちはこれを大量に持っている。
リュウくんが一緒ならこれで30分は持つ……と。
まずは朝ご飯を食べて洗濯物を片付けて準備して……と思っていたら、玄関のチャイムがなり、そこに広瀬さんが立っていた。
「おはようございます」
「! 広瀬さん、おはようございます。早いですね」
「夜お願いして朝もお任せのままじゃ申し訳なくて」
「いえいえ。ふたりは今遊んでいるので大丈夫ですよ」
「迷惑なんじゃないか?」
話していたら、声を聞いたお父さんが私の後ろにきて、
「おお、広瀬さん、おはようございます。やっとゆっくり話せるね。朝ご飯食べた? 入りなよ」
と言い始めた。
うちはお母さんとお父さん、両方が家事をする。
お母さんができることはお父さんもできる……という感じなんだけど、そうじゃないとランチも回しているあの店を続けるのは難しい。
主にランチをお母さんが担当、夜をお父さんが担当している都合上、朝はお父さんが家事をしている。
でも上司を普通に家に入れて朝ご飯を一緒に食べるのは……と思って動揺していたら、広瀬さんも私を見て「(良いのか……? どうすれば……?)」という表情をしている。当然の戸惑い……分かる。
私はクスリと笑い、
「あの、たぶん上司として……より、リュウくんの保護者として父は『はいって』と言ってるんだと思います。それにこれからの事も父に話しておくと、良いかなと」
「そうだな」
そう言って広瀬さんは玄関で頭を下げて、
「昨日はお弁当と水筒をありがとうございました。来週からはこっちで対応しますので……」
「なんだよ、固いな。子どもの弁当なんてちゃちゃっと終わるって。いーって、入りなって。朝ご飯食べたの?」
「冷凍おにぎりをひとつ……」
「そんなんじゃ身体持たないよ。食事は一日三回、分割して栄養ちゃんと取らないと。はい、入って入って。リュウくんはもうお腹いっぱい食べたからね」
そう言ってお父さんは広瀬さんを家に招き入れた。
お父さんは若い頃から料理をしていて、おじいちゃんが持っていた居酒屋を継いでからは、もうずっと『地域のおじさん』だ。
居酒屋は常連さんが多いし、店の活気に惹かれて入ってくるご新規さんも多い。
それはお父さんの性格も大きいと思う。
広瀬さんはものすごく申し訳なさそうに家に入り、並べられた朝ご飯を見て驚愕した。
「朝から豪華ですね」
「すまんが全部昨日の店の残りなんだわ。シャケは母さんが食べて行ったからないわ」
「いえいえ、美味しそうです」
「どうぞどうぞ。菜穂は朝は少ししか食べなくて張り合いないから、食べて食べて」
そう言ってお父さんは私と広瀬さんを横並びに座らせて、どんどんご飯を出した。
きんぴらに、煮物、焼き鳥の残りを卵でとじたもの、刺身のつまをドレッシングで和えたもの、そして昨日店で残った食材をすべて煮込んだ豚汁。
いつも通りの朝ご飯だ。広瀬さんは出されたものをすべて、
「めちゃくちゃ美味しいです。すごいです」
と言って食べてくれた。
私はもう……朝からこんなのは無理。
いつも具だくさんすぎて汁が少なすぎない? って思う味噌汁と、きんぴらだけでお腹がいっぱいだ。
でも広瀬さんはお父さんが調子にのってあれこれ出す物をすべて食べているのでさすがに心配になり、
「あの、無理して食べなくて大丈夫ですよ。そういうことすると無限に出てくるので」
「いや。実は昨日忙しくてまともに食事してない。夜作ったうどん以外、ほとんど食べてないんだ。だから身体に染み渡る」
「なんだ菜穂、家に売るほどあるんだから持っていけよ。あ、売れ残りだった。あはははは、売れてねえ~」
「朝からうるさ……」
私は思わずお父さんに文句を言った。
横で広瀬さんが声をあげて笑っている。お父さんは「腹が空いている? 食え食え!」の人で、そのテンションのまま居酒屋を経営している。
料理を私に強要したりしないけど、まあうちの冷蔵庫は常にパンパンで、消費してくれる人を募集してるのは分かる。
広瀬さんが現状報告をお父さんにすると、お父さんは静かに頷いて、
「ひかるが倒れたときに広瀬さん一家にお世話になったんだよ。庭も勝手に入って穴掘って、なんか作ってもらってなあ。俺はああいうのは何もできないから尊敬してるんだよ。だから俺は広瀬さんの所はもう親戚だと思ってる。何も気にせずに頼れ」
と言った。広瀬さんは「……ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」と深く頭をさげた。
そこにお父さんが目の前の席に座って、
「んで、上司さんなんだろ? 菜穂の仕事ぶりはどうなんだ。『営業なんてやだー、無理ー、できないー』って泣いてたけど」
「お父さん!!」
広瀬さんは箸を置いてまっすぐにお父さんを見て、
「海野さんは本当に優秀な営業です。うちの課になくてはならない人で、俺が抜けるより海野さんが抜けたほうが課のダメージは大きい。気難しい店長たちも海野さんなら心を開いてくれて、本当に助かっているんです。でもその優しい人柄は、こういう家庭で育ったからなんだな……と今実感しています」
「!」
私は仕事のことを褒められただけじゃない、家族のことまで褒められて嬉しくなって、お父さんを怒るために立ち上がったのに、その場にするすると座り込んでしまった。
お父さんは今までみたことがないくらい笑顔になり、
「父として娘をそんな風に褒めてもらうほど嬉しいことはない。ありがとう」
「いえ、本当のことです。どうして難しい店長たちが軒並み海野には心を開くのか……分かりました」
「あ? 俺が変人だって言いたいのか?」
「いえ、そうではなく!」
「わかっとるわ。ほら今日も庭で遊ぶんだろ? リュウくんのパンツがないから俺のを履かせようかと菜穂が一瞬悩んだらしいぞ。家からリュウくんのお着替えセット持って来て家に置いておけ」
「あ、はい分かりました。あのごちそうさまでした、本当に美味しかったです」
そう言って広瀬さんはお茶碗を流しに運び、家から出て行った。
お父さんは目を細めて、
「ええやつが上司で良かったな」
「……そうだね、それはそう思う。だから仁菜も見られてるんだよ」
「そうだな」
「でももう、余計な個人情報を広瀬さんに言わないで!」
「何が余計だった?」
「営業嫌がってたとか、そういうの!!」
「へえへえわかりましたってえ」
軽く笑いながらお父さんは立ち上がってお茶碗を片付け始めた。
私はそれを交代して台所に立つ。
私だけじゃない、お父さんも褒められたのは……かなりだいぶ嬉しかったかも。